「どうして、氷河と兄さんはあんなに仲が悪いんだろう……。幼馴染み同士で、おんなじ目的のために一緒に戦う仲間同士なのに、あんなふうに事あるごとに角突き合いするなんて――」
『氷河を追いかけることも一輝を追いかけることもしなくていい』という星矢の言葉は、今の瞬には天から響く神の御言葉にも思えるものだったらしい。
その決断をしなくていいと言ってもらえた瞬は、緊張させていた全身から力を抜いて、改めてダイニングテーブルの椅子に座り直したのだった。
とはいえ、だからといって、瞬の悩みまでが霧散したわけではなかったのだが。

「氷河が一方的に一輝を嫌っているだけに見えるが」
瞬の苦悩に満ちた呟きに、紫龍が静かに突っ込みを入れる。
それは事実を冷静かつ客観的に見た上での的確この上ない指摘だったのだが、瞬は龍座の聖闘士の言に左右に首を振った。
「兄さんも氷河には素っ気ないんだよ」
どうやら瞬は、氷河だけを責めることも、氷河だけを責められることもしたくないらしい。
その態度を公平と言うべきか、身贔屓と言うべきなのかは、星矢には判断しきれるものではなかった。
ただ星矢は、瞬が氷河を庇うのは、『氷河が恋人だから』ではなく『氷河がコドモであるから』のような気がしてならなかったのである。

「一輝が素っ気ないのは、氷河に限ったことではないだろう。あいつは誰にでも愛想を振りまく男じゃない。おまえ以外の人間に対しては、総じて 無愛想で冷淡だ」
「表向きは、瞬にだって素っ気ない振りしてみせたりするもんなー」
本当は弟を猫かわいがりしたいくせに、それをしない一輝にも非がないとは言えない。
弟から自立していることを示したいのか、妙な意地を張って瞬との間に距離を置くから、氷河に付け入る隙を与えることになるのだ――と、星矢は思っていた。
兄を非難されることも嫌らしい瞬が、またしても首を横に振る。

「僕はいいの。兄さんが僕のこといつも見ててくれて心配してくれてることは、僕、わかってるから」
「なら、いいじゃん。氷河はおまえにベタ惚れで、一輝はおまえのことをいつも見てる。おまえには何の問題も不都合もないだろ。あの二人が毎回出会いがしらに取っ組み合いの喧嘩を始めるってわけでもないんだしさ」
この状況は、星矢とて不快――少なくとも快いものではなかった。
しかし、これは、瞬が気に病むような事態でもない。
瞬を間に置いて二人の男たちが勝手に不毛な軋轢を生んでいるだけのこと。
仲間同士・身内同士の不仲を 他人事と眺めていられる瞬ではないことは、星矢も承知していたのだが、それでもこれは瞬が思い悩むようなことではない――と、星矢は思っていた。

「でも……僕、氷河と兄さんに仲良くしてほしいんだ。二人が仲が悪くなったの、僕のせいのような気がするから……」
「へえ……」
星矢が つい感嘆の声を洩らしたのは、瞬がその事実に気付いていることに驚いたから――だった。
瞬は、どちらかといえば謙虚な人間である。
自分が他人の心に影響を及ぼせるほどの力や価値を有する存在だとは考えてはいない。
氷河と一輝が自分のせいで反目し合っていると思い上がったり、ましてや、それで悦に入ったりするタイプの人間でもない。
だから、兄と氷河の不仲の原因に、瞬当人は気付いていないのかもしれないと、星矢は懸念していたのである。
が、瞬もさすがに、そこまで鈍くはなかったらしい。
(ま、氷河が一輝への敵愾心を露骨にし始めたのは、氷河が瞬にイカれ始めた頃からだもんな。瞬にでも、それくらいはわかるか……)

「まあ、それは――仕方のないことだろうな」
それでも瞬は、そう・・ではないことを願っていたらしい。
紫龍の婉曲的な肯定を聞くと、瞬は一瞬 泣きそうな顔になった。
「どうして仕方ないの。どうして、僕と氷河が仲良くなったら、氷河と兄さんの仲が悪くなるの。僕と氷河が仲良くなったら、氷河と兄さんも仲よくなって、そんなふうにして、いつか世界中の人たちが仲良しになれるはずなんだ。きっとそうなるんだと、僕、思ってたのに……」

「……」
涙ぐむ瞬の訴えを聞いた星矢と紫龍が顔を見合わせることになったのは、決して彼等が 瞬の考えを荒唐無稽な理想論にすぎないと 呆れたからではない。
ある人間が友だちの友だちと友だちになるということは ままあることであるし、実際に人の輪というものは、そのようにして広がっていくものだろう。
だが、それを氷河と一輝に求めるのには無理がある――と、星矢たちは思わないわけにはいかなかったのである。
なにしろ、一輝と氷河が瞬に求めているのは、友情ではなく愛情なのだ。それも、かなり特別な。

「まあ、世の中は、そう単純にはいかないようにできて――」
頭から瞬の希望を否定することもできなかったのだろう。
紫龍は、その顔に曖昧な感のある笑みを浮かべた――浮かべようとした。
だが、彼が作りかけた微笑は すぐに、気負い込んだ瞬によって完成を妨げられてしまったのである。

「どうして単純にはいかないの! 絶対にその方がいいのに……!」
「それは だな……」
紫龍の唇から、つい溜め息が洩れる。
“どうして単純にはいかないのか”を瞬に説明するのは、紫龍はあまり気が進まなかった。
「それはつまり、人間には独占欲というものがあるし――。言ってみれば、これは考え方の違いが 引き起こす事態なんだ。人間の愛情は無限のものであると考えるか、一人の人間が生むことのできる愛情には限度や絶対的な総量があると考えるか。おまえは前者で、氷河は後者の考え方をしているんだろう。おまえの愛情の総量が100だったとしたら、その全部か 全部は無理としても、より多くを自分のものにしたいというのが氷河の考え方で――」

「人の愛情や優しさに限度なんかあるはずないよ! あの人に優しくしたから、この人には優しくできないなんて人はいないでしょう! そんなことありえないよ!」
それはそうである。
そうなのではあるが――。
「兄さんは、兄さんが僕に優しくしてくれるのとおんなじくらい氷河にも優しくできるはずで、氷河は、氷河が僕を好きでいてくれるのとおんなじくらい兄さんを好きになれるはずなんだ!」
それはそうなのであるが、やはり それは違う――と、星矢と紫龍は思ったのだった。

瞬の理想と思想は、神ならぬ身の人間の心情が考慮されておらず、それゆえに現実的ではない。
だが、決して間違ってもいない。
瞬の考えは、『人間かくあるべし』という理想としては、非常に正しいものである。
だからこそ、瞬に その認識を改めさせるのは困難。
それ以前に、それが間違った考えではないがゆえに、瞬の理想を“現実”という理屈で論破することは、人としても、世界の平和のために戦うアテナの聖闘士としても“してはならぬこと”なのである。
ある目的のために戦い続ける人間には、その目的を揺るぎないものにするために、“理想”というものが必要なのだ。
であるから、星矢は、あまり愉快ではない この現状を打破するために、瞬の意識を変えることを諦めて、瞬よりは現実に生きているだろう男たちの方に当たることにしたのである。






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