タイムマシンという機械は理論的には存在不可能なものであり、科学の力で作ることはできない。
氷河が若い恋人たちの前に立つことができたのは、ただ愛の力によるものだった。

氷河が目覚めると、そこにアテナの姿があった。
氷河の肉体からは ほとんどすべての力が失われており、立ち上がることは愚か、既に動くことすら不可能な状態。
その状態は、もう2ヶ月も前から続いていた。

『アテナ……ありがとうございます』
氷河は、アテナへの礼も、声ではなく 小宇宙の力で伝えるしかなかった。
長い戦いの末、戦いの代償として、氷河の肉体は死に瀕していた。
自らの死期を悟った氷河は、『生きているうちに、もう一度瞬に会いたい』とアテナに願い、神の力によって、その願いは叶えられたのである。

前代未聞の、自然に反した その願い。
タイムマシンを作ることより更に非論理的非科学的な氷河の願いの実現は、アテナの力だけで成し得たものではなかっただろう。
肉体の力が失われるにつれ いよいよ強さを増していく氷河の小宇宙、氷河の思いの深さ、後悔の念――それらがこの奇跡を実現させたのかもしれなかった。

『アテナ。私が会ったあの二人は、私とは違う人生を送ることになるのでしょうね?』
「ええ。あなたと出会ったことで、二人の人生は変わったわ」
『そうか。よかった……』
「氷河、苦しいのなら――」
歳を重ねて、その心に深みを増し、一層 美しくなった女神アテナ。
彼女を見ていられる時間も残り少ない。
そして、氷河の告解を聞くことのできる人は、この聖域には もう彼女一人しかいなかった。

『瞬を失い、星矢を、紫龍を、一輝を――すべての仲間を失って、この地上は私にとって地獄になった。私の仲間たちは皆、仲間を庇い、生き残る仲間に自分の夢と希望を託して死んでいったのに、最後に生き残った私は、希望や夢を託す相手を持つことができず、一人で生き続けるしかなかった──死ぬことはできなかった。この荒れ果てた地上を守ろうとするあなたの存在だけが、私に死を選ばせなかった』
「あなたにばかり つらい思いをさせたわ。本当に ひどい女神ね」
『あなたのせいではない。地上をこのようにしたのは我々人間だ』

世界の人口は30年前の20分の1に減っていた。
この地上にあるのは荒涼とした光景ばかりで、美しかった自然は とうの昔に失われた。
環境破壊、貧困と飢餓、戦争、世界規模で爆発的に広がった心の病――様々な事柄が人間の心をすさませ、彼等から希望を奪っていった。
まともな戦いを戦える神も消え失せ、今 この地上は、復讐の女神と運命の女神たちだけが、勝ち誇ったような高笑いを響かせて跋扈する世界になり果てている。

そんな世界を招いたのは、神ではなく人間たちだった。
聖闘士の力、アテナの力をもってしても、世界が破滅に向かう力を止めることはできず 人の心を変えることはできなかったのだ。
傷付け倒すことのできない敵と戦い続け、氷河の命は尽きようとしていた。
それでも希望を失わず、人間たちを見捨てないアテナのために懸命に永らえてきた命だったというのに。

『あなたを この地上に残していかなければならないことが心残りです。だが、どれほど強大な力を培っても、一個の人間にすぎない私の力はもう――」
その時は誰にでもやってくる。
その時を永遠に先延ばしにしたいとは、氷河も思っていなかった。
ただ その時が よりにもよって今だということが、アテナの聖闘士としての氷河を苦しめていたのである。
彼の女神を残していく世界が、この荒涼とした世界だということが。

「私は大丈夫よ。次代の聖闘士たちがもう生まれ始めているわ。地上はきっと蘇生する。人間はそこまで愚かではないわ」
この女性の 人間に対する愛情と信頼が、瞬と仲間を失い、戦い続ける意思までをも失いかけていた非力な聖闘士の心に、幾度 希望を蘇らせてくれたか。
守るべき女神を残して死んでいこうとしている彼女の聖闘士に、アテナはどこまでも優しかった。
「今度は平和な時代に、私の聖闘士でないものとして生まれ、幸福で穏やかな人生を送ってちょうだい」

その、悲しいほど強く優しい女神に、唯一 自分の意思で動かすことのできる瞼で、氷河は首を・・振った・・・
『私は、生まれ変わっても、もう一度、あなたの聖闘士として生きる道を選びます。地上の平和を守りたいからではなく、それが瞬の魂に再会できる最も確実な道だから――』
そう告げた氷河の小宇宙が微かに苦笑の色を帯びる。
『すみません、こんな聖闘士で』
氷河の苦笑にほっとしたように、アテナが――アテナもまた、彼に微笑を返してきた。
「いいのよ。私は、どんな絶望の中ででも希望を求め続ける人間が好きよ。今はお休みなさい。これまで本当にありがとう」

アテナのその言葉は、氷河の心を安んじさせるものだった。
少なくとも自分という聖闘士の生と死は、アテナに絶望をもたらすものではなかったのだと、彼は信じることができたから。
それさえ確かめることができたなら、氷河はもう、“その時”を迎えることに見苦しく抵抗し続ける必要はなかった。
だから――氷河はゆっくりと その瞼を閉じたのである。


氷河の周囲を取り巻く小宇宙の強さが、いつ彼の肉体が死の時を迎えたのかを、神であるアテナにも明確には知らせてくれなかった。
氷河の肉体の死を確認したあとも、彼の小宇宙はアテナの許を去ろうとはせず、ずっとそこに留まっている。
氷河の小宇宙は、氷河の心だけでなく、彼の愛した者たちすべての思いでできていた。
アテナにとっても懐かしい人たちの優しい感触や明るい感触。
それらのものが、氷河という人間を作っていたのだ。

人間というものは皆、そういうものたちによって作られている。
彼女の聖闘士たちは誰もが その事実を彼女に教えてくれる者たちだったから、だからアテナは永遠に希望を失うことはないのだ。

「ありがとう、氷河。またいつか会いましょう」
アテナが氷河に告げた最後の言葉は、再会を誓う言葉だった。
彼と彼の仲間たちが再び この地上に集い、明るく笑い合う日がくることを、彼女は信じていた。






Fin.






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