逃げよう――という考えが瞬の中に生まれてきたのは、暑い夏の日が終わりかけた黄昏時だった。
ここ以外ならどこでもいい。このままこの家に留まると、自分は今夜も 他人の部屋の他人のベッドで 不安な夜を耐えなければならなくなるだろう――。
瞬は、それだけはどうあっても避けたかった。

やたらと瞬の世話を焼きたがる親切な人たちの目を盗み、殊更 何気ないふうを装って、瞬は庭に出た。
あまり背の高くない薔薇の木の向こうに、この屋敷をぐるりと囲む御影石の塀がある。
その彼方に見える空の色は、燃えるようなオレンジ色から 薄桃色を帯びた紫に変化しつつあった。
まもなく、悲しいほど明るく長かった一日は終わり、夜の闇がこの世界を包むことになるだろう。
その闇の中に身を紛れ込ませ、息を潜めて、死の時を待つのが、自分に最もふさわしい生き方なのだということが、瞬にはわかっていた。
それだけは わかっていた。
自分が何者であるのかもわからないというのに。

ともかくここを出なければならない。
何か不思議な力に急きたてられ、瞬は、薔薇の木の脇を通り過ぎ、自分でもひどく頼りなく感じられる足取りで門に向かって歩き出し――そして、5歩も行かないうちに、その歩みを止めることを余儀なくされた。
「どこへ行く」
いつのまにか、氷河がその場にやってきていた。
相変わらず苛立ったような表情をそのままに、彼が瞬に尋ねてくる。

「氷河……さん……」
彼が その端正な面差しを歪めたのは、瞬に敬称つきで名を呼ばれたせい――だったらしい。
何をしても自分はこの人を傷付けることしかできないのではないかという思いが、瞬の胸を締めつける。
それなら やはり自分はこの人の――あの親切な人たちの――側にいるべきではないのだと、瞬は思ったのである。

「僕……ここは僕のいる場所じゃない」
「俺がここにいるのにか」
「あの……」
彼と彼の“瞬”はいったいどういう関係だったのか――。
どうしようもなく気になるが、絶対に知りたくはない。
瞬は、他の誰よりも、彼といる時がいちばん苦しかった。
彼はいつも あらゆることに腹を立てているようで――親切な人たちの中で唯一、責めるような目をして瞬を見る人だった。
たった今も、彼は、憎悪と表してもいいような激情をたぎらせて、この屋敷を出ていこうとした瞬を睨みつけている。
その強い感情が恐くて、瞬は我知らず その場から一、二歩 後ずさった。

それが気に障ったらしく、彼が眉を吊り上げる。
氷河がその腕を振り上げるのを見て、瞬は、彼に殴られる――と思ったのである。
瞬は、反射的に固く目を閉じた。
だが、彼は、瞬を殴るために動いたのではなかったらしい。
彼の手は、次の瞬間、固く目を閉じていた瞬の腕を掴み、彼の腕は瞬の身体を彼の胸の中に強引に引き込んでいた。
唇が、瞬の唇に押し当てられる。
彼の舌は、瞬の唇を乱暴にこじあけようとしていた。

「んっ……!」
驚きより恐れの方が先に立って、瞬は、何よりもまず 彼の唇と舌から逃げようとしたのである。
そのために首を振ろうとしたのだが、彼の左手が瞬の襟首を掴んでいるせいで、瞬はそうすることができなかった。
彼の手と指の力は強く、無理にその力に逆らおうとすると、瞬の首はそのまま彼に折られてしまいそうだった。

「い……やだ……っ」
瞬が何とか拒絶の言葉を口にできるようになったのは、たっぷり3分以上の時間、彼に口中を蹂躙されてからだった。
唇を離しても、彼は、瞬の身体までは放してくれなかった。
瞬の首を掴んだまま、なおも瞬の唇を貪ろうとしてくる。
「瞬……」
「何するんですかっ。ど……どうしてこんなひどいことするの……!」

彼が二度目の蹂躙を思いとどまったのは、弱々しい瞬の抗議に涙が混じり始めていたからだったらしい。
こんな無体をしておいて、瞬を責めてきたのは氷河の方だった。
「瞬。なぜ そんなことを言うんだ……!」
「なぜ……?」

なぜそんなことを言うのかと、瞬こそが彼に問い質したかったのである。
なぜ あなたは見知らぬ他人にこんなことをするのだと。
『そんなことを言う』のは当然ではないか。
氷河は瞬にとって見知らぬ他人で、瞬には他に好きな人がいた。
もちろんそれは氷河ではない。
氷河であるはずがなかった。

「ぼ……僕には、好きな人がいる。僕は、その人以外の人とこんなことしちゃ駄目なんだ……!」
そうだったのだと――言葉にして初めて、瞬は自分の不安と焦慮の訳がわかったような気がしたのである。
この屋敷の外に誰かがいるから、自分はこの屋敷に留まっていてはならないのだ――と。
「瞬……」
「僕、その人を捜しに行かなくちゃ……」

瞬は、氷河の胸の中でもがいた。
ここにはいたくない。
自分がいるべき場所は、ここ以外のどこかにある。
「瞬、頼むから」
氷河の手が、彼の胸を押しやろうとする瞬の腕を掴みあげる。
その手にどれほど力がこもっていようと、瞬は彼の手から逃れなければならなかった。
「いやっ! 放してっ」
「放すかっ!」

氷河の声から、懇願の響きが完全に消えた時だった。
「氷河!」
おそらくは邸内から姿の消えた瞬を捜すために庭に出てきたのだろう星矢と紫龍が、二人の間に割って入ってきてくれたのは。
「氷河! 瞬に何してんだよ! 瞬は今 記憶がないんだぞっ。わかってんのかっ」
星矢が 氷河を怒鳴りつけ、紫龍が 瞬の身体を氷河の手から引き離す。
さすがに第三者のいるところで それ以上の無体はできないと考えたのか、そうされてやっと氷河は その手から力を抜くことをした。
代わりに、低く呻くような声を洩らす。

「瞬が、ここを出て行こうとしていたんだ……」
「へっ。なんで?」
悪いのは氷河――と決めつけていたらしい星矢が、氷河の呻き声にきょとんとした顔になる。
それは星矢にとっては非常に思いがけないことだったらしい。
もしかしたら星矢には、『氷河が瞬の意思を無視して瞬を抱きしめていること』より『瞬がここを出ていくこと』の方が、良くないことで不自然なことだったのかもしれない。
星矢は、そういう目を瞬に向けてきた。

なぜ自分の方が悪いのか。
その理由がわからなくて――わからないこととわかってもらえないことが もどかしくて――瞬は思わず星矢に向かって叫んでしまったのである。
「だって……だって、ここは僕のいる場所じゃないんだもの!」
瞳に涙をにじませて訴えた瞬を見やり、星矢と紫龍が揃って溜め息を洩らす。

「じゃあ、ここ以外のどこに――俺たちのいる場所以外のどこに、おまえの居場所があるっていうんだよ……」
星矢は、瞬の言葉を嘆くように そう呟いた。
同時に、瞬の訴えは、星矢の中から、氷河の非を責める考えを消し去ってしまったらしい。
星矢は、理不尽な力で押さえつけられそうになっていた瞬ではなく、瞬に対して無体を働こうとした氷河の方に、強い憐憫を覚えているようだった。

「俺にとっては今こそが悪夢だ……」
そして、星矢同様 紫龍も――暴力の被害者である瞬よりも、苦しげに そう呻いた加害者の方に、より深い同情を感じているようだった。






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