瞬が 本物の冬の星座を見たいと氷河にねだったのは、アテナの聖闘士としての使命感と 恋の感情との争いに、決着を――聖闘士らしい決着を――つけようと思ったからだった。
一夜の歓を尽くして 恋人を信じ切って眠っている氷河の隙をついて 彼の命を奪うことなどできないと、瞬の中にある 氷河を恋する心が瞬に言い張ったからだった。

「星が見たいのなら、空気の澄んだ高原あたりがいいか」
そう言って、氷河が瞬を連れていってくれたのは、Y県K市の郊外にある標高500メートルほどの 山の中腹にある平地だった。
見渡す限り人家の灯かりはなく、視界を遮る樹木もなく、二人の頭上にあるのは冴えきった冬の星座だけ。
白い星と車のライトだけを頼りに、冷たく張り詰めた空気の中に二人きりで立つ。
この世界には二人と星しか存在していないような夜だった。
敵同士であり恋人同士でもある二人を、白く冷たいはずの冬の星たちが、息を詰めるように無言で、だが心配そうに見おろしている。

「氷河、僕が好き?」
そんな星たちを見あげて――その実、瞬は、氷河をしか見ていなかったのだが――瞬は、氷河に尋ねた。
「ああ」
すぐに、短い、だが迷いのない答えが、氷河から返ってくる。

「僕と一緒なら死んでもいいくらい?」
「どうせなら、一緒に生きていたいな」
「どうしても死にたくない?」
「おまえと一緒なら死んでもいいかな。一緒なら、浮気の心配もないし、おまえを他の誰かに奪われることを危惧する必要もない」
「ありがとう。僕には氷河だけだよ」
「ん?」

冷たく冴え渡った真冬の空気と星々。
それ以上、瞬の神経が冷たく張り詰めていることに、氷河はすぐに気付いたようだった。
怪訝そうに眉をひそめた氷河の表情が、瞬時に緊張を帯びた人間のそれに変わる。
それは、瞬が初めて見る、戦いに臨む時の氷河の表情だった。
そんなものを、できれば一生見たくはなかったと、瞬は悲しく思ったのである。

「氷河、死んで」
瞬が放ったのは、渾身の拳ではなかった。
氷河の持つ力がどれほどのものなのかを瞬は知らず、だから、瞬は自分がどれほどの力を出せばいいのかもわからなかったのである。
主に空気でできた瞬の拳を、氷河はいともたやすく かわしてみせた。
「瞬 !? 」
渾身の拳でなくても、普通の人間が受けたなら、肺がつぶれるほどの威力はある。
それ以前に、普通の人間なら、その拳をよけられるはずがない。
氷河のそれは、常人の身のこなしではなかった。

「瞬っ、どうしたんだ!」
「氷河を倒したら、僕もすぐにあとを追う。だから……だから、僕と死んで!」
二度目の拳。
「馬鹿なっ」
氷河は5メートルほど後方に跳び、瞬の二度目の拳も逃れてみせた。
普通の人間ならばありえない跳躍力と瞬発力。
何より氷河は、全力を出しきっていないとはいえ、軽く音速を超えている瞬の拳を完全に見切っていた。

瞬は呆然としてしまったのである。
氷河の能力は聖闘士である自分以上かもしれないという考えが、瞬の脳裏を横切った。
もしかしたら自分は、氷河を倒すことはできないかもしれない。
もしかしたら自分は、逆に氷河に打ち倒されるかもしれない。
喜べばいいのか悲しめばいいのか わからない期待と不安が、瞬に襲いかかってくる。
それらのものに後押しされ、あるいは妨げられながら、瞬は氷河に向かって拳を放ち続けた。

さすがに瞬の拳をよけてばかりでは我が身を守りきることはできないと悟ったのだろう。
彼の運動能力から見れば どう考えても力を抑えているとしか思えない攻撃を、氷河は瞬に仕掛けてきた。
力を抑えているのがわかっていても――わかっているからこそ――瞬は、自分は氷河に勝てないかもしれないと――自分の敗北の可能性に――思い至ることになったのである。

それもいいかもしれないと、瞬は思った。
一瞬間だけ。
アテナの聖闘士がアテナの敵に倒されるわけにはいかない。
敵に破れること――それは、アテナの聖闘士が考えてはならないことだった。
アテナの聖闘士は、死のその時まで、己れの勝利を信じていなければならないのだ。

「氷河。世界の平和と安寧のため、アテナのために――」
「アテナ? 瞬、おまえ、もしかしてアテナの聖闘士なのか !? 」
彼が その存在を知っているということは、この世界に 人間同士の小競り合いとは次元の違う戦いがあることを、彼が知っているということである。
氷河は、やはり、アテナの聖闘士が倒さなければならない敵だということだった。

「そうだよ。僕が氷河を倒さなきゃならない訳はもうわかったでしょ」
「わからん。なぜだ!」
「僕がアテナの聖闘士だってことだけじゃわからないの」
「わかるかっ! 俺はおまえを愛しているんだ!」
「氷河……!」
涙で世界がにじんで見える。
氷河の姿、星の光、車のライト――今、瞬の周りにある世界のすべてが、瞬にはにじんで見えていた。

「僕も……僕も……だから――だから!」
「瞬、おまえ何か誤解していないか」
「してない。氷河、愛してる。だから、僕と一緒に死んで!」
二人で死ぬしかないのだ。
恋し合うアテナの聖闘士とアテナの敵には、他に 二人の恋を全うする術がない。

瞬は初めて、小宇宙を燃やした。
否、それは、瞬の意思に反して、勝手に燃えあがった。
どれほど強い敵に対峙した時にも、瞬の小宇宙がこれほどの力と高まりを持ったことはない。
瞬自身にも にわかには信じられないほど、その小宇宙の力は強大だった。

その小宇宙に触れた途端、氷河は彼の動きを止めた。
際限なく膨張し続ける小宇宙を生む瞬とは対照的に、氷河の力は、その瞳だけに集約されていく。
その瞳で瞬を見詰め、彼は告げた。
「瞬、俺もアテナの聖闘士だ」
「ぼ……僕に嘘はつかないで……。僕は――ワルハラ宮にいて、ドルバルの兵や信徒たちに指示を出している氷河を見たんだ。この目で」
「あれは――」

知らなければ、見ないでいられれば、どんなによかったか。
一生 氷河に騙されたままでいられたら、どれほど幸福でいられたか。
瞬の瞳から涙があふれてくる。
瞬の小宇宙を恐れる様子もなく、氷河は瞬に近付いてきた。
そして、氷河の手が瞬の手を捕える。

アテナの敵の手を振り払おうとした瞬を止めたのは、あろうことか瞬自身の小宇宙だった。
瞬の小宇宙が、氷河の手から逃れようとする瞬の身体を押さえつけてきたのだ。
(ど……どうして…… !? )
聖闘士の小宇宙を自分の味方にしてしまう敵の話など聞いたこともない。
そんな戦い方をされたら、アテナの聖闘士は、強ければ強いだけ自らの敗北を招くことになってしまうではないか。
そんな力を持つ敵がいていいはずがない。
いていいはずがないのに――事実、氷河の瞳に見詰められた瞬は、身じろぎ一つできない状況に追い込まれていた。

「瞬、愛している。信じてくれ」
「信じない。信じられない。でも、殺せない。僕の小宇宙が僕に逆らう……どうして……」
膝に力が入らず、その場に崩れ落ちかけた瞬の身体を、氷河の腕が抱きとめる。
「どうしてなの……。この世界のため、アテナのためなのに、僕の小宇宙が――」
「……おまえの小宇宙は、おまえに逆らっているんじゃない。おまえの心に従っているんだ」

アテナの敵の腕に抱きしめられ、心が安らいでいく自分が わからない。
氷河の言葉が事実なら――アンドロメダ座の聖闘士の小宇宙がアンドロメダ座の聖闘士の心に従っているというのなら――自分はもうアテナの聖闘士ではないものになってしまったのだろうか?
氷河に出会うまでは、その一事だけが、“瞬”という一個の孤独な人間の存在価値を瞬に信じさせてくれる唯一の事柄――唯一の支えだったというのに。

「瞬。アテナに命じられたわけではないんだろう? 彼女はそんなことを言う人ではない」
泣きながら頷いた瞬の肩を、氷河の手が支えてくれる。
「大丈夫。俺がアテナの聖闘士だというのは事実だ。あの時、俺は、ドルバルに心酔した信徒の振りをしてワルハラ宮に入り込み、アテナの聖闘士の襲撃時に侵入が容易になるよう内部工作をしておく指示を受けていたんだ。そして、ドルバルがグングニルの槍の許に行くよう扇動するのが、俺に課せられた役目だった」
「――」

氷河の言葉が事実かどうか、その言葉を信じていいのかどうかは、もはや問題ではなかった。
瞬は、氷河を信じたかったのである。
信じなければ、瞬の心が生きていられそうにないだけだった。






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