ゴールは、すぐ目の前に迫っていたはずだった。 ある日、乗り越えなければならない最後の試練が二人の前に立ち現われて、もちろん、その試練を乗り越えた二人は それぞれの聖衣と聖闘士の称号を与えられる。 そう瞬は信じていたのだ。 その日、教皇の間の一室に一人呼び出され、二人をここまで導いてくれた黄金聖闘士に、 「君の考えを聞きたい」 と尋ねられるまでは。 「僕の……考え?」 聖域には聖域のルールがあり、聖域にいる者はすべて そのルールに従って行動しなければならない。 守るべきルールを提示され、そのルールに従うように言われたことはあっても、“自分の考え”を求められたことは、瞬はこれまで ただの一度もなかった。 いったい既存のルールでは対応できないどんな非常事態が起きたのかと、瞬は不安に苛まれつつ全身を緊張させたのである。 それは確かに非常事態だった。 「氷河の母親が病に伏している。おそらく……もう長くはない。私は判断に迷っている。彼を母親の許に帰すべきかどうかを。君は、彼を母親の許に帰すべきだと思うかね」 瞬をその場に呼んだ男は、瞬にそう尋ねてきたのだ。 「あ……あたりまえです! 氷河は氷河のマーマのために――」 氷河は、彼の母のために聖域に来た。 母のために、聖闘士になることを決意した。 その人がいなければ、氷河が聖闘士になることには何の意味もないのだ。 判断に迷う必要がどこにあるのだと、迷っている人を 半ば責めるように、瞬は“自分の考え”を口にしようとしたのである。 が、迷っている男は、瞬に瞬の考えを最後まで言わせなかった。 おそらく瞬のために、彼は瞬の言葉を遮った。 「聖域が俗界の者たちから完全に遮断された場所だということは知っているだろう? そして、氷河はまだ聖闘士になっていない。まだ聖闘士になっていない氷河が聖域を出るためには、聖域での記憶を消し去らなければならない。聖闘士でない者に聖域の場所や内情を知られるわけにはいかないんだ。氷河はすべてを忘れ、二度と聖域に戻ることはない。これまでの修行も無駄になる」 「すべてを忘れる……?」 言葉だけをかろうじて理解し、だが、それがどういうことであるのかを実感できないまま、瞬は彼の言葉を復唱した。 判断に迷っている男が、ゆっくりと頷く。 「今、氷河を母の許に帰せば、彼は聖闘士になれない。その上、母親の死は免れられない。彼は生きる目的を失うだろう。だから――」 「だから……?」 「だから、このまま氷河に母親の死を知らせないという手もある。氷河が聖闘士になって――つまり、彼が母の死に耐えられるほどの大人になってから、その事実を知らせるという対処法もあるんだ。その方が、氷河の被る痛手は小さくて済むかもしれない。君はどう思う。氷河は、どちらの方が幸せだと思うかね」 「僕は――」 氷河の幸せは、氷河にしかわからないものだろう。 氷河の幸せが何であるのかは、氷河自身にしか決められない。 だが、今は、彼に母親の状況を知らせるか知らせないかは、他人が決めるしかない――氷河には選べない。 知らせなければ、氷河はこのまま聖域に留まり、やがては聖闘士になるだろう。 だが、知らされれば――その場合には、氷河は母の許に帰るか聖域に留まるかを、自身で選ぶことができる。 理屈ではそうなのだが――瞬にはわかっていた。 知らされれば、氷河は、すべてを捨てて母の許に駆けつけるだろう。 彼は、彼の母のために聖闘士になろうとしたのだ。 自分自身のために聖闘士になろうとしたことなど、氷河は一度たりとも、一瞬たりともない。 「僕が氷河のマーマなら……氷河には知らせないでほしい。でも、僕が氷河なら知らせてほしい。大人になって母親の死にも耐えられるほどの力を養ってから そのことを知らされる方が、確かに氷河が受ける痛手は小さくて済むかもしれない。でも、氷河は、その痛手に耐えることはできても、忘れることはない。氷河はいつまでも その痛みを忘れられず、いつまでもその痛みを引きずり続けることになる。抜けない棘のようにずっと、氷河のマーマの死は氷河の心に突き刺さったまま――」 それでは、氷河は決して真の幸福には至れない。 「僕が聖闘士ならきっと……聖闘士の僕は氷河に知らせないと思う。聖闘士としての責任や義務の方を重視すると思う。でも、僕はまだ聖闘士じゃないから――」 その事実が自分にとって幸運なことなのか不運なことなのか――それは、瞬にはわからなかった。 氷河を失うことは悲しく苦しい。 だが、自分が氷河を彼の母の許に帰してやれることは――おそらくそれは喜ぶべきことなのだと、瞬は思った。――思おうとした。 「氷河を彼のお母さんのところに帰してあげてください。この世界は、氷河の分も僕が守るから」 聖闘士でない瞬は、そう答えた――答えることができた。 「もう、二度と氷河に会えなくなるんだぞ」 それを覚悟の上で“自分の考え”を告げた者に、彼はなんという残酷な事実を突きつけてくるのか――。 瞳から幾粒もの涙を零しながら、瞬はもう一度“自分の考え”を彼に告げた。 「氷河をマーマのところに帰してあげて」 痛ましげに瞬を見おろしていた男が、やがて ゆっくりと頷く。 「おそらく、たった今、君は聖闘士になった。我が身と心を犠牲にしても 人の真の幸福を願う心を持った者が聖闘士だ。アテナ神殿に行きたまえ。君の聖衣が君の身体を包むことになるだろう。……今すぐでなくていいから。その気になった時でいい」 「……」 これが自分が聖闘士になるための最後の試練、最後の条件だったというのなら、自分は聖闘士になどなりたくなかった。 聖闘士になど、永遠になれなくてもよかったのに――と、瞬は思ったのである。 |