今は昼だろうか。
それとも夜なのだろうか――?
目覚めた瞬は、まず最初それを疑った。
部屋の照明はついていない。
室内は、瞬がいまだかつて見たことのない不自然な薄闇に包まれていた。

隣りで氷河が眠っている。
一日中屋外を走り回って遊び、心地良い疲れを友にぐっすり眠っている子供のような その寝顔に、瞬は我知らず微笑んでしまったのである。
二人のいるベッドがいつものそれと造りが違う――ような気がしたのだが、瞬の衣服はいつものようにベッドの下に投げ捨てられていた。
きちんと脱衣を済ませてからベッドに入ればいいのだが、氷河はベッドの上で瞬が身に着けているものを取り除いていく行為が好きで、滅多に瞬にそうすることを許してくれなかった。

腕をのばして拾いあげたシャツを羽織ってから、氷河を起こしてしまわないように注意して、瞬は寝台から下りた。
庭――なのだろうか? ――に向かって開かれたクラシックな木枠のガラス戸を開けた瞬は、そうして そこに黒い太陽を見ることになったのである。
あるいは、それは黒い月なのかもしれなかった。

「月食……ううん、日食――?」
月食は夜に起こる現象、だが瞬の周囲は夜の闇に覆われてはいなかった。
だとすれば、これは日食――それも、見事な皆既日食ということになる。
以前、冥府の王が地球に対して為そうとした不吉な企てを思い出し、瞬は良くない予感と、そして微かな頭痛を覚えた。

「瞬。どうしたんだ」
下だけ身仕舞いを整えた氷河が、不安な面持ちで空を見上げている瞬の横にやってくる。
瞬が見ているものと同じものを その目で認めて、彼は瞳を見開いた。
「これは――」
「太陽が……今は昼……だよね? 昼でも夜でもないみたい」
頭痛がますます激しくなる。
氷河が僅かに眉をしかめていることに気付き、瞬は、彼が自分と同じ痛みに耐えていることを知った。

太陽が金環蝕の輪を完全なものにした時、だった。
堤防の決壊によって生じた洪水のように、氷河と瞬に大量の記憶が襲いかかってきたのは。
そして、昼の記憶しかなかった瞬と 夜の記憶しかなかった瞬が一人になり、昼の記憶しかなかった氷河と 夜の記憶しかなかった氷河が一人になる――。
「あ……あ……」
「う、何だ、これは――」
「僕、氷河を忘れて――」
「俺が瞬にそんな――」
すべての記憶を時系列に正しく再構築し終えるまでに、瞬と氷河は数分の時間を要した。
記憶の混濁が消え、すべてが釈然とすれば、人は普通は爽快感を覚えるものだろう。
だが、氷河と瞬は――この場合の氷河と瞬は――そういうことにはならなかった。

まず瞬を混乱させたものは、瞬の記憶の回復と統合の完了を見計らっていたようなタイミングで森の奥から出てきた得体の知れないモノ。
それは生き物のようだった。
背丈は瞬とそう変わらず、四肢を持ち直立歩行をしているが、全身が灰色。
頭髪はなく、アーモンド型・鶏卵サイズの大きな二つの目と、胡麻粒を二つ並べたような鼻孔と曲線ではなく直線で描かれた奇妙な口唇。

それは、俗にグレイ型宇宙人と呼ばれているものに酷似していた。
その得体の知れないものが、口を動かさずに、作りものめいた声で言うことには。
「俺はレティクル座ゼータ星からやってきた宇宙人だ。地球人の愛というものがどれほどのものなのかを調査するために、おまえらの記憶を操作させてもらった」
「は……?」
「昼は氷河が瞬のことを忘れ、夜は瞬が氷河のことを忘れるようにしたんだ。外部から加えられた力で簡単に消える程度のものなら、地球人の言う愛などというものは恐れるに足りず、地球人の団結した抵抗など考慮せずに、俺たちは地球征服の事業を成し遂げることができるからな」
「あの……」
「瞬、すまん……! 俺はあんな無体をするつもりは――。俺は何ということをしてしまったんだ……!」

目の前で地球侵略計画をぶちあげている宇宙人を完璧に無視して、氷河が瞬の腕を掴み、必死の形相で訴えてくる。
今にも瞬の前に這いつくばって三拝九拝し始めかねない様子の氷河と、地球征服を目論んでいるという宇宙人を交互に幾度か見やった末に、瞬は、あえて氷河の謝罪が聞こえていない振りをすることにした。
罪悪感と悔恨にまみれている氷河の対処よりは、宇宙人撃退の方が より容易な作業だと、瞬は判断したのである。
自分の腕にすがるように絡んでいる氷河の手を外させて、瞬は宇宙人の方に向き直った。

「レティクル座ゼータ星から来た宇宙人? ば……ばかばかしい! こんなことだったなんて……。氷河も何とか言ってやって!」
瞬が、心底から立腹しているように氷河をけしかける。
瞬の命令には、氷河とて従いたかった。
今の氷河は特にその気持ちが強かった。
とはいっても、である。
「何とか言えと言われても……。馬鹿馬鹿しいことは認めるが、俺はそんなことより――」
そんなことより氷河は、自分が愛する瞬を傷付けてしまったことの方が大問題だったのだ。
そんな氷河の気持ちには気付いていない振りをして、瞬がグレイ型宇宙人を睨みつける。
レティクル座ゼータ星から はるばる地球までやって来た宇宙人はといえば、地球征服を企む宇宙人の登場にまるで驚いてくれない地球人に、すっかり怯え ひるんでしまっているようだった。

「ああ、もう……!」
瞬は、氷河のみならず、全く脅威を感じさせない宇宙人をも無視することにしたらしい。
瞬は、森の奥に向かって、大きな怒声を響かせた。
「沙織さんっ、いるんでしょう! 隠れてないで出てきてください! この馬鹿なお芝居をやめさせて! すべてを宇宙人のせいにして責任逃れをしようだなんて、女神アテナともあろうものが 焼きがまわったんですか!」

瞬が宇宙人に驚く素振りを見せないことで、沙織はおそらく自分に呼び出しがかかることを察していたのだろう。
彼女は瞬のご指名を受けると、ほとんど間をおかずに、その姿をアテナの聖闘士たちの前に現わした。
「あら、ばれちゃった」
「ばれないと思う方がどうかしてます! 日本語を話す宇宙人がどこにいますか!」
「いないとは限らないでしょう」
悪びれた様子のない女神を睨みつけ、瞬が二つの拳を握りしめる。
その拳を振り下ろす先は、残念ながらアテナの聖闘士である瞬には与えられていなかった。
さすがに女神アテナに拳を打ち込むわけにはいかない。
瞬にできることはせいぜい、アテナの代わりに、命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間を怒鳴りつけることくらいのものだった。

「星矢も! 早く、その変なかぶりものを取って! 自分で みっともないとは思わないの!」
「お……俺だって、好きでこんなカッコしたわけじゃないやい! アテナの命令だから仕方なく――」
星矢を責めても意味がないことは、瞬にもわかっていた。
記憶の操作など、聖闘士にもできるものではない。
それは人間のわざを超えた所業。
つまりは神にしかできない仕事。
となれば、この茶番の首謀者は女神アテナに決まっているのだ。

「なぜ、こんなことをしたんですか!」
「それはハーデスが……」
沙織が口の端にのぼらせた冥府の王の名を聞いて、瞬は顔をしかめることになった。
日食は、ハーデスのお家芸。
それは想定できないことではなかったのだが、できればそうではないことを、瞬は心の底で願っていたのだ。
「ハーデス? 沙織さん、まだあんな ろくでもない人と付き合っていたんですか!」
「彼とは長い付き合いだから……。腐れ縁というのは、なかなか綺麗に解消できるものではないのよ」

神々の都合など、人間である瞬の預かり知るところではない。
まして、沙織と組んで この茶番を企んだのが、アンドロメダ座の聖闘士の身体を勝手に使って散々仲間たちに迷惑を被らせてくれた冥府の王となれば、瞬の憤りは激しくなるばかりだった。
ハーデスとの腐れ縁が続いているという女神が、そんな瞬をあやすように事の次第を語り始める。
「彼がね、人間の愛だの恋だのというものは偶然と錯覚がもたらす産物にすぎない頼りないもので、だから、先だっての戦いで自分が負けたのも、たまたま偶然そうなっただけだと言ってきたの。それで、私もつい、『そんなことはない。出会いは偶然でも、人と人は愛し合わずにいられないから愛し合うんだ』って言っちゃって……。それで、今一度 試してみようということになったのよ。まあ、売り言葉に買い言葉というやつね」

「そんなもの、売られても買わないでくれ。試すのは結構だが、なぜ、俺と瞬で試そうとするんだ。おかげで俺は――」
そのおかげで、氷河は、悔やんでも悔やみきれない凶行に及んでしまった。
氷河は ハーデスにも宇宙人にも含むところはなかったが、彼はその件に関してだけはアテナを許すことができなかったのである。
が、アテナの理論武装は完璧だった。

「一般人に迷惑はかけられないでしょう。それに、あなたたちなら、多少 記憶をいじられたって必ずもう一度 好き合うようになるっていう確信があったし、事実 あなたたちは私の期待に応えてくれたわ。おかげで、私はハーデスとの賭けに勝つことができた。もし私が勝ったら、ハーデスは次の聖戦を予定より百年遅く開始すると約束してくれていたのよ。あなたたちは 地上の平和を百年分確保したことになるの。あなたたちはアテナの聖闘士として本当に素晴らしい仕事をしてくれたわ」
「……」

沙織の賞讃を素直に喜ぶことは、氷河と瞬にはできなかった。
二人はアテナの聖闘士であると同時に、心というものを持った一個の人間であり、また、瞬は氷河の、氷河は瞬の恋人でもあったのだ。
他の試練ならともかく、こんな試練だけは御免被りたかった。

「アテナとハーデスの勝負がつくまで、俺と瞬はいつまでも記憶の一部が欠如したままでいさせられることになっていたのか」
「私は、あなた方に、昼は氷河が瞬の記憶を失い、夜は瞬が氷河の記憶を失う術をかけていたのよ。今日、この付近で日食が見られることはわかっていたから、昼でも夜でもない今日この時刻、私のかけた術は解けることになっていたわ。2、3日あったら、どうせあなたたちはまたくっついてしまっているって自信があったもの」
「じゃあ、この日食はハーデスが起こしたものではないんですか」
「ええ。カレンダー通りのものよ。それで、日食が最も良く観察できるここを選んだの」
「ここはどこなんですか」
「ドイツ、マイニンゲン。ハーデス城のあったところよ。食事の準備や掃除の方は、城戸邸から連れてきたメイドたちが、あなたたちに気付かれぬようにしてくれていたの。日食観察オプションつき海外出張の希望者を募ったら、みんな喜んで協力してくれたわ」

ちらりと沙織が一瞥を投げた方を見やると、見覚えのある女性陣が館の二階のバルコニーに鈴なりになって、再び光を発し始めた太陽に楽しそうに見入っていた。
その様を認めた瞬は急に身体から力が抜け、がっくりと両の肩を落とすことになったのである。
ハーデスとアテナの実験材料に選ばれた二人以外は皆 この事態を楽しんでいたのだと思うと、自分の滑稽さが身に染みて、瞬は世の無情と非情にやるせなさを覚えることしかできなかったのだ。

「そんなことって……。僕が……氷河が僕を本当に忘れてしまったのだと思って、僕がどれだけ悲しい思いをしたか――」
「す……すまん! すまん、何もかも俺が悪い。俺が――いくらおまえに忘れられてしまったことがショックだったからといって、あんな暴力を――」
ハーデスとアテナの実験のもう一人の被験者が再び その顔を青ざめさせ、瞬に謝罪してくる。
が、今の瞬には氷河を責めることは到底できなかった。

「そんなことない……! あれは氷河のせいじゃないよ。氷河は、僕が氷河を好きでいるってことを知ってたんだから、あれは……悪いのは、氷河を忘れた僕の方で――」
言いかけた言葉を途中で飲み込む。
その理屈だと、瞬は、瞬を忘れた氷河をも責めることになってしまうのだ。
今 自分が氷河に告げる言葉はそれではない。
そんな言葉ではないと、瞬は思った。

「氷河、好きだよ。僕は、氷河が大好きだから、そんなふうに自分を責めないで」
「瞬……!」
恋人の寛大に感極まったように、氷河が瞬を抱きしめてくる。
そのまま氷河の腕と胸の温もりに酔うことができていたら、瞬はこの数日間の傷心を綺麗に忘れてしまうことができていたかもしれない。
瞬にそうすることを許してくれなかったのは、
「以前にも増して、二人の愛が深まってよかったわね」
という、のんきこの上ない女神の一言だった。
瞬を忘れた氷河より、氷河を忘れた瞬より、この場では いちばんの悪党が、全く悪びれていない様子で、二人のアテナの聖闘士(同性)の抱擁を微笑ましげに見詰めている――。

彼女には勝てない――と、その時 瞬は心から思った。
もちろん、これまでも瞬は彼女に勝てると思ったことはなかったし、勝ちたいと思ったこともなかった。
だが、それは、少なくとも これまでは、瞬が彼女を敬愛していたからであり、彼女が人間たちに向ける愛と信頼を信じていたからだった。
彼女と自分が これほど乖離した存在だとは、これまでの瞬は思っていなかったのだ。
今の瞬は、神という存在は、実は本当に宇宙人なのではないかと疑っていた。
沙織と自分たちとでは、言葉や価値観があまりにも違い過ぎる――。

「神様っていうのは本当は宇宙人で、地球は彼等の玩具箱なんじゃないかって気がする……」
その玩具箱の中に詰め込まれている玩具たちの、何とちっぽけで無力なことか――。
神は人の心を試し操ることさえ、容易に為してしまうのだ。
人は、自分の命さえ思う通りにできないというのに。
その事実に、瞬はもの悲しささえ覚え始めていた。

「それでも――人間が神々の玩具にすぎなくても、その玩具箱の中でおまえに会えてよかったと、俺は思うぞ」
「氷河……」
ほとんど いじけてしまいそうになっていた瞬の心を、同じ玩具箱の住人であるはずの氷河の言葉と心が慰め癒してくれる。
「氷河……それは僕だって……」
玩具箱の中の非力な玩具。
だが、そこに詰め込まれた人間たちが幸福になれないことはない。
その可能性に思いを馳せ、瞬は氷河の背にまわしていた腕に力を込めた。

「気まぐれで残酷な神にも、人間の愛情恋情だけは制御も制圧もできないわ。訳がわからないほど強くて、意外な方向に力を発揮することがあって、あれだけは神である私にも太刀打ちできないわね、どうしても」
宇宙人が地球人に対して常に圧勝するとは限らない。
愛だけが、残酷な神の与える宿命に打ち勝つことのできる、人間に与えられたただ一つの武器。
人間の愛を信じ、人の世の存続を是とする女神アテナは、この結末に大いに満足しているようだった。
満足の仕方は違っても、それは氷河も瞬も同じだったろう。

神の力に逆らうこともならず、さしあたって愛を確かめ合える恋人不在の星矢だけが、首から下は宇宙人のまま、その場に所在なげに間抜けな姿をさらしていた。






Fin.



私自身の名誉のために記しておきますが、この話の元ネタはこの映画です。



【menu】