「こんにちは」
俺が瞬に 意識してにこやかに声をかけると、瞬の連れの金髪男はむっとしたように俺を睨みつけてきた。
「あ、こんにちは。氷河、こちらタナカさんだよ。こっちで知り合ったの。タナカさん、彼は氷河――僕の正義の味方志願の仲間です」
瞬は明るく微笑いながら仲介の労を取ってくれたが、金髪男はむすっとしたまま、俺に挨拶ひとつ、会釈ひとつ返してよこさなかった。
瞬がきまりの悪そうな顔をする。

瞬がそんな申し訳なさそうな顔をする必要はなかったのに。
俺は、金髪男の無礼にちっとも腹を立てていなかったんだから。
この男は、俺のせいで機嫌を損ねている。
つまり、この男の目には、俺が映っているということだ。
俺は、この男の目に映りもしないような小さな虫けらじゃなく、ちゃんとした人間なんだ。
そう思えることが、俺の心を奮い立たせた。
そして、俺は、この週末に最も適切な時宜を見計らって瞬に告げようと決意していた言葉を口にしたんだ。
その言葉は、今、この派手な金髪男のいる場所で言うのが、“最も適切”だと思ったから。

「瞬さん、俺と付き合ってください」
「え?」
「け……結婚を前提として」
俺が勇気を奮い起こして震える声で言った その言葉は、瞬を驚かせたようだった。
瞬がその瞳を見開き、2、3度大きく瞬きをする。
瞬の向かいの席に腰をおろしていた金髪の男も、まるでキリスト教の教会で墨染めの袈裟を着た坊主に出会いでもしたように 呆けた顔をしていた。

それが突然すぎ、唐突すぎる申し込みだったことは、俺も認める。
だが、俺は、今ここで それを言わなきゃならないと思ったんだ。
瞬と金髪男の親密な様子を、たとえば今日一日見せつけられ続けていたら、俺は明日にはすべてを諦めてしまっていることがわかっていたから。
俺は、自分の申し込みが唐突すぎたことは認めるが、自分がおかしなことを言ったとは思っていなかった。
俺は瞬を好きだし、この気持ちは真剣なもの。
真剣なものだっていうことをわかってもらうのに、“結婚”という言葉を持ち出すのは そう突飛なことじゃないだろう。
むしろ常套手段といってもいい。

そして、“結婚”は金のある男にだけ口にできる特権だ。
見かけばかりが派手でサイフがカラの この男には言えないセリフのはず。
だからなのか、最初はぽかんとして俺を見ているだけだった金髪男は、やがて その拳をぶるぶると震わせ始めた。
俺は滅茶苦茶いい気分になった。
これで腹を立てるってことは、それがこの派手男の弱みを突いた行為だったからなんだと思ったんだ。

「僕は……あの、すみません、こちらにいらしてください」
俺より先に金髪男の拳の震えに気付いていたらしい瞬が、掛けていた椅子から立ち上がり、俺の腕を引く。
ケーキより他人のゴシップが好物らしい女性客たちの視線が俺たちに集まっていることに、その段になって、やっと俺は気付いた。

「なぜあんなことを――」
ティーラウンジを出た廊下で、瞬が困ったような目をして俺を見詰めてくる。
俺は、ここで引くわけにはいかなかった。
俺はその言葉を――『あんなこと』を――口にしてしまったあとだったから。

「あんな顔だけの男に比べたら、俺の方がずっとましだろう。俺は君に一生不自由はさせない」
我ながら情けないと思わないでもなかったんだが、俺の武器はそれだけだ。
そして、武器というものは、使える時に使わないと ただのガラクタ。
俺は決死の思いで瞬に訴えたんだが、俺の強気は瞬を困らせるだけのものだったらしい。
瞬の困却の内容は、俺が考えているものとは少々 趣を異にしたものだったらしいが。
「そ……そういう冗談は、あの、危険ですから、やめた方が――いえ、やめてください」
「危険?」
何が危険だというんだ? ――と尋ね返す前に、俺は瞬の忠告の意味を理解することになった。
俺たちを追って、あの金髪男が廊下に出てきていたんだ。

「俺が顔だけの男だと?」
憤懣やる方ないという声と顔と態度で、金髪男が瞬を押しのけ、俺の正面に立つ。
俺の目には、実際より20センチは、その男がでかく見えた。
次の瞬間、金髪男は、おそるべき素早さで、その拳で風を切っていた。
幸い、その拳の狙いは俺の顔面じゃなく、俺の後ろにある廊下の壁――の方だったようだが。

「氷河っ!」
瞬の鋭い声が廊下に響き、金髪男の拳が俺の頬すれすれのところで ぴたりと止まる。
「もう! それで壁を崩してしまったら器物損壊の現行犯だよ。沙織さんに叱られてもいいの」
瞬はそんなことを言って金髪男の拳を収めさせたが、確かにこの男の拳なら、ホテルの壁を崩すくらいのことは簡単にできてしまっていたかもしれない。
1ミリたりとも触れていないというのに、俺の頬の肉は奴の拳が作った風圧で、確実にその瞬間 歪んでいた。

『色男 金と力はなかりけり』と俗に言うが、この金髪男は腕力は備えているらしい。
だが、今の世の中、それが何の役に立つというんだ
「俺の方が金を持ってる!」
「瞬。こいつは何を言っているんだ。俺はこの男の言うことが全く理解できない」
「それは、僕だって……」
金髪男だけならともかく瞬までもが――瞬も、俺の訴えている事柄の意味が全く理解できていない――ようだった。
結婚前提という切り札がなくても、単に遊びで付き合うにしても、金の有無は大事だと思うのに。
その意味、その価値が、瞬にはわからないというのか?
そんなはずはない。

「俺と付き合ってくれ。できる限りの贅沢をさせてやる。俺にはその力があるし、そのためになら、身を粉にして働くこともする」
瞬にわかってもらうために、俺は懸命に言い募った。
俺は必死だった。
瞬を手に入れることができたなら、俺はきっと怠け者ではなくなる。
何かをしようという意欲を持った男になれる。
俺は、何事かを為している何者かになりたい。
俺がそういうものになるためには、瞬が必要なんだ。

俺の必死の訴えにもかかわらず、瞬の返事は――これまでいつも、何に対しても優しすぎるほどに優しかった瞬の返事は――今日に限って、ひどく厳しいものだった。
「僕はあなたと お付き合いすることはできません。僕は正義の味方志願ですから――あなたの側にいたら、僕はあなたに迷惑をかけることになります」
言葉は婉曲的なものだったが、それがきっぱりした拒絶だということは、火を見るより明らかだった。
俺は食い下がった。
「正義も地上の平和もどうでもいいいじゃないか。俺は、自分のことを――君のことを言っているんだ!」
「僕は、自分の存在を、地上の平和の実現と切り離して考えることはできません」
「世の中、顔より金だぞっ。そいつは、俺より金を持っているのかっ」

瞬の意思は疑いようもなく はっきりしていた。
俺はやけになって、瞬の傍らに立つ金髪男に向かってわめきたてていた。
瞬が、自分の隣りにいる金髪男を、横目で窺うように見上げる。
金髪男は、数秒の間 何事かを考える素振りを見せてから、
「5円くらいなら」
という、阿呆な答えを返してきた。

この男は俺を馬鹿にしてるのかと、俺は思ったんだ。
俺はその1億倍の金を持っている。
ところが――金髪男の所持金額を聞いた瞬の反応は、金髪男よりも更に馬鹿げたものだった。
「5円……って、氷河、お金なんか持ってたの !? 」
と、瞬は言ったんだ。
金髪男の所持金の高額に驚愕したような声で。
金髪男が、瞬に浅く頷く。

「星矢が、日本のお守りだと言ってくれたんだ。俺が十二宮でカミュを亡くして落ち込んでいた時に」
「あ……」
瞬は、金髪男の説明を聞くと、なぜかひどく優しい表情になった。
そして、切なげに微笑む。
「『いい ご縁がありますように』だね。それは大事に取っておいて」

俺なら――俺が瞬にそんな切なげに優しい笑みを向けられたなら――俺の胸は、それこそ切なく締めつけられるように痛むことになっていただろう。
が、俺よりはるかに恵まれた男は、恵まれすぎて感性が鈍感になっているのか、瞬の切ない微笑にも全く感動した様子を見せなかった。

「いいご縁――? そんな詰まらない語呂合わせだったのか?」
「詰まらないだなんて!」
言葉通り詰まらなそうにぼやいた金髪男を、瞬が激した声で叱咤する。
「幸せっていうのはね、本来は、仕合わせ――二つの何かが出合うことを言ったんだよ。つまり、幸せっていうのは、出会いっていう意味なの。人を幸せにするのは、いつだって人との出会いなんだから。星矢は氷河に仕合わせになってほしくて、だからそれを氷河にくれたの。氷河は星矢からもらったものを大事にしなきゃならないんだよ!」

瞬の剣幕に出会った金髪男が、僅かに両の肩をすくめる。
それから奴は真顔になって、静かに頷いた。
「人との出会いが人を幸せにするという、その考えには賛同するな。おまえに会えなかったら、俺は今でも不仕合わせな男のままでいただろう」
「氷河……」
金髪男の告白に、瞬の瞳が更に切ない色を濃くする。
だが、その時、金髪男は、瞬より更に切なげな目をして瞬を見詰めていた。

それで、なんとなくわかったんだが――。
この金髪男は決して自分の幸運に鈍感なわけじゃなく、瞬に切ない目をさせないために、わざと鈍感な振りをしているんだ。多分。
そんなことがわかっても――わかってしまったせいで なおさら――俺の苛立ちと焦慮は大きなものになってしまったが。

顔の造作の出来や金の有無より、人の心を思い遣れるっていう才能は、人の心を動かす大きな力だろう。
それくらいのことは、俺にもわかった。
俺の親父やお袋が、いつもそう言っていたから。
『結局 人の心を本当に動かすのは、いつだって 人の誠意だけなんだぞ――』
父さんと母さんはいつもそう言って、キャベツを刻み、フライを揚げていた――。






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