北の国スタジアムの貴賓席の側近くに 大会の優勝者を招いたカミュ国王は、大層ご機嫌でした。
側でよく見れば見るほど優勝者の姿は可憐で清らか(しかも筋骨隆々ではないのです!)。
この瞬と氷河王子が並んだら夢のように美しい一対が出来上がることに 疑いの余地はありません。
その上、瞬が氷河王子の妻になれば、氷河王子が夫婦喧嘩で妻に打ちのめされる心配もなくなります。
瞬の武闘会での戦い振りから察するに、万が一 ふたりが夫婦喧嘩をするようなことがあっても、瞬はひらひら逃げるばかりで、氷河王子に正面から刃向かうようなことはしなさそうでしたからね。

何よりもカミュ国王は、氷河王子が瞬に恋していると確信できることを嬉しく思っていました。
これは氷河王子の意に添わない結びつきではないのだということが、カミュ国王は嬉しくてならなかったのです。
その点一つだけをとっても、瞬は、カミュ国王にとって、氷河王子の理想の花嫁、理想の妻、理想の王太子妃でした。

「瞬。顔をあげていいぞ。その可愛らしい顔を氷河にとっくり見せてやってくれ。そなたの戦い振りは実に見事だった。氷河の祝福のキスを受けてやってくれるか」
瞬のように貧しい孤児には、声が届くほど近くで一国の王様の拝謁を賜るなんて、信じられない出来事でした。
それまで深くこうべを垂れていた瞬は、カミュ国王の言葉に従って、遠慮がちに その顔をあげました。
そうして、超個性的な眉をした国王陛下の隣りの席に 見知った顔があることに気付いて、それはそれは大きな驚きを覚えることになったのです。

「あ……氷河……って?」
それは、北の国の王子様の名前でした。
王様や王子様に言葉をかけてもらえるなんて これまで一度も考えたことがなく、だから、王様や王子様というのは違う世界の住人なのだと思っていた瞬も、さすがに 自国の王子様の名前くらいは知っていました。
瞬の驚きは とても大きなものでしたが、それは まもなく大きな喜びと大きな感激に変わっていったのです。
貧しくて小さな子供を優しく力強く励ましてくれた あの親切な人が、北の国の民が忠誠を誓うべき未来の国王陛下だったのですから、瞬の胸が感激でいっぱいになったのも 当然のことだったでしょう。

その氷河王子が、掛けていた椅子から立ち上がり、瞬の側にやってきて、王と王子の前に跪いていた瞬の手を取り、その場に立ち上がらせます。
そうして、氷河王子は、瞬の頬に唇を寄せてきました。
「勝ってくれてありがとう。瞬、俺の妻に――」
「僕が勝てたのは、王子様のおかげです……! 王子様が僕を励ましてくれたから!」
「いや、俺には何もできなかった……。すべてはおまえの力だろう」

瞬があんまり嬉しそうに、あんまり素直に瞳をきらきらさせて 北の国の王子を見上げるので、氷河王子はどぎまぎし、氷河王子の胸はときめき、そして氷河王子の唇は、いつもの彼からは想像もつかないほど謙虚な言葉を吐き出していました。
氷河王子らしくないことではありましたが、でも、それはとても自然なことでもあったでしょう。
恋に落ちた人間にとっては、彼(彼女)が恋慕う相手こそが女王様であり、王様なのです。
恋をしたら、たとえ一国の王子であっても、彼は彼の恋人の前に跪かなければなりません。
それは、恋人たちにとっては至極 自然で、普通で、当たりまえのことなのです。

それは 自然で普通で当たりまえのことだったのですが、それでも氷河王子は北の国の王子様。
氷河王子の奥ゆかしい態度は、一層 瞬の胸を打つことになったのです。
瞬は気負い込んで、氷河王子に言いました。
「僕、台所の下働きでも、洗濯でも何でもできます。力仕事だって! 何でも命じてください!」
「台所の下働き? 何を言っているんだ。おまえの仕事は、俺の妻になることだ」
「ツマ……って何ですか? それはどういうお仕事なの」
「どういうお仕事と訊かれても……。この武闘会は、俺の花嫁を選ぶために開催されたイベントだ。当然、参加者は皆、俺の妻になることを希望して――」

そのはずです。
そのはずでした。
この武闘会は、北の国の王子と大会優勝者の一生を決める超重要イベント。
大会参加者は、当然のごとく、氷河王子の花嫁になることを希望する未婚の乙女たちのはず。
そのはずだったのに、瞬は氷河王子の言葉を一笑に付してしまったのです。
そして、瞬は、氷河王子に、笑いながら驚天動地の告白をしてくれたのでした。

「まさか。王子様の花嫁が最強である必要はないでしょう。だいいち、僕は男です」
「な……なにぃ !? 」
車田キャラの伝統にのっとったセリフを吐いて、氷河王子は彼の驚きの気持ちを表現しましたが、あとに続くはずの『馬鹿な!』が出てきません。
つまり、『馬鹿な』も出てこないほど、氷河王子が受けた衝撃は大きかったのです。
「しかし、おまえはあのポスターを見て――」
強張る口許と頬の筋肉を懸命に動かして、氷河はなんとか それだけ言うことができました。

「ポスター? あ、これのこと?」
そう言いながら、瞬が質素な麻の服のポケットから取り出したのは、王室主催の大武闘会のポスターならぬ、ポスターの切れ端でした。
小さな その紙片には、氷河王子の髪の毛1本も映っていません。
例のポスターは貼られると同時に そのほとんどが若い娘たちに剥がされて、貼っても貼っても追いつかない――という報告は、氷河王子も受けていました。
おそらく、そんな窃盗行為をした娘たちの中の一人が、武闘会のポスターの氷河王子の顔の部分だけを切り取って、邪魔な文字のところを捨てたのでしょう。

瞬は、ポスターの捨てられた部分――すなわち、氷河王子の顔写真以外の、『王室主催の大武闘会開催決定! 北の国で最強の人材 求む。より良い国作りのために私欲を捨てて働く覚悟のあるあなた、尋常ならざる重責に耐える自信のあるあなたに』という部分と、『資格不問。経験不問。武器の使用不可。参加費無料。交通費全額支給』の文字が記されている部分だけを拾ったのです。

何という運命のいたずらでしょう。
ポスターを盗んだ娘も娘です。
彼女が『未来の王妃の座が与えられる! かもしれない 』の部分も一緒に捨ててくれていれば、こんな悲劇は起こらなかったかもしれないのに。

「王宮での求人って滅多に出ないものだと聞きました。履歴書の提出も保証人もいらない仕事口って なかなかないし、僕、絶対にこの採用試験に受かりたかったんです」
「さ……採用試験……」
屈託のない瞬の言葉を聞いて、氷河王子の目の前は真っ暗になりました。
瞬の声が弾んでいればいるほど、その闇は深さを増していきます。
本当に何ということでしょう。
氷河王子の妻の座も、未来の王妃の地位や権力も、瞬の頭の中には初めから存在していなかったのです。
瞬にとってこれは就職活動の一環、バトルは厳正かつ公平な採用試験にすぎなかったのです。

瞬は少なくともこの国の王子の妻になることを嫌だと思ってはいないのだと、氷河王子は思っていました。
瞬の第一の目的が『誰かの役に立ち、誰かに必要とされる自分になること』であったとしても、その『誰か』がこの国の王子でも構わないと思ったからこそ、瞬は この武闘会に参加したのだと、氷河王子は信じていたのです。
だというのに、瞬が望んでいたのは、氷河王子の妻になることではなく、台所の下働きの職を得ることだったなんて!
あまりといえば あまりな話ではありませんか。

本音を言えば、氷河王子は、いっそその場で泡を吹いてブッ倒れてしまいたかったのです。
ですが、今の自分には そんな優雅なことをしている猶予が与えられていないことに気付いた氷河王子は、かろうじて その場に泡を吹いてブッ倒れることを思いとどまりました。
今になって瞬が男の子だと知らされても、一度燃え上がってしまった恋の炎を消し去ることは 誰にもできません――氷河王子自身にもできません。
そして、その事実を隠し通せば、氷河王子は 瞬を妻として永遠に自分の側に置くことができるのです。
となれば、今 氷河王子が為すべきことは ただ一つ、『瞬の正体の隠蔽』でした。

それは、叔父であるカミュ国王だけでなく、北の国のすべての民を欺く行為。
それどころか、神すらも欺く冒涜行為です。
でも、それが何だというのでしょう。
そうしなければ、北の国のただ一人の王位継承者である王子が 叶わぬ恋に苦しみ抜いて死んでしまうかもしれないのです。

氷河王子が瞬への恋のために世界のすべてを欺く決意を固めた時でした。
カミュ国王が、やたらと明るく能天気な声で 恋する甥っ子をいさめてきたのは。
「これこれ。何を二人きりで こそこそ内緒話などしているのだ。気持ちはわかるが、ここは一応 公式の場だぞ」
親密そうな二人を にこにこしながら見詰めるカミュ国王の後ろには、いつのまに やってきたのか、重たそうな白テンの儀礼用マントを羽織った北の国の宗教界の重鎮・大司教が控えていました。
その大司教にちらりと一瞥をくれてから、そうして、カミュ国王は相貌を崩しつつ、どこまでも明るく能天気な声で、恋する甥っ子に提案してきたのです。

「大勢の国民を巻き込んで、これだけのイベントを開催したんだ。王室には、このイベントの顛末を国民に知らせる義務があるだろう。祝典はあとで大々的に催すとしても、誓いの儀式だけは、今ここで国民の前で行なうべきだと私は思うのだが。氷河にも瞬にも それで異議はないだろうな」
「俺は――」
それは、氷河王子の気が変わらないうちに 北の国の王子を妻帯者にしてしまおうという魂胆が見え見えの提案でしたが、カミュ国王の言葉は、今の氷河にはまさに渡りに船と言っていいものでした。
一度 神の前で愛を誓ってしまえば、二人は、どんな人間にも引き裂くことのできない二人になれるのです。
ここで無意味な意地を張って瞬を失う愚を犯すほど、氷河王子は愚かな男ではありませんでした。
氷河王子がそうすると決めたことに、(本当のことを何も知らない)瞬は、一も二もなく頷きましたとも。

「では、瞬。そなたは氷河王子に、永遠の愛と忠誠を誓うか」
「はい、もちろんです! 僕、一生懸命努めます」
10万を超す大観衆の前で、瞬が氷河王子に永遠の愛と忠誠を誓い、
「氷河王子。あなたは瞬に、永遠の愛と忠誠を誓うか」
「永遠に、俺は瞬を離さない」
氷河王子は瞬に永遠の愛と忠誠を誓いました。
続いて、大司教の重々しくも晴れやかな宣言。
「若い二人が互いに永遠の伴侶となったことを、主なる神に報告いたします。二人に神の祝福のあらんことを」

大司教の神への報告が終わると、北の国スタジアムは怒涛のような大歓声に包まれました。
それはもう、地鳴りのような、大きな雷のような、大きな大きな歓声でした。
氷河王子の深刻なマザコンは 北の国の国家機密とされていたのですが、そういうことはどこからともなく外部に洩れていくもの。
氷河王子の独身主義を憂えていたのは、決してカミュ国王だけではなかったのです。
ですが、これで北の国も安泰。
氷河王子の婚姻の儀式に臨席を許された多くの国民の喜びと感激は、それはそれは大きなものでした。

北の国の非力な国民の一人として未来の国王に忠誠を誓ったつもりでいた瞬だけが、婚姻の当事者であるにもかかわらず、10万の観客の熱狂の意味を正しく理解していませんでした。
が、それは ごく些細な問題です。
何といっても、神への誓いは絶対不変のものなのですから。

そうして、その日その時。
我儘な独身主義者で通してきた氷河王子と、持っているものは我が身ひとつの貧しい孤児である瞬は、神と北の国の国民の前で正式な夫婦となったのでした。






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