「ヒョウガ……」 彼が“あのこと”を『知ってる』のなら、これは神をも畏れぬ振舞い、神への冒涜行為である。 喜びに輝いていていいはずの花嫁の頬は真っ青だった。 教会の庭で、そんなシュンの肩を抱き、ヒョウガが、戸惑いに揺れるシュンの瞳を見詰めて言う。 「世の中が人間一人一人の思惑など無視したところで動いているというのは事実のようだ。それが神の意思なのか、それ以外の何かなのかは、俺にはわからない。ただ俺は、そんな世界の中で、せめて 心を持った人間としての意地を通したい。俺たちを不幸にしようとする運命に抵抗したい。俺はおまえを愛しているんだ」 「ヒョウガ、でも――」 「ロミオとジュリエットも、その力に抗い幸せになろうとして、成就できなかった。だからこそ、俺たちは、必ず幸せにならなければならない。俺たちが実現しなければならないのは、両家の統一を願った祖父母の遺言じゃなく、若くして死んでいった恋人たちの祈りでもなく、彼等が作った今のこの世界で生きている俺たちの幸福だ。俺はおまえを愛している。ずっと一緒にいてくれ」 「で……でも、ずっと一緒にいても、僕は、モンタギューとキャピュレットを継ぐ子供をヒョウガにあげることはできないんだよ……」 これは祖父母の遺言によるものでも、ロミオとジュリエットの祈りによるものではないと、ヒョウガは言う。 だが、シュンは、今ばかりは、従順な妻として素直にヒョウガに頷くことはできなかった。 モンタギュー家とキャピュレット家が一つになることは、亡くなった人々を含め、ロミオとジュリエットの悲劇を知る すべての人々の悲願なのだ。 我が身ではそれを実現できないことがわかっているからこそ、シュンは、ヒョウガを恋したその時からずっと苦しみ続けてきたのである。 だが、ヒョウガは、シュンのそんなためらいを――シュンのこれまでの苦しみさえをも、軽く一蹴してしまった。 「俺たちの両親だって、跡継ぎのいない家に養子として入った者たちだ。そんなことはどうにでもなる。大事なのは、愛し合う恋人同士が一つに結ばれることだ。それ以外に重要なことなど何ひとつない」 「でも――」 「おまえは『でも』以外の言葉を知らないのか。こういう時は、『僕もヒョウガを愛してる』と言っていればいいんだ」 「ヒョウガ……」 それは、シュンには言うことを禁じられた言葉だった。 永遠の愛を神に誓ってしまった今でも、ヒョウガにその言葉を告げることはためらわれる。 シュンの薔薇色の唇が、頑なにその言葉を拒む様を見て、ヒョウガの顔はにわかに かき曇ることになった。 「おまえが俺が嫌いなのか」 なぜヒョウガはそんな ありえないことを口にしまえるのかと、シュンは泣きたい気持ちになったのである。 「好きだよ! 生まれた時から、ヒョウガしか見てなかった。でも、だからこそ、ヒョウガには幸せに――」 「今夜――いや、もう今朝か。おまえがその心と身体を俺に任せてくれたら、俺は世界でいちばん幸せな男になる」 「そ……そんなこと無理だよ」 「恐いのか」 「こ……恐くなんか……! 僕が言ってるのは、そういうことじゃなくて……!」 シュンが恐いのは、このまま神を欺き、ヴェローナの人々を欺き通せば、自分はヒョウガと人生を共にすることができるのかもしれない――という事実だった。 そんなことが許されるのかという疑いだったのである。 ヒョウガに抱きしめられることが恐いのではない――つもりだった。 「こ……恐くなんかないよ……!」 瞼を伏せて、シュンは小さな声で同じ言葉を繰り返した。 シュンがかなり無理をしていることはヒョウガにもわかっていたのだが、あいにく ここでシュンを甘やかしてしまうほど、ヒョウガは優しい夫ではなかったのである。 「よく言った」 ヒョウガが、嬉しそうにシュンの髪にキスをする。 それから彼は、教会の前に集まっている物見高い者たちに一瞥をくれた。 「婚姻成立の証人は、この中から調達するか。なり手はいくらでもいそうだ。奴等がおまえの寝室の前から逃げ出したくなるくらい、おまえを喘がせてやるから、楽しみにしていろ」 「ヒョウガ、どうしてそんなに自信満々なの。そういうこと、どこで覚えてきたの。やっぱりヴェネツィアからきたっていう人と――」 それが貴族の子弟のたしなみなのだと知ってはいても、ヒョウガが自分以外の誰かを抱きしめたことがあるのだと思わざるを得ない現実は、シュンの心を傷付けた。 ヒョウガが、あっけらかんとした様子で、そうではないことを白状する。 「焼きもちは焼かなくていい。夢の中で、おまえと練習したんだ。長いこと待たされた。おまえはジュリエットの歳をとっくに越したというのに、いつまでも俺を待たせ続けてくれたからな。もう抑えがきかん」 「ヒョウガ……」 「焼きもちを焼く必要はないが――その代わり、俺が下手糞でも、どんなドジを踏んでも笑うなよ」 「あ……」 本当にそれが叶うのだろうか――。 もし本当に、神の御前で誓った永遠の愛を真実のものにできるのなら、シュンには何一つ“恐い”ものなどなかった。 神の怒りすらも、今は恐くはない。 「僕、恐くないよ。何も恐くない」 「いくら下手糞でも、俺がおまえにひどいことをするはずがないだろう。安心してろ」 シュンが、それでも少し不安げに、我儘な恋人を見詰め、微笑む。 「まあ、少しばかり痛い思いはさせるだろうが、あとでいくらでも謝る」 「ヒョウガに謝られたら、僕はどんなことでも許しちゃうよ」 「知ってる」 我儘な夫は心得顔で頷き、そうして、彼の永遠の伴侶を抱きしめたのだった。 もうこの人と生きていくしかない。そういう生き方しかできない――と、シュンは、ヒョウガの胸の中で思ったのである。 それが叶わぬ夢だと思ったから絶望したのだ。 だから、簡単に死を選ぶことさえできた――できてしまった。 ヒョウガの側にいるのでなければ、自分が生きていることも無意味に思えて、自分という無価値な存在を消し去ってしまいたかった。 だが、ヒョウガは、そんなシュンの生と存在に意味と価値を与えてくれるという。 どうして、この人から離れることができるだろう。 シュンは、その夜――もとい、その朝――、ヒョウガに己れの心と身体を任せたのである。 それは、子供を亡くした二組の夫婦の願いが叶い、ヴェローナの町のすべての住民の願いが叶い、悲しい恋人たちの思いが叶った日だった。 その日、恋人たちには不吉な町だったヴェローナは、幸福な恋人たちの町へと生まれ変わったのである。 人は、一人だけでは、大抵は運命の力に負けてしまう――諦めてしまう。 だが、二人なら、運命に打ち勝つこともできるかもしれない。 一組の恋人たちの思いが、一つの町―― 一つの世界を変えてしまったように。 だから、人は、自分以外の誰かを愛するのだ。 Fin.
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