氷河は――本当は彼は、彼の憂い顔の理由を仲間たちに打ち明けたくはなかったのだろう。
彼が 彼の憂い顔の理由を仲間たちに打ち明けたのは、自分が黙秘権を行使すればするほど 仲間たちの追及が執拗になることを承知していたからだったに違いない。
彼は、実に言いにくそうに―― 一つ大きな溜め息を洩らしてから、その憂い顔の理由を 星矢たちに告白してきた。
「だから、事のあとだ。俺とのことが終わってから、瞬がひどく沈んでしまうんだ。まるで自分が神をも恐れぬ大罪を犯してしまったとでもいうように――」
「へ?」
「どう言ったらいいのか――性行為に罪悪感を抱いているピューリタンのように というか、間違った性道徳を教え込まれたヴィクトリア王朝時代の英国人のように というか、セックスやマスターベーションで快楽を得ることは罪だと思い込んでいる思春期の無知な子供のように というか――そういう輩のようにだな、瞬は自分が途轍もなく悪いことをしているんだと思い込んでいるようなんだ」

「悪いことをさせられてる・・・・・・、だろ」
星矢の突っ込みに対して首を横に振ったのは、氷河ではなく紫龍だった。
「瞬は内罰的傾向の強い子だ。たとえ無理強いされたのだったとしても、瞬がそれを氷河のせいにすることはないだろう」
「……」
紫龍の意見への反論を思いつけず、星矢は唇を引き結ぶことになった。
確かに瞬がそういう事態に直面したなら、瞬はすべての責任と罪を我が身に帰すことを、ごく自然に為してしまうだろう。
その手のことに全く罪悪感を抱いていない男に、すべての責任と罪を負わせてしまった方が、事態は丸く納まるというのに。

「まあ、それは……そういう考え方は間違っていると こんこんと説いて、おまえが瞬の認識の間違いを説いてやるしかないだろうな」
そういった事情を踏まえた上で第三者が言える助言は、その程度のものだったろう。
オトコとオトコがそういう関係を結ぶことを『間違っていない』と説得する論拠をどこから持ってくるべきかというところまでは、紫龍も面倒をみてやるつもりはないらしい。
が、そんなものは、氷河なら聖書からでも教育勅語からでも探し出してくるだろう。
氷河はそういう男だった。
ゆえに、やはり、問題は瞬の方――ということになる。

「何か気掛かりでもあるのかと水を向けても、瞬は何もないと言ってごまかすんだ。こんこんと諭したくても、その端緒を与えてもらえない――」
瞬はおそらく、氷河に心配をかけたくないから、そうしている。
我が身に関わることの罪や責任を他人に負わせたくない、自分以外の人間に迷惑や心配をかけたくないという瞬の気遣いや遠慮が、事態をややこしくしているのだ。

「しかし、そこを何とかするのが、おまえの腕の見せどころだろう」
瞬の遠慮深さを粉砕し、瞬が その恋人に甘え頼りたくなる状況をセッティングする。
それこそが瞬の恋人の務めだろうと、紫龍が言いかけたところに登場したのは、その頑ななまでの遠慮深さと内罰的性格で事態をややこしくしているアンドロメダ座の聖闘士 その人だった。

メイドたちに協力を強要された菓子作りは、瞬が予想していたより困難で、瞬が想定していたより時間がかかる作業だったのだろう。
急ぎ足で駆けてきたのが一目でわかる様子で、瞬はラウンジの中に飛び込んできた。
「氷河、一人にして ごめんね。積み重ねたシューが1メートルを超えたところで、やっと解放してもらえたんだ!」

氷河を厨房から追い出して一人にしておくことは、瞬の本意ではなかったらしい。
ラウンジに飛び込んできた瞬は、そこに氷河の姿を認めた途端、ひどく幸せそうな表情を浮かべた。
まもなく、輝くような笑みが その顔全体に広がり、それは瞬の全身を包んでいく。
氷河のいったいどこがいいのか――と星矢などはいつも不思議に思っていたのだが、それは氷河に出会うたびに必ず瞬が見せる変化だった。
氷河の姿を認めるたびに、瞬の瞳と表情が 目に見えてが輝きだすのは。
瞬の悪趣味に呆れながら、星矢は、瞬が幸せならそれでいいかと思っていたのだ。
思っていたのだが。

これまでは氷河と一緒にいる限りにおいて絶えることのなかった瞬の笑顔が、今日はすぐに、星矢の視界の内から消えてしまった。
まるで自分が笑顔でいることは途轍もない罪悪だということに突然気付いたかのように、瞬は、彼の仲間たちの前から それを消し去ってしまったのである。
そして、瞬の眼差しは ひどく暗いものになった。

その不可解な一連の変転を終えてから、瞬は星矢たちがそこにいることに気付いたらしい。
まるで激しい頭痛に耐えていることを懸命に隠している接客業従事者のような様子で、瞬は、完全に意識して作った笑みを星矢たちに向けてきた。
「あ、星矢たち帰ってたの。星の子学園のみんなは相変わらず? ボールをゴール前に運ばれると、やっぱり手でサッカーボールを持っちゃうの?」
形ばかりが優しく整い、全く輝いていない瞬の笑顔。
瞬の仲間たちがそんなもので満足することがあると、瞬は本気で思っているのだろうかと、星矢は少しずつゆっくりと腹が立ってきてしまったのである。
アテナの聖闘士たちは皆 美食家なのだ。
たとえそれが氷河一人だけのために用意されたものだったとしても、極上の笑顔しか見たくないし、味わいたくもない。

瞬の不自然極まりない笑顔を見て、これは確かに捨ておけない事態だと、星矢は思ったのである。
瞬のこの見るからに不味そうな笑顔が、氷河の下半身や寝言のせいでできたものでないというのなら、その真の原因を突きとめ、瞬の元の笑顔を取り戻さなければならない。
そのためには、まず、この不味い笑顔の原因を瞬に語らせなければならない。
そう、星矢は考えた。
『思い立ったが吉日』が天馬座の聖闘士の信条。
星矢は早速その作業にとりかかった。

「しけた顔してんな。氷河と喧嘩でもしたのか」
「そんなことしないよ。氷河は優しいもの。僕がどんな我儘言ったって、喧嘩にならない」
「でも、しけたツラしてるぜ。コーヒーに砂糖と塩を入れ間違えたみたいな」
「僕、コーヒー党じゃなく紅茶党だよ」
「なら、レモンとミルクを一緒に紅茶にぶちこんじまったみたいな」
「それは悲惨なことになりそうだけど――」
瞬がまた作りものの笑顔を浮かべる。
星矢は、この際、笑顔でなくてもいいから、作りものでない自然な瞬の表情と感情を見たいと思ったのである。
星矢がそう思わずにいられなくなるほどに、作られた瞬の微笑は、微妙かつ不自然なものだった。

「んじゃ、下半身の悩みだな。白状しろ」
「え……」
なぜ唐突にそんな話になるのかと、瞬は驚いたようだった。
そして、氷河のいるところで そんなことを言わないでほしいと思っているのが明白な、困惑の表情を浮かべる。
それが作りものめいたものではなかったので、星矢は一応 ささやかな満足を得ることができたのである。
瞬を困らせることは本意ではなかったが、星矢は瞬の作りものでない表情が見たかったのだし、これは氷河のいるところで言わないと意味のない話題だった。

「そんなんじゃないよ」
瞬が小さな声で答え、左右に首を振る。
「なら、なんだ」
「だから、何も――」
「あのさ。おまえは、おまえらのことをこんなに心配してやってる俺の気持ちを無にするわけ? おまえたちが幸せいっぱい夢いっぱいで浮かれてくれてたら、俺だって うんざりするだけで済ましとくけど、こんなふうに二人揃ってしけた顔されると、こっちまで気が滅入ってくるだろ!」
「え……」

自分だけでなく氷河も“しけた顔”をしていた事実を知らされた瞬が、ゆっくりと その視線を氷河の方に巡らす。
そこにあった青い瞳を見詰め、その眼差しの様子を見て、瞬は、氷河に“しけた顔”をさせている犯人が自分であることに気付いたらしい。
瞬は、その頬をさっと青ざめさせた。

「そんな……僕、そんなつもりじゃ……」
瞬が、その場から1、2歩後ずさる。
瞬の“そんなつもり”が“どんなつもり”だったのかを知らせてもらえずにいた氷河としては、瞬に『そんなつもりはなかった』と言われても、何を言ってやることもできなかったのだろう。
彼は無言で――おそらくは、瞬が彼を悩ませている何事かを打ち明けてくれることを期待して、瞬を見詰め返していた。
が、瞬は氷河のその期待に応えてはくれなかった。
「ご……ごめんなさいっ」
その場にいたたまれなくなったように、瞬は、何に対しての謝罪なのかもわからない謝罪の言葉だけを残して、ラウンジを出ていってしまったのである。






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