氷河と瞬の冷戦の真の原因をついに知らされた星矢は、これ以上ないほどに激しく混乱することになった。 錯乱する理性と悟性と感性を懸命に静め、なだめ、何とか事実の整理を試みる。 そうして 星矢の頭の中でまとめあげられた氷河と瞬の冷戦の経緯は、以下の通り。 まず、氷河は(彼にとっての)事実――自己評価――を告げた。 瞬が、その発言に異議を唱える。 だが、氷河は、瞬の異議を受け付けなかったのだ。 瞬に食い下がられても、泣きつかれても、氷河は瞬の意見を なにしろ、瞬の涙に負けて発言を撤回し瞬の見解を認めると、氷河という男は『優しくて綺麗で、傷付いた人の心を思い遣ることもできる強い人』だということになってしまうのだ。 しかしながら、それは、(おそらく)氷河との恋に夢中になっている瞬の目の中にだけ存在する氷河であって、本当の氷河の姿ではない(と氷河は思った)。 氷河は多分に自信過剰のきらいはあるが、決して うぬぼれ屋ではなく、故に、彼は瞬の主張を認めることができなかったのだろう。 瞬の語る氷河像は“本当の氷河”ではないのだ(と、本物の氷河は思っている)。 氷河が瞬の言い分を認めることは、彼が瞬に嘘をつくことになり、瞬に対して誠実でありたい氷河には、それは決してできないこと――してはならないこと――だったのだ。 とはいえ、そんな氷河にも、『自分の真の姿を自覚していること』と『瞬の錯覚を喜ばしく思うこと』は、また別問題なのだろう。 別問題であるに違いなかった。 その事実に気付いた紫龍は、氷河と瞬の冷戦の真実を知らされて あっけにとられている星矢の横で、大々的に顔をしかめることになったのである。 確かめたくはなかったが、確かめないわけにもいかない。 嫌々ながら――紫龍は、氷河に確認を入れることになった。 「氷河。おまえ、もしかして、瞬が怒れば怒るほど嬉しい……か?」 「ああ」 頷く氷河の瞳は、本当に嬉しそうだった。 悦に入り、満足しきっている男のそれと言ってもいい。 「俺のために怒ってくれている瞬は、一段と綺麗だ。うっとりする」 悔しそうに唇を噛みしめている瞬を見詰める氷河の瞳と眼差しは、その言葉通りに うっとりしており、氷河は楽園の夢でも見ているかのように幸福そうだった。 つまり、氷河は、冷戦勃発の瞬間からずっと、いついかなる時にも、瞬の憤怒を喜んでいたのだ。 星矢の目には鬼婆のように映る、眉を吊り上げた瞬の顔。 それが、氷河の目には、春の野辺に咲く小さなスミレの花のように可憐に映っているのだろう。 氷河は瞬が可愛くて可愛くて仕方のない状態だったのだ。 昼間から愛撫に及びたくなるのも仕様のないこと。 この世界にある正義は一つではないだろうが、同様に、美しさというものも 人の目の数ほど存在するものであるようだった。 昼間の瞬が氷河に見せる憤怒の表情、意地を張ったようなきつい言葉と口調、あえて氷河を避ける態度や視線。 それらの何もかもが、氷河には瞬の可愛らしい愛撫で、前戯にも感じられる行為だったに違いない。 冷戦の真っ最中に瞬が氷河を寝室に誘うとき、氷河が瞬を寝室に伴う時、おそらく二人は一刻も早く一つにつながり合わなければ身体がもたないレベルにまで昂ぶってしまっていたのだろう。 二度と離れることはないだろう二人と思われながら、朝がくるたび離れてしまっていた二人は、実は ただの一度も、ただの一瞬も、離れたことはなかったのだ。 喧嘩の最中だというのに毎晩一緒に眠るのも、氷河にしてみれば、自然かつ当然かつ必然のことだったに違いない。 この段になって星矢はやっと、氷河と瞬の冷戦が真面目に心配するようなトラブルではなかったことに気付いたのである。 「あー。俺、こういうのにぴったりの ことわざを知ってるぞ。なんだっけ。『竹食う牛も好き好き』じゃなく『割れ壁に黒豚』でもなく、えーと、ほら、あれ!」 思い出したいことを思い出せず、もどかしげに焦れてみせる星矢の表情からは、つい数分前までの深刻な緊張感はすっかり消えてしまっていた。 紫龍が、星矢に助け舟を出す。 「夫婦喧嘩は犬も食わない」 「それだ!」 該当することわざを紫龍に示してもらった途端、まるで悪い憑き物が落ちたように、星矢はすっきりした顔になった。 人間は無益な過ちを犯す生き物である。 言わなくてもいい悪口を言ってしまったり、争わなくてもいい人と争ってみたり、時には、全世界を巻き込んだ争乱を引き起こしたりすることもある。 過ちを犯さずに生きることは、おそらく人間には不可能なことなのだ。 ならば、人は、せめて犯した過ちから何かを学び、同じ過ちだけは繰り返さないようにしなければならないだろう。 そして、星矢は、氷河と瞬のこの馬鹿げた冷戦から、一つの貴重な教訓を得たのである。 『夫婦喧嘩は犬も食わない』――という、非常に貴重な教訓を。 その成果に満足し、星矢は紫龍と共に春の庭を立ち去った。 ただの一度も、ただの一瞬も、後ろを振り返ることなく。 氷河と瞬が、その 知りたいとも思わなかった。 それは犬も食中毒を恐れて食しようとはしないもの。 人間は、なおさら近付いてはならないものなのだ。 Fin.
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