神々の神託に背いたヒュペルボレオイの国はいずれ滅びる――と、兄は瞬に言った。
エティオピアの再興は必ず成る。
『だから、生きろ』と、兄は言った。
だが、こんな無情な民のためにエティオピア王家のエティオピア王国を再興してどうなるというのか。

約束の日の夜が更け、次の日の夜明けを見た時、瞬は朝の陽光の中で呆然としていた。
一週間分の希望を使い果たし、瞬にはもう何も残っていなかった。
生きるための理由が、瞬の内には何ひとつ残っていなかったのである。
『何があっても生き延びるんだ。これは兄の最期の願いだ』
兄のその言葉がなかったら、瞬はその場で自らの命を絶ってしまっていただろう。
だが、瞬は死ねなかった。
それが兄の願いだったから。

ただ一人の家族である兄も、王子という身分も失って、瞬は今 無一物だった。
だが、一人だからできることがある。
王子ではなく、身分も、国に負うべき責任もない、ただの人間だからできることがあると、瞬は気付いたのである。

それは、兄の復讐だった。
王家の一員としてではなく、エティオピアの兵を率いてでもなく――ただの一個の人間がヒュペルボレオイの国に行き、そこで兄を殺した者の命を奪っても、それでエティオピアの国が滅びることはない。
瞬は既に一国の統治に関わる者でないのだから、瞬のすることは神々の神託に背くものではないのだ。

そんなことを考える自分が悲しかった。
だが、人が生きていくには、生きる目的が必要である。
瞬は、そして、その目的を必死になって作り出したのだ。

噂では、ヒュペルボレオイ軍のエティオピア侵攻は、ヒュペルボレオイの王が一人で決めたことらしい。
ヒュペルボレオイの王を倒すことは、正義の実現にもなるはずのことだった。
ならば、神々も力を貸してくれるはずである。
もしそれが叶わなかったとしても――どうせ死ぬのなら、少しでも兄の側で死にたい。
その思いが、瞬の足を北に向かわせたのである。


ヒュペルボレオイは、エティオピアと北の国境を共にする広大かつ強大な国だった。
冬には国の北半分が厚い氷に覆われ、毎年 厳しい自然との戦いを続けている国でもある。
その都と王城は、北国の南端――エティオピアの都からは2日も歩けば瞬の足でも辿り着くことができる場所にあった。
それほど近い国だからこそ、突然の侵略も可能だったのだ。
これほど近くに、危険な野心を持つ王がいることに気付かずにいたことは、瞬の兄の迂闊だったかもしれないが、それを誰に責めることができるだろう。
人は神の定めを恐れているものと、人は――おそらく神も――信じていたに違いないのだ。

北の国の王宮は、一つの巨大な街だった。
王宮の敷地内に、大貴族たちはそれぞれの館を構え、王宮での生活に必要な物資を供給するための庶民の家すら、王宮の敷地内にある。
その巨大な王宮には王族や貴族以外の者も比較的容易に入ることができるようだったが、そのためには通行許可証が必要だった。
無論、瞬はそんなものを持っていない。

考えあぐねた末、瞬は、ヒュペルボレオイの王宮の町につながる河に身を投じることを思いついたのである。
ヒュペルボレオイの町の生活水の供給源であり、王宮の町を守る濠の代わりにもなっている流れ。
ゆったりと穏やかな流れは、泳ぎを知らない自分をも優しく受けとめてくれるような気がした。
その流れの緩やかさ穏やかさは川面だけのことで、想像以上に深い河の底では激しく水が渦巻いていることを 瞬が知ったのは、彼が河に飛び込んでからのことだった。

水に呑まれ息ができなくなった時、瞬は、だが、安堵のようなものを感じていたのである。
これで自分は人を憎んで生きることをせずに済むのだと、瞬は思った。
元の身分が知れるような国璽や指輪は、故国の土に埋めてきた。
たとえ死体があがっても、ヒュペルボレオイの者は誰も、それをエティオピアの王子の亡骸だとは思うまい。

(生きようとして死んだのだから、兄さんはきっと許してくれるよね……)
早く――瞬は兄の許に行きたかった。






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