昨夜、瞬が氷河に“ロシアの寒い日の習慣”を実践してもらったのだろうことは、その手のことに疎い星矢にも容易に察することができた。 おかげで、星矢は、『今夜のうちに瞬に正直に真実を告げ謝罪しなかったら、たとえ氷河がどんな理屈をこねてきたとしても、明日 自分はあの独善的な仲間を完膚なきまでに叩きのめしてやる』という固い決意を実行に移すことができなかったのである。 翌日、星矢の前に姿を現わした瞬は、『世界中の人間が認めるような正論も正義の鉄拳も、氷河と行なう寒い日のロシアの習慣ほど正しくはないし価値もない』と言わんばかりに明るく輝く笑みを その顔に浮かべ、全身で我が身の幸福を主張していたのだ。 昨夜までの意気消沈振りはどこへやら、瞬があまりに嬉しそうにしているので――星矢は瞬の明るさに迫力負けしてしまったのである。 その瞬が、にこにこ笑って仲間たちに言うことには、 「寒い冬が過ぎて夏が来ても、いつまでもあの習慣を続けていたいって思うようだったら、それが恋なんだって。ロシアでは、そうやって自分の心が恋しているのかそうでないのかを確認するんだって。面白い習慣だね」 「しゅ……習慣……?」 この重大事を、“習慣”の一言で、氷河は(瞬も?)片付けるつもりでいるのだろうか。 「僕は氷河に恋してるんだって。氷河が教えてくれたんだ」 たとえそれが事実だったとしても、それは他人に教えられて認識するようなことだろうか――? 瞬の屈託のない微笑のせいで、星矢は激しい頭痛に襲われた。 「僕が氷河に恋してるなら、あれは1年中してもいいことなんだって。僕、来年の冬までどうやって過ごせばいいのかって、ずっと心配してたんだけど――ほんとによかった。僕が氷河に恋してて」 自分に都合のいい習慣を捏造し、それを素直な仲間に信じ込ませて良心の呵責も感じていないような卑劣千万な男に ちらりと視線を投げ、瞬は花が恥じらうように その頬をぽっと朱の色に染めた。 瞬が聖闘士になるための修行を積んできたアンドロメダ島は、インド洋ソマリア沖に浮かぶ絶海の孤島。 そんなところでは、性教育や情操教育までは、瞬の師も手がまわらなかったらしい。 瞬は氷河の言う“ロシアの習慣”を、その有効と有益を、一片の疑いもなく信じ切っているようだった。 昨夜、氷河は結局、瞬に本当のことを言わなかったのだ。 本当のことを正直に告白して謝罪するどころか、古い嘘を新しい嘘で糊塗して、氷河は瞬を丸め込んでしまったらしい。 アテナの聖闘士にあるまじき氷河の卑劣卑怯にむかつき、星矢はすべてを瞬にぶちまけてしまいたい衝動にかられた。 が、恋を知らされたばかりの瞬があまりに幸せそうにしているせいで、どうしても本当のことを言うことができない。 星矢は、正義の実践と瞬の幸福の間で、激しいジレンマに苛まれることになってしまったのである。 「氷河、おまえ、どこまで卑怯なんだよ……!」 結局、自らの怒りを公にすることを断念せざるを得なくなった星矢が、瞬には聞こえないように抑えた声で、氷河に向かって非難の呻きを投げつける。 しかし、氷河は、涼しい顔で仲間の非難をかわしてしまった。 「プロメテウスは、人間に火や農耕の方法を教えた人類の恩人とされているようだが、彼は人間に嘘の技術をもたらした神でもある。俺は、奴の“盲目の希望”を喜んで受け取るほど おめでたい人間ではないが、瞬を泣かせないためになら、卑怯狡猾というプロメテウスからの贈り物は ありがたく利用させてもらう。人生には限りがあるから、黙って見詰めていればいつか思いは通じるなんて悠長なことを言っていたら、人はあっという間に歳をとってしまうだろう。俺はそんなのは御免だ」 氷河はもっともらしい理屈を並べ立てて己れの所業の正当化を計ろうとするが、それはどう考えても、詭弁に類することである。 氷河の主張には、理もなく正義もない。 あるのは、彼が、“ロシアの習慣”などという大嘘で瞬を幸福にしてしまったという、驚愕の事実だけだった。 正義や真実ではなく、捏造された“偽りの習慣”が、瞬を幸福な人間にしてしまったのだ。 「人の心より時間の方を重視するのも ロシアの習慣なのか」 「時間に恋人を奪われるのは愚かな行為だ。俺はもう二度と誰にも瞬を奪われるつもりはないし、まして、他人の都合で何年も瞬と離れている事態を甘受するつもりはない」 「それは……」 苦いものを含んだ氷河の断言が、星矢の憤りを急速に萎えさせる。 氷河が実は天馬座の聖闘士より はるかに人生に怒りを覚えていることを知らされて、星矢の肩からは思わず力が抜けてしまったのである。 ロシアの“普通”の習慣のせいで誤解されていた数ヶ月以前に、氷河は7年間、オトナの都合で瞬を奪われていたのだ。 彼が焦る気持ちも、急ぐ気持ちもわからないではない。 まして、一輝のいない今は、氷河にとっては千載一遇の好機だったのだろう。 チャンスの神は前髪しか持っていないという。 氷河は巡り会ったチャンスの神の前髪を素早く掴みあげ、そして最大の成果を手に入れたのだ。 「ロシア人ってのは、ドストエフスキー的に、もっと深く静かに執念深く恋をするんだと思ってたぜ。おまえ、ロシアにいた頃も、変人の ひねくれ者で通ってただろ」 瞬が幸せになり、これからも幸せなままでいられるというのなら、確かにここで詰まらぬ正義や正論を持ち出すことは、無益な愚行なのかもしれない。 それ以前に、氷河が瞬を好きでいて、瞬が氷河を好きでいるという事実に太刀打ちできる正義は、この世に存在しないだろう。 それでも、せめて一矢を報いるくらいのことをしてやりたかった星矢は、ギリシャ悲劇ならぬ“ロシアの魂の大地”ドストエフスキーを引き合いに出して、氷河に皮肉を投げつけてやったのである。 「 ロシアの習慣にのっとって、氷河が涼やかな目と口調で星矢の皮肉に応じる。 氷河の巻き舌が、とにかく星矢の癇に障った。 Fin.
|