寝正月をめざせ!






アテナの聖闘士たちが寝正月を決め込んでいられる新年。
実際に寝ているわけではなくても、のんびりとくつろいでいられる新年。
それは、おそらく、この地上に生きる すべての人間にとって最もおめでたい新年だといえるだろう。
アテナとて、それはわかっていたはずである。
否、アテナは確かにわかっていた。
しかし、グラード財団総帥たる城戸沙織は、そういうわけにはいかなかったのである。

『勤勉・向上・勝利』を旨とし、グラード財団の長として多くの人間の生活への責任を その肩に負っている彼女の辞書に、『怠惰』『停滞』『敗北』の単語は載っていない。
そんな彼女にとって、新年とは、人間が他のどんな日にも増して、(旧年から新年へと勤勉を継続しつつ)意欲的に、向上心をもって、新たな勝利を目指す決意の日でなければならなかったのだ。

「明けましておめでとう」
『時の流れ』と『死』。
この二つは、どれほど貧しい人間にも、どれほど富んだ人間にも、あるいは、どれほど勤勉な人間にも、どれほど怠惰な人間にも、絶対的な平等をもって与えられるものである。
他のすべての日本国民と同じタイミングで新しい年を迎えた城戸沙織が、城戸邸ラウンジに集合している彼女の聖闘士たちの前に姿を現わした時、彼女は西陣織の見事な大振袖を着ていた。
藤の花をかたどった一見地味に見える髪飾りはアクアマリンとムーンストーンでできており、帯、帯揚げ、帯締め、バッグ、すべてが最高級品尽くし。
彼女の出で立ちは、軽く見積もっても5、600万はかかっているだろうと思われる豪華極まりないものだった。
対して、彼女の聖闘士たちは これ以上ないほど見事な普段着。
そして、彼等はこれ以上ないほど だらけきって――もとい、のんびりとくつろいでいた。

中でも特にだらけきって――もとい、のんびりとくつろいでいた星矢が、
「来た来た、お年玉〜」
沙織の登場に嬉しそうに瞳を輝かせる。
「ああ」
氷河は、言葉にもなっていない音を洩らして、彼の大家に顎をしゃくるだけの会釈をし、紫龍は視線を落としていた戦国策のページから顔をあげて、
「今年もよろしくお願いします」
と型通りの新年の挨拶をした。

「わあ、沙織さん、和服も似合いますね。姿勢がいいせいかな。凛として見えます」
瞬ひとりだけが溌剌とした様子でそう言い、掛けていた椅子から慌てて立ち上がる。
そうしてから瞬は、沙織の前で丁寧に腰を折った。
「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
「ええ、今年もよろしくね」

瞬に(だけ)にこやかな笑みを返した沙織が、すぐに その眼差しを険しいものに変え、他の3人を順に睥睨する。
それから彼女は、嘆かわしげに彼女の聖闘士たちを叱責した。
「新年早々、何をだらだらしているの。もう少し、新年らしく、しゃきっとしたらどうなの!」
新年早々だらけきっていた星矢は、だが、新年早々いきり立っている沙織にこそ、珍奇な見世物を見るような視線を向けることになったのである。
そして、星矢は、だらけているのか、やる気に満ちているのかの判断の難しい言葉を、彼のボスに投げかけた。

「別に新年つっても、昨日と今日とで何が違うわけでもないだろ。俺たちがだらだらしてられるってことは世の中が平和だってことで、結構なことじゃん。それより、お年玉! 俺、今年のお年玉もらったら、それで松の内期間限定メガどら焼きとメガ肉まんを食いまくるって、去年から楽しみにしてたんだ!」

アテナの聖闘士たちは、決して“お小遣い”に事欠く生活を強いられているわけではない。
城戸邸在住の聖闘士たちは、それぞれの名義のカードを沙織から与えられており、彼等は そこからいつでも好きな時に欲しいだけの金を引き落とすことができるようになっていた。
が、もともと質素倹約が身についている青銅聖闘士たちは、ほぼ無制限に与えられる金銭を 嗜好品や贅沢品に使うべきではないという自制が働いて、日常生活に必要なもの以外の購入に そのカードを使ったことがなかったのである。

その点、お年玉は、いわば ご祝儀もの。
“必要なもの”ではなく“好きなもの”を買っていい金銭だと思うことができるのだ。
何より、お年玉は、カードと違って現金で渡される。
ありがたみも違えば、使いすぎを気にする必要もない。
そういう意味で、青銅聖闘士たちにとって(特に星矢にとって)、お年玉は非常に“嬉しいもの”だったのだ。

新年早々 アテナに逆らう星矢(と他の青銅聖闘士たち)に、それでも沙織がお年玉を渡す気になったのは、彼等の日頃のつつましやかに過ぎる生活態度を、彼女が知っていたからだったろう。
少々気乗りしていない様子を見せはしたが、彼女は、用意していたお年玉袋を辰巳から受け取り、それを彼女の聖闘士たちに手渡した。

星矢が、与えられたお年玉の額も確かめずに、満面の笑みを浮かべる。
これでしばらく星矢の日々のおやつは豪勢なものになるのだ。
その気になれば、都心の高級デザイナーズマンションを一括で購入できるほどの額を自由にできるカードを与えられている者が、僅か10万かそこいらのお年玉をこれほど喜べるのは、それがまるで普通の家庭の行事のように感じられるから――だったのかもしれない。
少なくとも、沙織はそうなのだろうと理解していた。
大事なのは、お年玉の額ではなく、それを与える者と受け取る者が一つの家の中で生活を共にしているということなのである。
そういう関係が、彼等の間に成立しているということなのだ。
星矢の笑顔に、沙織は少なからず切ない気持ちになった。

だから、沙織がそんなことを言い出したのは、決して星矢の発言が気に障ったからではなく、もちろん たかだか数十万のお年玉を出し惜しみしてのことでもなかっただろう。
沙織はただ、普通の家庭で、新年からだらだらしている息子たちを見た母親がそうするように、彼女の息子たちに発破を掛けようとしただけだったのである。

「仮にもアテナの聖闘士が、新年からメガどら焼きで浮かれているなんて、そんな低次元なことでいいと思っているの。そんなことでは今年の地上の平和は覚束ないわ」
聖闘士が緊張していれば平和が維持されるものでもないだろうが、そこはそれ、話の前振りというものである。
本題は、その次にやってくるのだ。
「あなた方が新年からそんなふうでいることを良しとするのなら、私にも考えがあるわ。あなた方全員、今年の目標を決めて今日中に私に提出しなさい。来年のお年玉の額は、今年の大晦日に その目標の達成度を見て決めることにするわ」

「えーっ !? 」
星矢があからさまに不満げな声をあげるのを、彼の母親は華麗に無視した。
「簡単な目標ではだめよ。達成困難と思える目標を立てて、その実現のために 今年1年間努力を続けるの。私は今日はこれから財団主催の賀詞交換会に行かなきゃならないから、帰ってくるまでに考えておいて。自分の今年の目標を書いた紙を、そのお年玉袋に入れて提出すること」
「なんだよ、それ!」
「何って、Management by Objectives、略してMBO。目標管理制度。どこの企業でも採用している方法よ。社員自身に目標を設定させて、その達成度によって業績評価を行なうの」

青銅聖闘士たちの母親は、女神アテナであると同時に、大企業の経営責任者でもあった。
今ひとつ普通の家庭の母親とは趣の異なる発想をする。
「何がFBIだよ! 俺たちはサラリーマンじゃないんだぜ! 俺たちの評価は敵とのバトルを見てするべきだろ!」
「地上の平和と安寧を守るための戦いは、あなたたちの通常業務でしょう。その評価は給与に反映させるもの。でも、MBOの評価は賞与に反映させるものなのよ。つまり、ボーナスの額にね」
星矢の反論を軽くいなして、沙織は彼女の愛する息子たちに断固として宣言した。
「向上心のない者は馬鹿だと、どこかの文豪も言っているわ。目標や夢のある人間は、無目的に生きている人間よりずっと時間を有効に使うことができるでしょう。私はあなたたちのためを思って言っているのよ。これは決定事項です」

「……」
収支の決定権を握る者が、その家の――あるいは企業の――最高権力者である。
沙織の決定に対して異議を唱える権利を、もちろん星矢たちは有していなかった。
それなりに自分の立場を自覚している星矢が、口をとがらせ、黙り込む。
そんな星矢を見やって、沙織はその口許に勝利の微笑を刻んだ。
そうして、城戸邸と聖域とグラード財団の最高権力者は、発言権を持たない被支配者たちを尻目に、彼女の扶養者たちを養う金を稼ぐべく、彼女の戦闘服である豪華な大振袖を翻してラウンジを出ていってしまったのである。


「今年の目標だあ !?  なに考えてんだよ、沙織さんは!」
被支配者が不満を言葉にするのは権力者のいない場所――と相場が決まっている。
ラウンジから沙織の姿が消えると、星矢は早速、一度は喉の奥に押しやった不満を外界に向かって吐き出し始めた。

「お召し物を褒めなかったのが気に障ったんだな、おそらく」
お年玉を使う当てのない紫龍には、お年玉を貰えるか貰えないかということは、星矢ほど切実な問題ではない。
というより、彼は、5円玉の入ったお年玉袋をもらえれば、それで十分だったのだ。
あまり動じたふうもなく、紫龍は極めて冷静な見解を口にした。

「瞬が褒めたじゃないか!」
「瞬しか褒めなかったのがまずかったんだろう」
「沙織さんは、そんな小さなことで気を悪くするような人じゃないよ。沙織さんは、いつだって僕たちのことを考えてくれていて――」
ふざけた憶測で会話を進めていく仲間たちを、瞬がたしなめる――少々 溜め息混じりに。
つまり、沙織の指示に困っているのは、瞬も星矢と同様だったのである。

沙織の指示は、『自分の今年の目標を書いた紙を、お年玉袋に入れて提出すること』というものだった。
ということは、その『今年の目標』は、仲間たち全員で共有できる目標ではなく、青銅聖闘士たち それぞれの個人的な目標でなければならないのだろう。
『地上の平和と安寧』以外の目標や夢を思い描いたことのない瞬には、それはなかなかの難問だったのだ。

「今年の目標かあ……。『毎日 日記をつける』じゃ駄目だよね、きっと」
さきほどから ほとんど口をきいていない某白鳥座の聖闘士をちらりと見やり、瞬は深い溜め息をついたのである。






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