「氷河……」
ふいに双児宮の広間に姿を現わした氷河に――何より、その視線に――瞬は、尋常でなく驚くことになったのである。
氷河の瞳は、まっすぐに、愚か極まりないことをしでかした仲間を見詰めてくれていたのだ。

「幻朧拳は……死に匹敵するほどの衝撃を受けないと解けない――って、サガが……」
瞬から指名を受けた双子座の黄金聖闘士が、白鳥座の聖闘士を呆然と視界に映している瞬に、微かに顎をしゃくってみせる。
「君がキグナスを好きでいるという事実は、キグナスにとって死に匹敵するほどの衝撃だったんだろう。いや、生に匹敵する衝撃と言うべきか」
「あ……」

サガは、尤もらしい顔で尤もらしいことを白々しく言ってのけた。
事実は、ほんの30分前、こんな ふざけた技をかけることができるのはサガだけだと察した氷河が、怒り心頭に発して双児宮に捻じ込んできただけのことだったのだが。
サガは『それを望んだのはアンドロメダ座の聖闘士だ』という、白鳥座の聖闘士の生死にかかわるほどの衝撃的事実を氷河に知らせて、彼の目を支配している技を解いてやったのである。

「ぼ……僕……」
氷河にかけられた幻朧拳が解けたことに 瞬が安堵していられたのは、ほんの数秒間だけのことだった。
氷河を元に戻すことができないかもしれないという懸念が消えると、代わりに瞬の中で頭をもたげてきたのは、羞恥と情けなさと いたたまれなさ――だったのである。
身を翻して その場から逃げ出そうとした瞬の行く手を、双子座の黄金聖闘士が遮る。

「私利私欲のために黄金聖闘士を利用し、居丈高に黄金聖闘士を怒鳴りつけてみせた君が、氷河からは逃げるのか? ここで逃げるのは、人間として最低の逃避行為だぞ。君はそういうものでなくなるために、私の許にやってきたのではなかったのか」
サガの、実に正当かつ適切な叱責と鼓舞が、瞬をためらわせ、
「逃げないでくれ。おまえが悪いんじゃない。おまえは何も悪くない」
氷河の、あまり適切とは言い難い甘さと寛容が、瞬をその場に引き止める。
後悔と臆病のせいで、自分から氷河の側に行くことができずにいる瞬の許に、氷河はゆっくりと歩み寄ってきてくれた。

「悪いのは俺だ。俺の優柔不断が すべての元凶で、おまえは何も悪いことをしていない」
「僕――」
過ちと罪を犯した者を責めないのは、その事自体が誤りであり、非難されるべきことだと、瞬は思った。
思ったのだが、今は、氷河のその甘さと寛容が嬉しい。
少なくとも 氷河のその不適切な優しさは、今の瞬に氷河の瞳を見上げるだけの勇気を与えてくれるものだった。
氷河の青い瞳が、瞬を見詰め返している。

「すまん。煮え切らない真似をして。無意味な言い訳ばかり並べ立てた。俺は本当は――俺には おまえは高嶺の花だと思って、気後れしていただけなんだ」
「氷河が気後れだなんて、そんな――」
瞬の知っている氷河は、物事に物怖じすることを知らず、時に無謀と思えるほど大胆で行動的な人間だった。
その氷河の口から『気後れ』などという言葉が出てきたことに、瞬は少なからず驚いたのである。
氷河に限ってそんなことがあるはずがない――と。
だが、氷河は、決して瞬のために虚言を吐いたわけではなかったらしい。

「おまえは強くて優しくて素直で――俺の命を幾度も救ってくれた。だが、俺は――俺こそが、おまえのために何もしてやれない」
「そ……そんなことないよ……!」
「俺に何ができるというんだ」
そう告げる氷河の眼差しは、あろうことか本当に悲しげで、それは瞬を慰撫するための冗談ではない――ように、瞬の目には映った。
瞬はそんな氷河に驚き、同時に、自分も氷河と同じだったのかもしれないと思ったのである。
自分と氷河は、“自分にできること”はないと思い込み、実際には いくらでもある“自分にできること”に気付いていなかっただけだったのではないかと。

だが、そんなことがあるはずがないのだ。
氷河に、『できることはない』はずがない。
氷河は、氷河にしかできないことをたくさん持って・・・いる。
そのことを彼に知ってもらうために――瞬は勇気を奮い起こして、氷河に告げたのである。
「あの……あのね……。僕を抱きしめてくれる?」
「……こうか?」

氷河の腕が瞬の髪と背にまわされる。
瞬の身体は氷河の腕と胸に包まれることになり、瞬の頬は氷河の胸の押し当てられることになった。
氷河はとても温かい。
氷河の腕と胸の中で、瞬は思わず泣いてしまいそうになったのである。
これが欲しかった――こうしてほしかったのだ。
本当は、ただそれだけのことだった。

「こんなこと、氷河でなかったらできないよ」
「そんなことはないだろう。こんなことは誰にでも――」
「氷河でなかったら、こんなふうにされてることに耐え切れなくて、僕がぶっ飛ばしちゃうから」
「ぶっ飛ば――なに?」
幾多の敵に侮られ、事実その通りであったので侮られている当人にも否定できずにいた(と思われる)瞬の少女めいた面差しと細い腕。
そんな姿の持ち主の実に乱暴な発言に、氷河は瞳を見開くことになったのである。

「……そうか」
微かに苦笑しながら、臆病なのか気丈なのか わからない瞬の身体を、氷河は更に力を込めて抱きしめた。
強く優しく美しかったという思い出をしか与えてくれない母と 瞬は全く違う。
混同のしようもない、瞬の瞬らしさ。
生きているから、瞬はこんなふうに奇妙に魅力的なのだと思う。
生きている人を生きているうちに抱きしめられることの意味と幸運を、氷河は誰よりもよく知っている――知ることのできる男だった。


「黄金聖闘士の目の前で堂々とラブシーンとは。最近の若い者は目上の者への礼儀を知らん」
「まー、伊達に歳くってるんじゃないならさ。未熟な若者を諭して正しい道に導いてやるのが、おっさんの務めだろ」
瞬の意外な一面を見せられて驚愕し、すっかり傍観者と成り果てていた星矢が、同じく すっかり蚊帳の外に追い払われてしまった双子座の黄金聖闘士の憤りを、到底 礼儀正しいとは言い難い態度と口調でなだめにかかる。
伊達に歳をくっていたわけではなかったので――サガはその程度のことで素直になだめられることをしなかった。

「未熟な若者を正しい道に導くのが目上の者の務めだというのなら、私は『キグナスはやめておけ』とアンドロメダを説得しなければならなくなる。アンドロメダはキグナスのどこがいいんだ?」
サガの脳の記憶域には、双児宮での氷河の戦い振りが未だに鮮明に刻み込まれていた。
故に、瞬の(悪)趣味は、双子座の黄金聖闘士には到底 理解できるものではなかった。

「あ、それは俺もそう思うんだけどさ〜」
偉そうに双子座の黄金聖闘士に同意してみせる天馬座の聖闘士に、サガは内心で、『キグナスと大同小異だったおまえが言うな!』と呆れ果てることになったのである。
だが――。

「だが、まあ、それが恋というものだからな……」
「へえ。おっさんにも身に覚えがあるんだ?」
「――」
本当に、最近の若い者は目上の者への礼儀を知らない。
遠慮会釈もなく目上の者のプライベートに首を突っ込んでくる青銅聖闘士のヒヨッコに、サガは、
「ノーコメント」
と答えることだけをしたのだった。






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