「俺は、シャイナさんの期待を裏切って聖闘士になれなかった不肖の弟子だし、シャイナさんは星矢を――」 愛の花を掴んだ無骨な手を膝の上に落とし、カシオスが口ごもる。 その時になって、瞬は、自分が触れてはならないことに触れてしまったことに気付いた。 そして、最初に瞬の姿を認めた時、カシオスが妙な表情を自分に向けてきた本当の訳がわかったような気がしたのである。 『あんなきっつい性格してるのに、シャイナさんって結構可愛い顔してんだぜ』 以前星矢がそう言っていたことを、瞬は思い出した。 星矢は自分が口にした言葉の意味がわかっているのか――と、その時 瞬は星矢を疑った。 自分がシャイナの素顔を知っていることの意味――を、星矢は正しく理解しているのかと。 聖闘士になる女性は皆、女である事を捨てる為、その素顔を仮面で隠す。 彼女たちは、仮面の下の素顔を見られた時には、その相手を殺すか愛するかの二者択一を行なわなければならない。 ――というのが、女性が聖闘士であることのルールだった。 瞬と同じアンドロメダ島で修行したジュネなどは、そんな女聖闘士の仮面のルールなど気にした様子もなく 平気で瞬に素顔を見せるが、シャイナや魔鈴あたりは意外に古風なところがあるから、古くからの伝統を重んじていそうだった。 シャイナはかつて一度は星矢の命を奪おうとしたことがある――と聞いている。 殺そうとして、だが、殺せなかった。 それがどういう意味なのか、星矢はおそらく正しく理解していない。 アンドロメダ座の聖闘士は、その星矢の友だち――仲間という位置づけにある人間なのだ。 カシオスは、言ってみれば恋敵の友人の姿を見て、複雑な心境にならずにはいられなかったのだろう。 あの時 自分はすぐにこの春の野を立ち去るべきだったのだと、瞬は今になって後悔することになった。 まして、シャイナへの好意をカシオスに問い質すなど、決して してはならぬことだったのだ。 「あ……あのね! 僕、ずっと片思いしてる人がいるんだ! 片思いって切ないよね!」 瞬がふいにそんなことを言ってしまったのは、報われぬ恋に消沈しているカシオスの心を少しでも慰めたいと思ったからだった。 それが不適切な慰めだったことに、またしても言葉を発してしまってから気付き、瞬は内心で自分の迂闊を責めることになってしまったのだが。 瞬が口にした“慰め”は、カシオスの恋を片思いと決めつけたも同然のものだったのだ。 カシオスは、だが、瞬の無神経としか言いようのない“慰め”に腹を立てた様子は見せなかった。 言葉と話題の不適切はともかく、彼は、悲しんでいる人を慰め力づけようとした瞬の心だけは わかってくれたらしい。 カシオスは、人の失言や失態に悪意を感じようとすることのない、素直で優しい心根の持ち主のようだった。 「君は綺麗だから、誰にでも好かれるだろう。俺とは違う」 「それは、シャイナさんを侮辱する考え方だよ。シャイナさんは、カシオスの優しい心にも気付いてくれないような人なの」 「俺は別に優しくなんかないが――」 本気で自身の優しさに気付いていないように、カシオスは軽く首を横に振った。 「シャイナさんは情の篤い人だし、人の優しさに気付かないような人でもない。だが、俺のこの姿は、女性に受け入れてもらうには致命的だからな」 「そんなことないよ! 外見のこと言ったら、僕だって――僕、ほら、女の子みたいな顔してるでしょ。最初から男の子として見てもらえたことなんかなくて それで、いつもみんなに馬鹿にされてきたんだ。敵には侮られて、いつも『少女みたい』だの『細腕』だの『清楚』だのって嫌味を言われるところからバトルが始まるんだよ。聖闘士には屈辱の極みだよ!」 命をかけた戦いを共にしてきた仲間たちにも打ち明けたことのない傷心――結局はただの愚痴――を、なぜ自分は初対面も同然の大男に必死になって訴えているのかと、瞬は自分自身を訝っていた。 だが、それは、考えようによっては至極当然かつ自然なことだったのだ。 瞬の仲間には、自分の外見にコンプレックスを抱えている者はひとりもいなかったから。 「綺麗な顔にはそういう弊害があるのか。本当に花みたいに可愛いのに――大変なんだな」 「……」 瞬は、『綺麗』だの『可愛い』だのと言われることは不愉快だと懸命に訴えていたつもりだったのだが、カシオスにはその意図が全く通じていなかったらしく、彼は瞬の嫌いな言葉を実に堂々と用いてくれた。 だというのに――言われたくない言葉を重ねて言われてしまったというのに、瞬は不思議に腹が立たなかった。 腹が立たない自分に、瞬は驚きさえ覚えることになってしまったのである。 おそらく、カシオスのそれが世辞でも侮りでもなく、素直な心の吐露だから――なのだろう。 そう考えて、瞬は、待てど暮らせど腹の立ってこない自分に見切りをつけた。 「君みたいに綺麗な子が好きになる相手ってのは、どんな子なんだ。やっぱり可愛い子なのか」 「可愛い……って」 カシオスに問われて、瞬は答えに窮した。 なにしろ、瞬の片思い話は、自分の失態をごまかすための出まかせだったのだ。――出まかせのつもりだった。 カシオスの問いかけに、思い浮かぶ姿がないわけではなかったのだが。 「……可愛いところもあるんだけど、でも、どっちかというと『綺麗』の方かな」 瞬が素直な気持ちでそう答えたのは、カシオスの素直さに感化されてしまったからだったかもしれない。 素直で真摯な人間相手に、自分を偽り見えを張ろうとするのは失礼というものである。 何より、そんなことをしたら――そんなことをしている自分がみじめになる。 「優しい子か」 「それはもちろん。なーんか自分を勘違いしてて、クールを気取ろうとしてるんだけどね。ほんとは優しいから、いつも失敗してる」 「シャイナさんと同じだな。シャイナさんも本当はとても優しくて女らしい人なんだ」 「うん……。カシオスがそう言うのなら、きっとそうなんだろうね」 瞬はカシオスに 瞬がそうしたのは、できればカシオスと同じ目の高さで話をしたいと思ったからだったのだが、そうして二人共が座り込むと、視線の高低差は、また大人と子供のそれに戻ってしまった。 だが瞬は、戦闘力ではなく心の高さが 「普通の人か。聖闘士じゃなく」 「一緒に戦える人。でも、ほら、だからかえって心配なんだ。無茶ばっかりするから。戦いの外にいる人なら、安心してられるのに、それができなくて、目を離せなくて――」 「そうだな。戦いとは縁のないところにいてほしいよな。本当は――本当に優しい人なんだ」 「うん……」 瞬は、なぜか、とても穏やかな気持ちで彼に頷いた。 その穏やかさは、仲間たちといる時には感じたことのない種類の穏やかさで、瞬を不思議な気分にした。 肩肘を張らなくても、言葉や気持ちを優しく受けとめてもらえる その感触は、心や感覚の同調とでも言えばいいのだろうか。 それは、異なる波長が共鳴し合うというより、全く同じ波長が完全に重なり合っているような感覚だった。 自分たちはもしかしたら物事の感じ方や考え方、価値観が似ているのかもしれないと、瞬は思った。 「誰なんだ? 聖域にいるのか? 君みたいに優しい子に好かれるなんて本当に幸運な子だな。なんなら、俺が橋渡ししてやるぞ。俺はこういう見てくれだから、逆に そういうことには向いているんだ」 「……」 カシオスは、姿がここまで個性的でなかったら、絶対に女性にもてるタイプだと、瞬は思ったのである。 彼は優しいし、言葉にいちいち相手へのさりげない賞讃が織り込まれていて、それがわざとらしくなく自然に響く。 彼の言葉がそう聞こえるのは、彼がそれらの言葉を悪気なく素直な気持ちで言っているからで、彼には驕りや気負いが全くないのだ。 カシオスのそういう態度は、普通の人間には――特に、根拠のない自尊心に支配されがちな血気盛んな年頃の青少年には――得難い美質である。 得難い美質ではあるが、それは、今この時に限っていえば、発揮させずにいてほしい美質だった。 「あ……ありがとう。でも、だめだよ! 僕、まだ、あ……あの人に好きだって言ってもいないんだから」 「だから俺が橋渡しをしてやると――」 「じ……自分で言いたいんだ……!」 言うつもりなどないくせに! 瞬はカシオスに嘘をつくことに、後ろめたさのようなものを覚えていた。 嘘なのに――カシオスが深く頷く。 瞬の希望と決意は尤もなことだと、彼は得心してくれたらしい。 嘘つきの瞬はほっと安堵したのだが、カシオスはそんな瞬に今度は心配顔を向けてきた。 「でも、早く告白しないと後悔することになるかもしれないぞ。それとも、その人には瞬の他に好きな人がいるのか」 「い……いないと思うけど……」 いたら、悲しくて胸がつぶれてしまう。 瞬は切ない気持ちで そう思ってから、カシオスの気遣わしげな眼差しに気付き、更に切なさを募らせた。 胸がつぶれてしまいそうな その思いに耐えている人が、今 瞬の目の前にいるのだ。 勇気を持てないだけの自分を、瞬は軽蔑せずにはいられなかった。 だが、どうしても、瞬の中にその勇気は湧いてこない――どうしても湧いてきてくれなかった。 「僕、チビでしょ。か……彼女は僕より背が高くて、すらっとしてるの。僕なんかが告白しても、あと20センチ大きくなってから出直してこいって笑われるのが落ちだよ」 「瞬が好きになった人がそんな意地の悪いことを言うはずがないだろう。勇気を出すんだ」 そう告げるカシオスの素直で懸命な瞳。 傷付く前から傷付くことを恐れている臆病な人間を励まそうとしている笑顔。 瞬は、星矢をして『凶暴な性格の持ち主』と言わしめた大男を、花よりも美しく優しいと思った。 「僕が本当に女の子だったら、カシオスに乗り換えるなあ。優しくて、頼り甲斐があって、一緒にいたら気持ちが安らいで、絶対に幸せになれそうだもの」 それは、この場をごまかすための方便ではなく、瞬の本心から出た言葉だった。 力のある者に守られているだけでも大目に見てもらえる非力な少女だったなら、自分は絶対に この優しい人を選ぶ。 だが、瞬は聖闘士で男子だから そういうことはできず、共に戦っていける人に心を惹かれてしまうのだ。 いったいなぜ自分が心惹かれた相手があの人だったのだろうと、自分の恋を疑う気持ちは、瞬の中に以前から存在してはいたのだが。 共に戦っていける仲間はあの人ひとりだけではないというのに、気付けば瞬の中ではあの人ひとりだけが特別な存在になってしまっていたのだ。 恋の不可思議に首をかしげつつ瞬が顔をあげると、そこには、またしても茹でダコのように真っ赤になっているカシオスの顔があった。 それが自分の告げた言葉のせいだということに気付くまで、瞬は10秒ほどの時間を要したのである。 『僕が本当に女の子だったら、カシオスに乗り換えるなあ。優しくて、頼り甲斐があって、一緒にいたら気持ちが安らいで、絶対に幸せになれそうだもの』 カシオスは、そんなことを人に言われた経験がなかったのだろう。 そして、おそらく、カシオスは“女の子”にそう言われた錯覚に囚われている。 その姿のせいで、彼は、瞬を半分くらいは女の子のように感じているのだ。 そんなカシオスに腹が立たない自分を、瞬はもう不思議とは思わなかった。 |