十二宮を眼下に臨むことのできるアテナ神殿前の広場。 聖域の向こうにはアテネの町が広がっている。 そこには多くの人がいて、皆それぞれに幸福になることを願って懸命に生きている。 その中のいったいどれほどの者たちが、自らが望んだ通りの幸福を手に入れることができるのか。 それは、女神アテナにもわからないことである。 カシオスは、彼の恋を諦めている――。 それは切ない事実だったのだが、彼の恋は、瞬自身には直接関わりのない――関わることの許されない――、身も蓋もない言い方をすれば“他人の恋”である。 だというのに、なぜそんなことで自分は女の子のように泣いてしまったのか。 瞬が自分の醜態の訳を訝ったのは、ほんの短い間だけだった。 それは、自分も叶わぬ恋をしているから。 自分が カシオスよりも望みのない恋をしているからなのだと、瞬には すぐにわかった――わかっていた。 カシオスの恋より望みのない恋。 瞬は、自分の恋をそういうものだと思っていた。 自分の恋よりカシオスの恋の方が余程 成就の可能性がある、と。 だからこそ瞬は、自分の恋のためには何もしていないにもかかわらず、カシオスを励まし、けしかけ、彼の恋に首を突っ込むような真似までしたのである。 だが、本当にそうだろうか。 その決めつけは事実だろうか? カシオスは、他の誰かを好きでいるわけではない人への恋の方が成就の可能性があると言って、瞬を励ましてくれた――。 瞬は、いつまでも涙の枯れない瞬の代わりにカシオスに詫びてくれた仲間の方を、恐る恐る振り返ったのである。 自分の恋が成就する可能性を真剣に考えてみたことが、実は瞬はこれまで一度もなかった。 考えるのが恐いから。――今も恐い。 だから、瞬は、違う話を氷河に振った。 「シャイナさんが……僕たち青銅聖闘士は冷血漢揃いだって言ってたけど、あれはどういう意味だったのかな?」 「まあ、言われても仕方ないだろうな」 氷河が、あまり不思議そうにではなく、瞬に答えてくる。 「……どうして?」 シャイナにそう思われるようなことをした覚えのなかった瞬は、彼女の非難の根拠を知っているらしい氷河に再び尋ねた。 氷河が、シャイナの言葉ではなく、そんな瞬をこそ訝るような目をして、一つ溜め息をつく。 「本当は、おまえに星矢を責める資格はないんだぞ。おまえだって、ジュネのことを放っておいてるじゃないか。あの女が自分から仮面を取って おまえの前に立った意味がわかっているのか。あの女はおまえが好きなんだ」 「……」 瞬は虚を衝かれたような気分になった。 いったい何を、氷河は言い出したのかと疑い、その疑いに少し遅れて笑いがこみあげてくる。 「氷河って、おかしなことを思いつくね。そんなことあるはずないよ。ジュネさんは僕のお姉さんみたいなものだもの。ジュネさんは、弱くて情けなかった頃のアンドロメダ島での僕を知ってるんだから」 「人が強いものに惹かれるとは限らないだろう。……いや、惹かれるのか、本当に強いものには」 「あの……」 それではまるで、アンドロメダ島でジュネに庇われてばかりいた非力な子供が実は強い人間で、そしてジュネはその強い子供に惹かれている――ということになるではないか。 そんなことは、天地が引っくり返っても あり得ることではなかった。 「おまえは わざと気付いていない振りをしてるのだと思っていた」 「わざと……って……」 「恐るべき冷酷と思っていたんだが、天然だったとはな」 「氷河……」 氷河は、アンドロメダ島で泣いてばかりいた子供に ジュネが好意を抱いているものと決めつけている。 そこまで言われても、瞬には氷河の憶測――憶測だろう――を信じることはできなかった。 信じられないから、信じなかった。 そんな瞬を見て、氷河は瞬にその憶測を事実と認めさせることを諦めたらしい。 微かに首を横に振って、彼は、 「好きになった相手から、同じだけの好意を返されることは滅多にない――か。世の中が片思いをしている奴であふれかえっているというのは、事実のようだな」 と、呟くように言った。 それから、再び その視線を仲間の上に据える。 「なんで、俺だったんだ。どうせ嘘なら、もっと適役がいるだろう。それこそ、ジュネとか――まあ、あの女におまえの恋人の振りをしてくれと頼むのは酷だが」 「僕は――」 瞬自身には到底信じることのできない憶測を、氷河はあくまでも確たる事実と信じているらしい。 そんな憶測をし、そんな憶測を平気で口にしてしまえる氷河にこそ、瞬は“恐るべき冷酷”を感じたのである。 天然なら、なお切ない。 「氷河が……好きだったから、かな」 瞬が氷河にそう言ってしまったのは、その切なさに耐えかねたからだった。 もちろん、なるべく冗談に聞こえるように軽い口調で、瞬はその“事実”を彼に告げた。 それでも、声は震えてしまっていたかもしれない。 氷河が一瞬 驚いたように目をみはり、無言のまま瞬を見詰めてくる。 いくら『女の子のよう』という定評のある人間からでも、同性にそんなことを言われたら、それは誰でも驚くだろう。 以前は――恋を自覚する前は――人に『女の子のようだ』と言われても、自分は実際に女の子のような顔をしているのだから、そう言われても仕方がないと、瞬は思うことができていた。 『女の子のようだ』と言われることを瞬が不快に感じるようになったのは、それらの言葉が、瞬に、少女ではない自分、少女にはなれない自分を思い知らせるものに変化していったから、だった。 決して少女になりたいわけではない。 ただ、少女であったなら手に入ったかもしれないものが、価値ある宝石に思えて仕方がないのだ。 こんなことを言ってしまったら、氷河に嫌われてしまうかもしれない――という不安はあった。 それでも瞬が彼に自身の思いを告げたのは、それで拒絶されても傷付くのは自分だけで済むという考えがあったからだった。 カシオスのように、好きな人を困らせることもない。 冗談で済ませればいいのだ。 氷河が笑って、馬鹿な仲間の告白を冗談にしてくれれば、それで済む――すべては終わるのだ。 氷河は無言だった。 いつまで経っても、瞬の前で、彼は不自然なほど長い沈黙を守り続けていた。 その沈黙の前で――瞬は泣きたくなってしまったのである。 目の奥と喉の奥が熱くなって、うまく声を作ることができない。 瞬は氷河が好きだった。 どうしてこんな気持ちが生まれてきたのか、それは瞬自身にもわからない。 ただ、氷河に見詰められていると、その瞳が何かを訴えているようで――にもかかわらず、氷河が仲間に訴えているものが何なのかがわからなくて――瞬を苦しくさせるのだ。 瞬は、氷河にはもっと明るい瞳をしていてほしかった。 「氷河、早く笑ってよ。渾身の冗談に笑ってもらえないのって、すごく きまりが悪いんだから」 言った途端に、瞬の瞳から涙が一粒 こぼれ落ちる。 その涙を隠すために、瞬は急いで顔を伏せた。 |