岐路

- I -







北の大国ヒュペルボレオイの軍隊が、エティオピアの国に攻め入ってきたのは突然のことだった。
いったい何が起こったのか、瞬にはまるで訳がわからなかったのである。
北の国が、自分の国に 本当に『攻め入って』きたのかどうかすらも。
ヒュペルボレオイの軍隊は整然と隊列を組み、まるで自国の領土を歩むように堂々と、エティオピア国内を都に向かって南下してきたのだ。

事前に訪問の連絡があってのことだったなら、瞬も、エティオピアの国王である瞬の兄も、それを少々大仰な表敬訪問の類と解していたかもしれない。
ヒュペルボレオイの軍隊があまりに整然と静かに行軍するので、エティオピアの民たちは自国が他国の軍に侵されているとは思わなかったらしい。
突然国内に現われたヒュペルボレオイの軍を、エティオピアの民たちは不思議そうに眺めるばかりだったという。
だが、事実は、ヒュペルボレオイの王はエティオピア王家に何の断りも入れずに、エティオピアの領土に軍を進めたのであり、それは明白な侵犯行為だった。

「『幼い子供や赤子も例外なく 王家の血を引く男子全員が大人しくヒュペルボレオイ軍に身柄を預けたならば、ヒュペルボレオイ軍はこの門より一歩も先に進んではならぬ』というのが、ヒュペルボレオイ国王の命令です」
彼等はエティオピアの都の北門の前までくると、エティオピア王家の男子全員の引渡しを、エティオピア王家に要求するという奇妙なことをしてくれた。
ヒュペルボレオイ王の真意を量りかねた瞬の兄は、事情を把握するために、ヒュペルボレオイ軍の総司令官を、王宮内に招き入れることにしたのである。
十数人の小隊だけを引き連れてエティオピア国の王宮に入ったその司令官は、接待役を任されていた侍従長がエティオピア王家の傍系の出の貴族と知るや剣を抜き、彼を捕縛してしまった。
穏やかな会見を望んでいた瞬の兄も、さすがにこの暴挙には黙っていられず、王宮内の衛兵にヒュペルボレオイの者たちを捕らえるように命じ――それがすべての始まりとなった。

ヒュペルボレオイ軍の総司令官は日没までに彼が軍幕に戻らなかった場合には、エティオピアの王宮に総攻撃をかけるようにと、部下たちに指示していたらしい。
ヒュペルボレオイ軍は、日没と共にエティオピアの都の北門を打ち壊した。
そして、エティオピアの民の夕方の団欒の時を妨げることを恐れるように静かに――不気味なほど静かに――都の大通りを進軍し、喊声の一つもあげずに王宮に雪崩れ込んできたのである。


その時まで、エティオピアは平和な国だった。
エティオピアが平和だということは、エティオピアがその周辺の国々と いさかいを起こしていないということ、周辺の国々と良好な関係を維持していたということである。
それというのも、数百年前にオリュンポスの神々が人間界に下した、
『正当な理由なく他国を侵略した国は、時を経ずして、この地上から消え去ることになるだろう』
という神託が、地上に存在するすべての国の王家を拘束していたからだった。

瞬の国エティオピアに比べれば新興の国ではあるが、ヒュペルボレオイの国も既に同じ王家の統治が二百数十年も続いている国である。
その神託をヒュペルボレオイの王が知らぬはずはない。
自国の滅亡覚悟で他国の侵略を企てる王などいるはずがないと、瞬の兄は――否、全ギリシャの国の王は信じていた――油断していたのだ。

ヒュペルボレオイ軍は、あっという間にエティオピアの王宮を制圧してしまった。
のんびりした王宮警備の兵はいても、実戦のために訓練された兵のいないエティオピア軍――そもそも、それは『軍』と呼べるようなものではなかった――は、確たる目的を持ち、その目的遂行のための作戦を着実に進めていくヒュペルボレオイ軍の敵にはなり得なかったのである。

「瞬、すぐに南の地下道を使って王宮の外に逃れろ! 奴等はエティオピア王家の者の抹殺が目的らしい」
兄が王宮の最奥にある瞬の私室に飛び込んできた時 初めて、瞬は事態が容易ならざるところにまで立ち至っていることを知ることになったのである。
エティオピア王国の国璽と王の指輪を瞬の手に握らせた兄の手は、血に濡れていた。
衣服にも返り血らしい赤黒い染みができている。
彼は、その剣で 幾人かのヒュペルボレオイ兵を切ったらしい。
これまでに一度も そんなふうな大量の血を見たことがなかった瞬は、兄の決死の形相に 我知らず身体を震わせたのである。

「兄さんは !? 」
「家臣を見捨てて、王が王宮を捨てるわけにはいかん。俺はここでおまえが逃げるまでの時間を稼ぐ」
「その仕事は僕がします。兄さんこそ逃げて」
「剣を握ったこともないくせに」
瞬の兄はそう言って、歳の離れた弟に微笑を向けた。
「その、いかにも王子様王子様した上着は脱いでいくんだぞ」
「兄さん……!」

「神々の下した神託に背いたんだ、いずれヒュペルボレオイの国は滅びる。その時に、我が王家の血を引く者が一人でも生き延びていれば、エティオピアの再興は成るだろう」
「なら――だから、兄さんが逃げてください!」
世継ぎとしての教育も受けていない非力な王子が生き延びるより、王その人が生き延びる方が国の再建も成りやすい。
それが瞬の考える理だったのだが、瞬の兄は別の理をもって、弟を王命に従わせようとした。

「おまえの方が若いし、顔が知れていない。市井に紛れ込みやすい」
そう言ってから、彼は苦々しげに笑ったのである。
「無理か。その美しさでは。王宮を出たら、その綺麗な顔には泥でも塗りつけて、なるべく人目につかぬように都を出ろ。そして、生き延びろ。何があっても生き延びるんだ。これは兄の最期の願いだ」
瞬の兄がそう言い終えた途端、瞬の部屋の扉が大きな音と共に激しく震えた。
すぐそこに迫ったヒュペルボレオイの兵たちが、部屋の扉を打ち壊そうとしているらしい。

瞬の兄は、弟の身体を 続き部屋の奥に押しやった。
瞬は、だが、このまま自分だけがこの災厄から逃れる気にはなれなかったのである。
ぐずぐずしている弟に決意を促すために、瞬の兄は、瞬に向かって怒声めいた大声を響かせた。
「うまく逃げおおせることができたなら、1週間後の夜明けに、シュルティスにある荘園の狩猟小屋で会おう。来なかったら、王宮の広間の大掃除の罰を与えるぞ!」

その声すら扉を打ち破ろうとする敵兵の掛け声にかき消され気味だったのだが、兄のその言葉が、瞬の胸に ささやかな希望を運んできた。
兄は死のうとしているのではなく、生きようとしている。
神の怒りは、いずれヒュペルボレオイの王の上に下されるだろう。
ならば、兄が死ぬはずがない。
罪なき者が、こんなふうに命を奪われることがあってはならない。
そのような世界は、存在することに意味がない。
だから、兄は生き延びるのだ――。
兄に頷いて、瞬は踵を返した。


王宮の東側の花園の脇に、王宮の外に抜けるための秘密の地下道があった。
数百年の平和が続くこの城に そんな抜け道があるのは、ギリシャ世界が平和でなかった頃の名残りである。
『正当な理由なく他国を侵略した国は、時を経ずして、この地上から消え去ることになるだろう』
という神託が下る以前、ギリシャの国々は、各国の王が抱く野心のまま、戦乱に明け暮れていたのだ。
ヒュペルボレオイはその神託後に勃興した国。
つまり、戦を知らない国だった。
だというのに――。

「そっちには誰もいないか !? とりあえず、城中の者はすべて捕えろという命令が出ている。一人も逃すな!」
兄は、『奴等はエティオピア王家の者の抹殺が目的らしい』と言っていた。
逃げた王族を探しているのだろう。ヒュペルボレオイ軍の兵たちが、普段は滅多に人の来ない王宮の奥の花園にまでやってきて、そこに咲く花たちを踏みにじっている。
瞬が生まれてすぐに亡くなった母が好きだったと聞いてから、瞬がずっと世話を続けてきた花園。
そこに健気に咲いていた花たちを、ヒュペルボレオイの兵たちは容赦なく軍靴で踏みにじっていた。

(ひどい……)
兄の身の上に危険を降りかからせたばかりか、大切な母の思い出まで踏みにじっている敵国の兵たち。
その冷酷、その無法は決して許されるべきではない。
涙をこらえて、瞬は、花園の脇にある温室の床から王宮の外に続いている地下の抜け道に飛び込んだ。






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