聖域のアテナ神殿の広間には、黄金聖闘士を筆頭にアテナの聖闘士たちが整然と居並んでいた。
アテナが着席している玉座の正面に、以前はハーデスの冥闘士であった男が、きまりの悪そうな顔をして立っている。
彼がきまりの悪そうな顔をしていたのは、彼がこれまで唯一の神としていたハーデスを結果的に裏切ることになったから。――ではない。
そうではなく――彼の渋面は、知恵と戦いの女神アテナから彼に(半ば強制的に)与えられた白鳥座の聖衣のせいだった。

鈍色の冥衣ではなく純白の聖衣を身につけた氷河を、玉座の置かれている高みから眺めて、アテナは満悦のていである。
それはそうだろう。
彼女は今日、彼女の宿敵であるハーデスから、彼の冥闘士を一人奪うことに成功したのだから。

「ハーデスの悔しがる顔が見えるようだわ。なんて気持ちのいい日かしら」
「子供じみて趣味の悪い聖衣だ。もっと他の聖衣はなかったのか」
上機嫌のアテナとは対照的に、氷河は、これ以上はないほどに不機嫌だった。
なにしろ彼は、あの異次元に瞬と氷河を閉じ込めたのは、ハーデスとアテナの小宇宙ではなかったことを、たった今 女神アテナの口から知らされたばかりだったのだ。
すべては、ハーデスの冥闘士をひとり 聖域に取り込むために、アテナが一人で企んだことだったという事実を知らされたばかりの氷河に、上機嫌でいることを求めるのは無理というものだったろう。
そのせいで、瞬は死にかけたのだ。

「白鳥座の聖衣を選んだのは私ではないわ。聖衣があなたを選んだの。そんな、気に入らない玩具を与えられた子供みたいに拗ねないでちょうだい。本当に子供みたいよ」
新たにアテナの陣営に加わった聖闘士を、女神アテナが 子供子供と馬鹿にする。
氷河は、高貴なる女神を じろりと睨みつけることになった。
アテナが、ひどく人間らしい所作で、大袈裟に その肩をすくめてみせる。

「だって、仕方がないでしょう。私の可愛い聖闘士が、冥闘士に恋をして切なげに思い悩んでいる姿を見せられたら、その恋を叶えてあげたいと思うのは当然でしょう。私は、すべての人間に希望と喜びを与えることに存在意義を感じている心優しい女神なのよ」
「アテナっ!」
おそらく その場でただひとり、素直に、心から感動して、白鳥座の聖衣を身につけた氷河を見詰めていた瞬が、アテナの言葉に慌てたように、高貴な女神の名を呼ぶ。
そんな瞬に にこりと優しい笑みを投げてから、アテナは、不機嫌を極めている白鳥座の聖闘士の上に視線を戻した。

「瞬は可愛いわよ。いろんな意味で。あなたも瞬に好かれて悪い気はしないでしょう」
「それはまあ……」
氷河が つい正直な答えをアテナに返してしまったのは、高貴高潔なる女神であるはずのアテナが、あまりにも気安い態度と口調で白鳥座の聖闘士に語りかけてきたからだったろう。
そして、氷河の正直な答えは、彼女の意に沿うものだったらしい。
「ほほほ。あなた、やっぱり私の聖闘士向きよ」
女神というよりは どこぞの我儘な貴族の令嬢といった風情で、アテナは、聖域の中でも至聖と言っていい場所に、高らかな笑い声を響かせたのだった。

彼女の聖闘士たちは、アテナのそんな人間くささに慣れているのか、女神の高笑いに眉をひそめる者とてない。
それが彼女の彼女たる所以ゆえんだということを、彼等は心得ているようだった。
彼等はむしろ、アテナの玩具箱に加わった新しい玩具に同情の目を向けていた――かもしれない。

「せっかく この世に生を受けたのですもの。厭世家を気取って、生きることを楽しまないのは損というものよ。これからは、私と私の聖闘士たちと一緒に、前向きに、希望を持って、楽しく生きていきましょうね!」
力強く、勝ち誇ったようにそう言うアテナに――姿だけは白鳥座の聖闘士より年下の少女の姿をした女神に、氷河は、本音を言えば『誰が!』と反抗してみせたかったのである。
反抗してみせたかったのではあるが。

アテナの玉座の足許で、頬を薄桃色に上気させ、恥ずかしそうに ちらちらと、瞬が白鳥座の聖闘士の姿を窺い見ている。
瞬のその様子を見ているうちに、氷河は、高慢で我儘な この女神の思い通りになるのは癪だが、この先の人生をずっと瞬と共に生きていけるのなら それでもいいかと思ってしまったのだった。

この腹立ちは、瞬が静めてくれるだろう。
子供のように機嫌を損ねている白鳥座の聖闘士を、瞬はきっと可愛く優しく なだめ慰めてくれるに違いない。
それだけではなく――瞬はおそらく、ハーデスの冥闘士からアテナの聖闘士に華麗に(?)転身した男に、生きるための希望をも与えてくれるだろう。
だから、氷河は、彼に与えられた白鳥座の聖闘士という立ち位置を潔く認め受け入れることにしたのである。

新しい上司は気にいらなかったが、もともと不完全な存在である人間は、完全に満足できる人生を送ることはできないようにできているのだ。
だからこそ人は理想や希望を求めるのだと、瞬も言っていたではないか。
氷河にとって瞬は、不完全な彼の人生を補い、美しいものに変えてくれる、輝かしい希望そのものだった。






Fin.






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