「10年以上――長い時間、ひとりで苦しかったでしょう」
「氷河も僕もマーマも、自分に与えられた命を一生懸命生きて、そして死んだ。それだけのこと。よくないことなんかない。誰も悪くないんです」
生きるという義務を務め終えた者たちにとって、彼等が生きていた時間はすべて、ただ幸福な時だった。
その時間を、他のどんな言葉で言い表わすことができるだろう。

「氷河が僕のことを思い出してくれなくてもいいんです。氷河の側にいられさえすれば、僕はそれで」
氷河の母にそう告げてから、瞬は少し不安な思いで、彼女の顔を覗き込むことになったのである。
「あの……僕のこと、追い出したりしないですよね?」
「馬鹿ね。そんなことするわけないでしょう!」
瞬の懸念を一笑に付して、息子を愛する母が、息子の愛した人を抱きしめる。
「ごめんなさいね。氷河を愛してくれてありがとう。長いこと、あなただけを苦しませたわ。ごめんなさいね……」

本当は、瞬も 瞬を抱きしめている女性も、既に実体を有していない。
それでも瞬は、彼女の胸を『温かい』と感じることができた。
おそらく、それは、彼女の魂の持つ温かさなのだろうと、瞬は思ったのである。
この魂に包まれていたのなら、氷河はいつも幸福でいられたに違いない。
そう信じられることは、瞬にとっても この上なく幸福なことだった。

「うわっ」
そんな二人の抱擁を素頓狂な声で遮ったのは、瞬と氷河の母が愛してやまない もう一つの魂だった。
瞬の部屋のドアを開けるなり、そこで、瞬と自分の母がしっかりと抱き合っている様を見る羽目になった氷河は、天が震え地が動くほど驚くことになったらしい。
瞳を大きく見開いた彼は、だが、すぐに気を取り直したように二人の側に大股で歩み寄ってきた。
そして、瞬の腕を引いて、瞬を母から引き剥がし、瞬を自分の胸の中に収めてしまったのである。
「い……いくらマーマでも……瞬だけは……瞬は俺のものだっ!」
「氷河……?」

まるで生きていた時のように、氷河がきっぱりと断言するのを聞いて、瞬は一瞬 氷河が以前のことを思い出したのかと思ったのである。
今年の夏 初めて出会ったはずの人間の肩を抱きかかえている氷河の顔を、見上げるようにして覗き込む。
氷河は、自分が口走った言葉の意味を、その言葉を言い終えてから気付いたらしく、その頬をほの赤く染めている。
彼は、彼が生きていた頃のことを思い出したわけではないようだった。

瞬がここにやってきてからだけでも1ヶ月、瞬と氷河は 生きている人間には義務のようについてまわる“ものを食べる”という行為をしていなかった。
それでも自分たちが生きていないことに気付いていない 呑気な氷河が、そう簡単に忘れてしまったことを思い出してくれるはずがないかと、瞬は――瞬も 少し呑気な気持ちになって、つい苦笑してしまったのである。

自分に向けられている瞬の視線にやっと気付いた呑気な氷河が、瞬を抱き寄せていた手を慌てふためきながら ぱっと離す。
「あ、いや、それは、俺が勝手に、そうだったらいいなー……と」
気恥ずかしそうに、しなくていい弁解を始めた氷河に耐え切れなくなって、瞬は小さく吹き出した。
氷河はこんなに可愛い男だったろうかと、笑いながら思う。

「マーマがずっとここにいていいって、言ってくれたの」
「え」
間断なく母子の家に押しかけてくる女性陣を目の敵にして追い返し続けていた母が、そんなことを言うだろうか? ――と、氷河は瞬の言葉を疑うことになったらしい。
彼が、瞬のその言葉をにわかに信じることができなかったとしても、それは致し方のないことだったろう。
彼女は 彼女の息子が母以外の者を見ることを嫌悪しているのだろうと、氷河は思っていたのだ。
息子のために 死して生者の世界に留まった母。
彼女は、彼女の息子のためだけに存在している心なのだ。
母の独占欲は ある意味では必然にして当然のものと考え、氷河はそんな母を認めていたのである。

思いがけないことを聞かされて、氷河は少々 逡巡を覚えつつ、その視線を母の方へと巡らせた。
彼女は瞬の言葉を否定するでもなく、嬉しそうに笑っている。
母が、ずっとここにいることを瞬に許したという瞬の言葉は嘘ではないらしい。
氷河は、そんな母の心境の変化に非常に驚くことになった。
が、それは氷河も彼の母と全く同じだったのである。
これまでの不作法な侵入者たちには さっさとここから消えてほしいと思っていたのに 瞬にはいつまでもここにいてほしいと願っている。
そんな自分と同じ気持ちで、母も瞬に好意を持ったのだろうと、氷河は思うことにした。

その瞬が、遠慮がちに氷河に尋ねてくる。
「いいかな。僕、ずっとここにいても」
母の心境の変化に驚き、気をとられ、肝心の瞬に何も告げていなかったことを思い出し、氷河は慌てて瞬の方に向き直った。
「もちろんだ!」

この可憐な花がずっとこの家にいてくれる――自分の側にいてくれる。
こんな喜ばしいことがあるだろうか。
冬が来て、今 この家の周囲で咲き誇っている花たちがすべて枯れてしまっても、瞬が側にいてくれるのなら、北の国の厳しい寒さもどれほどのものだろう。
いっそ早く冬がきてくれればいいとさえ、氷河は思った。

そんなふうに 氷河が嬉しそうにしていることが、瞬の心をも嬉しくさせる。
瞬は、氷河の胸に頬を押し当てた――その恋する魂に、彼を愛する心を寄り添わせた。
結局のところは肉体――脳――に付随する記憶の有無に いったいどれほどの意味があるのかというように強く、二つの魂が共鳴する。

「いつまでも一緒にいようね。今度こそ、ずっと」
生きていた時、命に限りのある人間には決して実現し得ない約束と知っていながら、幾度も繰り返し 交わした“永遠”という誓い。
その誓いが、今度こそ実現することを、瞬は知っていた。
永遠の安らぎと幸福は、与えられた生を懸命に生き抜いた人間にだけ与えられる 優しい祝福なのだ。






Fin.






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