自分が生き返ってきたことは無意味――。
そう思いながら、自分の心を伝えられないことを苦しみながら、二人は5日間を生き・・返り・・続けました。
残された時間は、あと2日足らず。
明日の正午には、死の国に戻らなければならないという頃になって、瞬はあることに気付いたのです。

『真実を伝えてはならない』ということは『嘘なら伝えてもいい』のだということに。
もちろん、死にゆく者は、嘘で自分を飾る必要は もうありません。
けれど、生者の世界に残る氷河のためになら、何か――何か意味のある嘘をつくことができるかもしれません。
死にゆく者が、これからも生き続ける者につける嘘。
それはどんな嘘なのかと考えて――瞬は、とてもとても悲しい嘘を思いついたのです。
本当に、これ以上はないくらい悲しい嘘。
それは、
「僕ね、ほんとはずっと氷河のことが嫌いだったの」
という嘘でした。

昨日まで 言葉らしい言葉もなく、それでいて何か物言いたげにしていた瞬が、ふいに口にしたその言葉に、もちろん氷河はとても驚きました。
驚いたというより――最初 氷河は、自分が瞬に何を言われたのかが よくわからなかったのです。
わからなくて、だから つい氷河は、
「それは――新手のゲームか何かなのか?」
なんて、間の抜けたことを瞬に問い返してしまったのです。

けれど、瞬は真顔。
本当に これ以上ないくらい真剣で苦しそうな目をして、瞬は、
「ゲームでもジョークでもないよ。僕はただ本当のことを言っただけ」
と、氷河に答えたのです。
「僕は氷河が嫌いで嫌いで仕方がなかった。殺生谷で――僕があんなに頼んだのに、氷河は兄さんを倒そうとしたでしょう。だから、僕は復讐を考えたの。氷河が僕を好きになるように仕向けて、最後に大っ嫌いだって本当のことを言って、氷河を傷付けてやろうって」
「瞬……」

氷河の目が驚愕に見開かれたのが、瞬にはわかりました。
すぐに、瞬は、氷河の上から視線を逸らしてしまったのですけれど――逸らさずにはいられなかったのですけれど。
瞬は、胸が痛くて痛くて どうしようもありませんでした。
あまりの痛さ苦しさに、瞬の瞳からはぽろぽろと涙が幾粒もこぼれ落ちました。
「僕は氷河が大嫌いなんだ」

どうして こんな嘘をつかなければならないのか。
自分で考え、自分で決めたことなのに、瞬は その嘘が悲しくて悲しくてなりませんでした。
ですが、瞬は、その嘘をつき通さなければならなかったのです。
これで、氷河が“瞬”を嫌ってくれたなら、“瞬”の死は氷河にとって大きな痛手ではなくなるでしょう。
これは、氷河のため――恋人のいない世界で これからも生き続けていく氷河のためなのです。
自分が悲しいことなんて、今の瞬にはどうだっていいことでした。

「……」
そして、その時、氷河も同じことに気付いたのです。
自分が瞬に嫌われてしまえば、それが瞬のためになるのだということに。
瞬が“氷河”を嫌いでも、氷河は瞬が好きでした。
これから一人で生きていくことになる瞬のために、死にゆく者ができることは、その悲しみと苦しみを少しでも減じてやることくらいのもの。
それは『愛している』と告げることより ずっと大事なことだと――それこそが、死にゆく者の最も重要な仕事で義務だと、氷河は思ったのです。
死んだ者が生きている者に『愛している』と伝えることは、結局は、その言葉を口にする者の自己満足にすぎません。
そんな事実を知らせたって、死んだ者は生きている者に、結局何をしてやることもできないのですから。

「それはよかった。実は俺もおまえが大嫌いだったんだ。おまえはいつも泣いてばかりで、言うこと全く現実的でないは綺麗な夢物語ばかり。俺はおまえの話を聞くたび虫唾が走っていたんだ」
「氷河……」
切なげ――というより、呆然としたような瞬の声。
その小さな声が、氷河の胸にどれほどの痛みを運んできたか。
それは、瞬の夢や理想を現実のものにしてやれない己れの無力を嘆いていた時以上の苦しみを、氷河の胸中に生むことになりました。

「俺はおまえが大嫌いだ。その顔も見たくないくらい」
すべてが嘘でした。
瞬の顔も見たくないなんて、そんなことがあるはずありません。
ずっとそばにいたい、いつまでも その姿を見ていたい。それが氷河の心からの願いでした。
けれど、それはもう叶わないこと。
氷河は、明日には死者の国に帰っていかなければならない人間だったのです。

「氷河……」
瞬は氷河の言葉を信じることができませんでした。
けれど、氷河が自分に嘘をつくなんて、瞬には なおさら信じられないことだったのです。

瞬が、その時、氷河の瞳を見上げていたら、その瞳の中を覗くことをしていたら、瞬には氷河の本当の気持ちがすぐにわかっていたことでしょう。
氷河だって、同じです。
瞬の瞳を見て、その瞳がなぜ涙に濡れているのかを考えたなら、瞬の告げた言葉が嘘だということは、彼にはすぐにわかったはずなのです。
少なくとも、自分が口にした言葉のせいで瞬が苦しんでいたことは わかったはず。
なのに、瞬は大好きな氷河に嘘をつくのがつらくて、氷河は大切な瞬に嘘をつくのがつらくて、その時 二人は二人共 自分の目を伏せていたのでした。

「氷河が僕を嫌いでいてくれて嬉しい」
「おまえが俺を嫌っていてくれたとはなによりだ」
二人は、誰よりも大好きで、誰よりも大切な人に そう告げて、互いにそのまま背を向け合いました。
死にゆく者が、これからもその生を生きていく者に対してできることは、この悲しい嘘をつき通すことだけ。
誰よりも大好きで大切な人だから、二人は、誰よりも大好きで大切な人に真実を告げることができなかったのです。

氷河と別れて 一人自室に戻った瞬は、ベッドに突っ伏して泣き続けました。
氷河はそのつらさに耐えることに精一杯で、もはや涙も出てきません。
その分、彼の胸は苦痛に喘ぎ、とめどなく血を流し続けていました。
それは神様たちにしか見えない――神様たちには見える、涙でできた熱く冷たく赤い血だったのです。






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