「悪いが、裸になるぞ。服の中にまで土が入って気持ち悪い」 奇跡を起こした英雄に感謝や賞讃の言葉を投げかけようとする者たちの目が届かない場所にまで来ると、氷河はそう言って、身に着けていた上衣を脱ぎ去った。 それまで無言で聖闘士の後ろをついてきた瞬が、慌てて辺りを見回す。 この辺りにでは山の水も勢いを失しているのか、河原には乾いた砂と角のない石しかない。 「火、起こそうか」 初めて氷河と野宿をした時には驚異の技と思えた技術は、今では瞬のものになっていた。 「風に吹かせておけばすぐ乾く」 残念ながら、瞬はせっかく習得したその技を氷河に披露することはできなかったが。 先ほどの濁流の中、流石や流木が氷河の身体を容赦なく打ちつけてきたのだろう。 上衣を取り除いた氷河の身体は痣だらけだった。 今日 負ったものでもないような傷――おそらく一生消えないのだろう傷もある。 尋常でない力を持つ聖闘士も人間。 彼は決して不死身ではなく、彼の心身も決して傷付かないわけではないのだ。 いずれにしても、氷河の身体に残る傷は、売名行為にはやった英雄志願が剣術の試合で負うような傷ではなかった。 人を助けるために負った傷――なのだ。 「あんなふうな力、聖闘士になれば、僕にも身につくの」 使い損ねた火起こしの道具を その手で握りしめながら、瞬は氷河に尋ねてみた。 「何とも言えんな。おまえの努力次第だ」 氷河からは、火の起こし方を覚えたいと瞬が言った時と同じ答えが返ってきた。 では、希望がないわけではないのだ。 「あの……」 瞬は、瞬の先達になるだろう人に、神妙な顔を向けたのである。 瞬が思い切って口にしようとした言葉を、氷河が遮ってくる。 「おまえは本当に綺麗だ。怒った顔が特に。俺の欲望解消処理に強力してくれないか。一仕事 終えたら、血がたぎってきた」 「……!」 人が一大決心を宣言しようとしている時に、どうして氷河はそんな冗談を言ってくるのか。 瞬は、川岸の砂場に腰をおろしている氷河の眼前に、眉を吊り上げた顔を突き出してみせた。 「そんなに僕の怒った顔が好きなのなら、好きなだけ見たら!」 瞬の嫌味に、氷河が、彼にしては素直に従う。 氷河の青い瞳に見詰められ、瞬の心臓は大きく波打ち始めた。 瞬を無言で見詰めていた氷河の青い瞳が、やがて僅かに細められる。 「聖闘士になるための修行は厳しい。相当の覚悟がないなら――軽々しく決めない方がいい。聖闘士になれば、おまえの身体も俺のように傷だらけになってしまうかもしれないぞ。アテナは無理強いはしない。今度こそ慎重に考えろ」 「……」 こちらが真面目に出ると、氷河はふざけてみせ、こちらが冗談を言うと、氷河は真顔になる。 聖闘士というものは、こんなふうに 対峙する人間を煙に巻くのが趣味なのかと、瞬は怒らせていた肩から思わず力を抜くことになったのである。 それが不快なわけではないし、瞬は氷河に負けっぱなしでいるつもりもなかったが。 「僕が聖域に行くって決意したことがわかったから、氷河は自分が聖闘士だってことを教えてくれたんでしょう? 本当は一般人に聖闘士だってことを教えちゃいけないのに。慎重になって考え直して、僕が聖域に行くのをやめたら、まずい立場に立たされるのは氷河の方だと思うけど」 「……。確かに……俺が聖闘士だということをおまえに知らせてしまったのは軽率な振舞いだったな」 「生きていくには、慎重に考えて、冷静に行動することが大事だよね」 「そして、大胆な決断も?」 氷河のその言葉に、瞬は微笑を返した。 氷河がそう言ってくれるからには――彼は、瞬が聖闘士になることに反対しているわけではないのだ。 少々 心配はしているかもしれなかったが。 「僕、聖闘士のこと誤解していたと思うの。さっきの氷河みたいなことができるようになる可能性が僕にもあるのなら、僕は――」 「いつも人助けとは限らない。敵と戦わなければならないこともある」 「きっと、誰かを守るための戦いなんだよね」 「そうだ」 「うん。決めた。僕は聖域に行く」 「本当に……いいのか」 「うん」 「なら、教えておいてやろう。エレウシスの領主、つまりおまえの兄も聖闘士だ」 「え」 聖闘士の そして、頬を青ざめさせた。 「聖闘士は、自分が聖闘士であることを、聖域の者と聖闘士にしか知らせてはならないことになっている。たとえ血の繋がった肉親でも」 それはわかる。 その件で、弟に秘密を持っていた兄を責めようとは、瞬も考えなかった。 が、たった今 瞬を青ざめさせた問題はそんなことではなく、 「ど……どうしよう……。僕、兄さんの前で、聖闘士の悪口いっぱい言っちゃった……」 ということだったのだ。 聖闘士の真実の姿など何も知らなかったのに、真偽も定かでない風聞だけを根拠に、瞬は、兄の前で兄の悪口を思い切り放言してしまったのだ。 確かに、慎重に考え、冷静に行動することは大事なことである。 瞬は、心からそう思った。 「聖闘士になって謝罪すればいい」 瞬の頬から血の気が失せた原因がそれだと知って、氷河が苦笑する。 瞬には、だが、それは、軽い笑いで片付けられるようなことではなかったのだ。 瞬の兄は何よりも名誉を重んじ、並々ならぬ矜持を持ち――それはさておくとしても、瞬は兄を心底から敬愛していた。 その兄を、瞬は、知らぬこととはいえ、当人の前で思い切り侮辱してしまったのだ。 「聖闘士になって――って……聖闘士になるのには長くかかるの」 氷河は事もなげに言うが、瞬には、あの力が一朝一夕で身につくものとは思えなかった。 「人による。1年ほどの修行でなれる奴もいるし、10年修行してもなれない奴もいる」 明日にでも聖闘士になって兄に謝罪したい瞬に、氷河の返答はあまりにも悠長すぎるものだった。 悠長なだけでなく、 「が、一輝の弟なら大丈夫だろう。俺が手取り足取り――ついでに腰も取って丁寧に指導してやるから」 ふざけすぎている。 聖闘士は人格高潔、清廉潔白の士と兄は言っていたが、瞬にはそれは信じ難いことだった。 ということは、聖闘士にもいろいろな聖闘士がいるということ、聖闘士の悪口がそのまま兄を貶める言葉にはならないということである。 その事実を認め、瞬は少し気が楽になった。 そして、到底 清廉潔白の士とは思い難い氷河を、挑戦的に睨みつける。 「僕はすぐに氷河より強くなって、僕こそが氷河を僕の欲望解消処理に協力させてやるんだから!」 「やり方も知らないくせに」 「……!」 つい言葉に詰まってしまった瞬を、こんなふざけた聖闘士に負けてしまうわけにはいかないという思いが、すぐに立ち直らせる。 「それを教えてくれるのが 先輩である氷河の役目でしょう!」 噛みつくような勢いで、瞬は、氷河に彼の義務の遂行を要求した。 一瞬 絶句した氷河が、次の瞬間に爆笑する。 「も……もちろんだ! 俺は誠心誠意おまえのために努めるぞ!」 なぜ氷河が笑うのか――なぜ彼は目に涙までにじませて笑うのか、その訳が瞬には全く わからなかった。 Fin.
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