もし本当に自分がアテナの聖闘士たる資格を持たない人間なのだとしたら、自分はその事実を星矢たちに隠さなければならない――と、瞬は思った。 そして、その上で、仲間たちと共に戦えるところまで戦ってみようと。 あの声はただの幻聴、あるいは 戦いを恐れる心が見せた夢だったのだと自分に言いきかせて、瞬は仲間たちと共にギリシャに向かったのである。 そこで、瞬を待っていたものは、当然のことでもあったし、覚悟していたことでもあったが、同じアテナの聖闘士たちとの戦いだった。 聖域は、瞬たちの戴くアテナをアテナとして迎え入れようとはしなかったのである。 瞬は、それでも構わなかった。 瞬には仲間がいたから。 『アテナのため』『正義のため』『地上の平和のため』――そんな言葉で仲間たちと勝利を誓い合う時、瞬は自分の胸の中で声には出さずに『仲間のため』とつけ足していた。 そんなふうに仲間たちと仲間であることを確かめ合うたびに、自分は孤独ではないのだという喜びと、自分は彼等の真の仲間ではないのだという後ろめたさに、瞬は襲われ続けたが。 あの声の主は、瞬の聖域での戦いには反対しているようだったが、瞬が『下賎の者に傷付けられる』ことは回避したいらしく、瞬の戦いに全く非協力的というわけでもなかった。 聖域で、瞬は彼の小宇宙を自分のものであるかのように自在に操ることができた。 いつ彼から『もう力は貸さぬ』という はっきりした拒絶を受けるのかという不安を抱えながら、瞬は自分のものではない小宇宙を使って聖域の黄金聖闘士たちとの戦いを重ねていったのである。 黄金の矢を胸に受けたアテナの命には限りが与えられており、瞬たちは一刻も早く教皇の間に辿り着かなければならなかった。 が、瞬は、その道半ばで足を止めることになったのである。 瞬の足を止めたのは 敵ではなく、瞬の仲間の一人――死にかけている白鳥座の聖闘士だった。 彼を助けなければならないと、瞬は思ったのである。 瞬の戦いの目的は、『アテナのため』『正義のため』『地上の平和のため』、そして『仲間のため』だったから。 彼等の仲間でいるために、瞬は戦っていたのだ。 命の灯の消えかけた仲間を 正義のために打ち捨てて先に進むことは、瞬にはできなかった。 (氷河を助けなきゃ……) どうあっても彼を助けなければならない。 たとえ、他人のものでも その小宇宙を燃やし、自分に持てる限りの力を尽くして、彼を助けなければならない。 氷河を助けることができるのなら 今ここで自分の命が終わってもいいと、瞬は思った。 死よりも、仲間を失うことの方が、瞬には恐ろしく感じられることだったのだ。 だというのに、瞬が文字通り 決死の覚悟を決めた その時に、あの闇の力は瞬に逆らってきたのである。 いつ彼から『もう力は貸さぬ』という はっきりした拒絶を受けるのか――という恐れを抱きつつ、瞬は戦いを重ねてきた。 よもや、こんな時に――瞬が最も力を欲している時に――その言葉を聞くことになろうとは。 「もう、そなたに余の力は使わせぬ」 守護する聖闘士のいない天秤座の宮に、瞬が今 いちばん聞きたくなかった声が響く。 瞬は、悲鳴をあげそうになった。 「そんな……どうして今なのっ !? どうして こんな時に――。お願い、氷河を助けたいの。力を貸して。氷河を助けたいの」 瞬の懇願を、彼はにべもなく打ち捨てようとする。 瞬の小宇宙の持ち主は、瞬の願いを冷ややかな響きで嘲笑った。 「そのような者の命、余には無価値、何の意味もないものだ。それに、その者は既にほとんど死にかけている。無駄だ。やめろ」 「そんなことないよ! 氷河はまだ生きてる!」 「この有り様で『生きている』と言えるか。無駄な力を使うのはやめておけ。この男は、自分から生を放棄して、このようなことになったのだ。生き返らせてやったところで、恨まれるだけだ」 「そんなことない」 「そうに決まっている」 「そんなことないよっ!」 瞬は食い下がった。 そんなはずはないのだ。 彼の言うように、氷河が自らの意思で生を放棄したのだとしても、それは一時の迷い、一時の過ちにすぎない。 氷河は生きていることを望んでいるはずだった。 でなければ、生きていた時、氷河が あれほど輝いていたはずがない。 ――瞬の仲間たちはいつも、瞬より輝いていた。 氷河は、聖衣を手にした瞬が日本に帰国した時、瞬との再会を笑顔で喜んでくれた。 『おまえがいちばん心配だったんだ』と言って、瞬に微笑いかけてくれた。 それだけではない。 兄がアテナの敵にまわっていた時には、瞬を庇い、瞬のために兄と戦いさえしてくれた。 そして、それからもずっと一緒に戦ってきたのだ。 互いに庇い庇われながら、同じ戦いを戦ってきた。 瞬は 人を傷付けることは嫌いだったし、敵を同じくすることで結ばれる関係になど価値はないとも思っていた。 だが、瞬と瞬の仲間たちが同じくしているものは“敵”ではなく“目的”だったから、瞬はアテナの聖闘士たちの間にあるものは、正しく“絆”だと思っていた。 孤独という海に投げ出された無力な子供たちが『生きたい』と願い、自分の生に意味があることを願い、その証を求めた戦い。 少なくとも瞬にとって、仲間たちと共に戦う戦いは そういう意味を持つものだった。 だが、闇の中の声はそんな瞬の願いをも冷酷に否定する。 「一緒に戦ってきた? 余の力を使ってな」 「……」 声の主は、瞬の心を読むことができるのだろうか。 彼は、瞬の心を皮肉った。 「このような茶番はもうやめろ。そなたが『仲間』と呼ぶ者たちを本当に仲間だと思うのなら。いや、そなたは偽りの小宇宙でその者たちを騙しているのだ。そんなものを『仲間』と言えるか。いい加減に認めたらどうだ。そなたはアテナの聖闘士ではない」 「だとしても――」 だから、どうだというのだ。 ここで氷河を見捨てることは、ただの人間にも――アテナの聖闘士でない ただの人間にも――できることではない。 目の前に、傷付いて今にも その生を終えようとしている氷河がいるのだ。 人間なら誰でも彼を救おうとするはずだった。 「アテナの聖闘士でなくても――僕は氷河を助けたい。氷河はいつも、ほんとはアテナの聖闘士になれなかった僕に優しかったもの……」 闇の声に そう言って抱きしめた氷河の身体は恐ろしく冷たかった。 ただ触れているだけでも、瞬の生命力を奪っていくような冷たさ。 その冷たさに負けまいとするだけでも大変な力を求められるというのに、 「やめろ」 闇の声の主までが、瞬の意思と身体を捻じ伏せようとしてくる。 瞬は、自分に襲いかかってくる二つの力に抗った。 自分の持てる力のすべてを振り絞って。 アテナの聖闘士なら持っているはずの小宇宙も腕力も持たない瞬が振るえる力は、心の力しかなかったが。 「やめないっ」 自分だけのことなら諦めていたかもしれなかった。 だが、この“戦い”には、氷河の命が――仲間の命が かかっている。 瞬は負けるわけにはいかなかった。 「その強大な力、僕のものでないなら――僕によこせ」 「なにっ」 瞬の心に逆に襲いかかられて、闇の主が引きつった響きの声を洩らす。 実体を持たない闇の存在には、強い意思の力が有効に作用するらしい。 闇の声は、瞬の抵抗に合って、初めて 「やめろ。そなたが余に勝てるとでも思っているのか」 「勝とうなんて思ってない。僕は氷河を救いたいだけ。氷河に生きていてほしいだけ。そのためになら何でもする。他人の力を利用することも、自分の命をかけることも」 たとえそれが非力な人間のものでも、“心”を捻じ伏せることは、どれほど強大な小宇宙の持ち主にも容易に為せることではなかったらしい。 闇の声の主には、瞬の決意を変えることはできなかった。 その場の空気が ひどく重みを増し、そのために生じる息苦しさが瞬の身体の自由を奪おうとしているような“感じ”はしたが、それは 瞬の身体に影響を及ぼすことはできても、瞬の心を変える力は、幼い子供の笑顔ほどにも有していなかった。 瞬はむしろ、その力を我が身の内に取り込み、自分の心に従う力に変えようとした。 「氷河の命を救うことができたら、僕は死んでもいい。そうすれば、僕はもう星矢たちを騙さずに済む。最後まで氷河たちの仲間でいられる――仲間でいられる……」 「そなたは……」 「氷河は、必ず生き返らせるよ」 「そなたは、自分の命と他人の命のどちらが大切なのだ」 「自分の命と他人の命のどちらが――?」 馬鹿なことを訊く闇だと、瞬は思ったのである。 命と命を比べることに、いったいどんな意味があるのかと。 問うなら、『自分の命と心のどちらが大切なのか』と問うべきだろう。 そう問われたなら、瞬は迷わず『心』と答えていた。 そして、命を守ろうとする力と 心を守ろうとする力のどちらが強いのかということも――それは現実に起こる事象として証明されかけていた。 闇の声の主の力は、瞬の心に捕まり、瞬の心と意思に従って爆発しようとしていた。 アテナの聖闘士たちの頂点に立つ黄金聖闘士の小宇宙でも――もし、それが神の小宇宙であっても、結果は同じだったろう。 人の心は、優しさや思い遣り以外の力で変えることはできない。 瞬の心の力は圧倒的だった。 それを“力”と呼んでいいのなら、瞬の心の“力”は、瞬を押さえつけようとする二つの力に勝ったことになる。 氷河の身体に温もりが戻ってきた時、瞬は 張り詰めていた自らの心から やっと力を抜くことができた。 心以外の力を用いたつもりはなかったのに、力が失われていたのは瞬の身体の方だった。 立ち上がることは愚か、瞼を開けることすらできない。 それでも、瞬には氷河の気配を感じることはできたし、彼の声も聞こえた――と思った。 だが、肉体の力を使って それを確かめることはできない。 そして、弱りきった瞬の身体とは対照的に、いよいよ強く激しく活発に動く瞬の心。 それは大きな安堵の念を生み、瞬の心身を安らぎで覆い尽くそうとしていた。 これで最後まで自分は彼等の仲間でいられる――。 瞬は満ち足りた思いで、自らの肉体の死を受け入れようとしたのである。 氷河は生き返り、自分は真実を告白して仲間たちを傷付けずに済んだ。 それが この戦いの戦果だったというのなら、この戦いを戦うことには意味があった。 アテナの聖闘士の戦いが敵の肉体を傷付けるものではなく、すべてこういう戦いであったなら、自分は自分の我儘なほど頑固な心の力を駆使して、最強の聖闘士にも なり得たかもしれないのに――。 そんな埒もないことを考え、その考えに苦笑してから、瞬は自らの意識を手放したのである。 |