「それは聞き捨てならない発言だわね」
氷河の断言を咎めてきたものが人間でないことは、誰の目にも明らかだった。
彼女は、空の高みから、その場にいるすべての人間を見おろしていたのだ。
ヒュペルボレオイの王城の広い庭に、真昼の陽光のように強い光が満ちている。
光に包まれているのか、光を放っているのか、判断の難しい様子をした その女神は、その出現に驚愕している人間たちに自らの名を名乗ることもせずに、彼女の用件に入っていった。

「その者を殺す必要はありません。その者は、あの王と同じ道を選ばないということがわかりましたから」
厳かに、神々の決定を氷河に向かって伝え終えると、光輝く女神は、急に砕けた口調で言い訳めいたことを語り始めた。
「というか。私たちは、その者を探し出して神殿に連れてこいとは言ったけど、殺せなんて一度も言ったことはないはずよ」

「邪悪の者は取り除かねば、世界に災厄を撒き散らすことになる。あの神託はそういう意味ではなかったのか、アテナ」
「アテナ !? 」
突然の神の降臨に驚き たじろいでいた瞬と他の者たちは、氷河が口にした女神の名に、驚愕の度合いを更に深めることになった。
知恵と戦いの女神アテナといえば、オリュンポス12神の中でも特に傑出した有力な女神ではないか。
その高貴な女神が、妙に人間くさい口調で神託――なのだろうか? ――を言い募る。

「それは、あなた方 人間が決めること、私たち神が決めることではないわ。今回の件は、あの不吉なほど清らかな魂の転生に 私たちが不安を覚えたから、事実を確かめようとしただけなの」
「神が……不安?」
人間などには及びもつかない力を有し、人間の運命を支配し、人間の生き様を高みから眺めているはずの神が、なぜ、どうすれば不安を抱くことができるのか。
アテナの言葉は、瞬には思いもよらないものだった。
瞬のその呟きを聞きとめて、女神がその視線を瞬の方に巡らせてくる。
その美しさと気高さは疑いようがないが、この女神は、それ以上に優しさと親しみに満ちた眼差しの持ち主だと、瞬は思った。

「そう、あの残虐な王の生まれ変わりである少年が、過保護なオニイサンに溺愛されて、いつまで経っても綺麗なものしか知らない子供のままでいるから、いつかあなたも あの王と同じ道を選ぶのではないかと、オリュンポスの神々は不安を覚えたのよ」
瞬の“過保護なオニイサン”が忌々しげに喉をひくつかせる。
ということは、アテナが口にしたのはやはり当てこすりだったらしい。
高貴な女神の軽口に、瞬は面食らうことになったのである。

「もちろん、私たちはあなたに人間界の汚辱にまみれてほしいなんて思ったわけではないわよ? あなたには いつまでも清らかな人間であってほしいと願っているわ。でも、清らかさというものには2種類の清らかさがあるのよ。一つは汚れを受け入れない清らかさ、もう一つは汚れを受け入れ浄化する清らかさ――。あなたはエティオピアの王宮の奥深くで、兄に守られ、美しいものだけを見て、人の罪や汚れや弱さを知らないまま成長していた。人の弱さや醜さを知らずにいたら、あなたの持つ清らかさがどちらの清らかさなのかの判断もできないでしょう、だから私たちは、あなたに人間の弱さや汚れを見せ、弱さや汚れが愛から出ることもあるのだということを知る機会を与えてみることにしたの」

「あ……」
確かに、瞬はそれを見た。
悲劇の当事者でないものの無情、愛する者を失った者の悲しみ、何より、幸福でなくなった自分自身の中に多くの弱さや卑怯があることを、瞬は認めることになった。

「兄のことを忘れていくエティオピアの民をあなたが憎んだ時、これは危険かもしれないと思ったのだけど……。そのあとは――氷河に会ってからのあなたは、安心して見ていられたわね。なかなか素敵な恋物語だったわ」
「物語……?」

アテナのその言葉が、瞬の胸に、細い針で心臓を突き刺されたように鋭い痛みを運んでくる。
それは兄の庇護を失った時からずっと、瞬の胸中にあり続けた疑念だった。
人の世の出来事は、神々にとっては舞台で演じられている物語にすぎず、人はどれほど努力しても その物語の呪縛から逃れることができないのか――ということは。
「その舞台の筋書きは神々が定めているものなんですか !? 人には逃れられない運命があって、その通りに生きるしかないの !? 」

「いいえ」
アテナの返答は、実にあっさりしたものだった。
あっさりと答えてから、アテナは、『神々にはそんな才能はないわ』と奇妙なことを呟いた。

「あなたは、兄を忘れていくエティオピアの民を殺そうとすることもできた。兄のいなくなった故国に、王弟の名で争乱を起こすこともできた。ヒュペルボレオイの王を憎み続けることも、彼に復讐することもできた。氷河の求愛を拒み通すこともできた。ヒュペルボレオイの王をねやで殺すこともできた。兄を見捨てて、ヒュペルボレオイの王に熱愛されている恋人として安穏と暮らし続けることもできた。でも、あなたはその生き方を選ばなかったわね」

「選ばなかったんじゃない。選べなかっただけです……」
瞬が小さな声で神に反駁する。
高貴な女神は、非力な人間の ささやかな口答えに気を悪くした様子もなく、その首をゆっくりと横に振った。

「どの生き方を選ぶのも、あなたの自由だったのよ。あなたが選ばなかった生き方は、神がその選択を妨げたのではなく、あなたがあなたの意思で切り捨てたもの。神は人間に対しては基本的に傍観者で、神が人間に対してできることといえば、たまに神の存在を思い出してもらうために、神託の一つ二つを与えることくらいのものよ。定められた運命があるなんて、そんな詰まらない運命論、いったい誰があなたに吹き込んだの。神は劇作家じゃないのよ。面白い筋書きなんて、そうそう思いつかないわ。選ぶのは、いつだって人間。人間が心を持っているのはなぜだと思うの。自分で感じて、自分で考えて、その上で自分の生きる道を選ぶためよ」

「あ……」
アテナの答えは、瞬の疑念を払拭するものだった。
そうであればこそ、人は非力ながらも懸命に生きようと思うことができる。

「それとも――もしかしたら あなたは自分の選んだ道を後悔しているの? 違う生き方を選んでいたら、もっと素晴らしい恋人に出会えていたかもしれないと思ってる?」
からかうような口調で、女神が瞬に尋ねる。
氷河がぴくりとこめかみを引きつらせる様に一瞥をくれてから、彼女は楽しそうに笑った。
この女神は、嫌がらせを言うのが趣味らしい。

「いいえ……いいえ!」
瞬は、もちろんすぐに 女神の嫌がらせを否定した。
「僕は後悔なんかしていない……!」
選べなかった結果が今なのではなく、選んだ結果が今なのだとしたら、瞬は自らの選択を悔やんではいなかったし、悔やむわけにもいかなかった。
自分のしたことの責任を他者に――神に――押しつけることはできない。
ただ瞬は、自分を氷河に出会わせてくれた運命にだけは、心から感謝していた。

女神が 明快な瞬の答えに微笑し、瞬の肩に置かれていた氷河の手に力がこもる。
この人と幸せになれるかもしれないという希望が、瞬の胸の内に湧き起こり始めていた。
「私たちもあなたの選択には満足しているわ。私たちの不安が、ヒュペルボレオイとエティオピアに混乱を招いてしまったようだから、その詫びとして、二つの国には神々から百年の祝福を約束しましょう。ま、自分たちの生きる国をどういう方向に導いていくのかを決めるのも、結局はあなたたち人間なのだから、神の祝福も所詮は口約束に過ぎないのだけれど、とりあえず、この件はこれで大団円……」

明るく輝き出した瞬の瞳に満足しているようだったアテナの言葉が、尻すぼみになって消えていく。
彼女は、氷河と瞬の背後にあるものに 困ったような視線を投げ、それから、大きな困難を乗り越えて ついに結ばれた健気な恋人たちに、同情にたえないと言いたげな表情を向けてきた。
「人間が生きていくのに障害はつきものよ。頑張ってね」
溜め息混じりのアテナの言葉を不審に思った 幸福な恋人たちが後ろを振り返ると、そこには、ちょっと目を離していた隙に最愛の弟を敵国の男に掠め取られた過保護なオニイサンの 怒りに燃えた目があったのである。

「に……兄さん……」
「あー……エティオピア国王殿への挨拶があとになってしまったことは非常に申し訳ないと思うが、なにしろ俺は瞬に家族がいることを知らされていなかったわけで――」
こういう時にこそ神に救いの手を差しのべてほしいと、言葉には出さずに二人は期待したのだが、新しい朝の訪れと共に、女神の姿は無責任にも人間界から消えてしまっていた。

人間の生に障害はつきもの。
障害のない人生はない。
一国の王であっても、恋を成就させて幸福の絶頂にいるはずの恋人たちであっても、それは例外のない事実である。
人は誰もが頑張って・・・・ 己れの人生を生きていかなければならないのだ。






Fin.






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