数日後、氷河と瞬は仲間たちのいる日本に帰り、彼等の許には日常が戻ってきた。
もっとも、その日常は、二人がシベリアに行く前と後とでは劇的に変化することになったのだが。

夕食が済み、夜と呼ばれる時刻がくると、瞬はまた そわそわし始めた。
そんな瞬を横目に見ながら、紫龍は、瞬には聞こえないように ひそりと金髪の仲間に囁くことになったのである。
「あの様子だと、今夜もお誘いがくるぞ」
紫龍と同じものを、紫龍と同じように横目で見やり、星矢は理解不能のていで軽く首を左右に振った。
「ここんとこ、毎晩じゃん。シベリアから帰ってきてから、滅茶苦茶 頻度が増えてねーか。前は、月に二回がアベレージだったのに」
「まさか おまえ、瞬のために憎んでも飽き足らない男に頭を下げたんだとか、そんなことを言って恩にきせて、瞬に無言の圧力をかけているんじゃないだろうな」

「俺はそんなことはしとらん」
星矢も紫龍も、氷河のその主張が嘘ではないことは わかっていた。
毎日毎晩、夜と呼べる時刻がくると、氷河ににじり寄っていくのは瞬の方なのだ。
氷河より瞬の方が積極的なのである。

「瞬のためなら、自分のプライドや憎しみなんて大したことじゃないとは思ったんだ。瞬に比べたら、あんな男は そこいらへんに転がっている綿埃ほどの意味も価値もない存在だとも思った。だから、俺は、自分でも意外なほど軽い気持ちで あの男に会うこともできたんだ。まさか、あんなことくらいで、これほどのご利益りやくに預かることになるなんて、俺だって考えてもいなかったさ」

それはそうだろう。
以前の瞬は、本当はそんなところに行きたくないのに、そうすることが法律で決められているから仕方なく税務署に足を運ぶ納税者のように、氷河とのそれを行なっている節があった。
瞬は、『氷河は好きだが、氷河とのそれは好きではない』のだろうと、星矢たちは思っていた――ほとんど確信していたのである。
だというのに。

「あ……あの、氷河。そ……そろそろ眠らない?」
そわそわしていた瞬が、これ以上 時の過ぎるのを待ってはいられないといった風情で、氷河の横に にじり寄っていく。
さすがの氷河も、これには驚きを隠すことができなかったようだった。
時計を見ると、時刻はまだ9時。
瞬は昨日までは、それでも10時までは我慢・・できていたのだ。
氷河が瞳を見開くのを 上目使いに認めた瞬が、自分の性急さに恥じ入ったように真っ赤になって顔を伏せる。

「ご……ごめんなさい。あの……いやならいいんだ……」
「いやなはずがないだろう」
そう言って、氷河が、掛けていたソファから腰を上がる。
目の前に差し出された氷河の手を見て、瞬はほっと安堵したようだった。
その手に自分の手を重ね、一応 他の仲間たちの目をはばかるように そろそろと、その場に立ち上がる。
瞬がはばかっていた仲間たちの目は、当然のことながら、氷河と瞬の上にしっかりと据えられていたのだが。

(うー……)
それはもちろん、氷河は『いやなはずがないだろう』。
だが、本音を言えば、星矢は『いや』だったのである。
ほんの半月前まで『地上で最も清らか』をキャッチフレーズにしていた仲間のこの変貌は、星矢を軽い人間不信に陥らせていた。
だから、星矢は、一刻も早く氷河と二人きりになりたいと 瞬の気が急いていることを承知の上で、あえて瞬を引きとめることをしたのである。

「瞬。これはいったい どういう心境の変化なんだよ? おまえ、シベリアから帰ってきてから、すっかり好き者になっちまったぞ。ほとんど病気だぞ病気。おまえ、自覚できてんのか」
「え……」
瞬が一瞬 切なげに身体を震わせたのは、まるで責めるような仲間の言葉にショックを受けたからだったのか、はたまた、やっと氷河とそれができるという喜びに水をさされたからだったのか――。

「だ……だって、僕……」
不機嫌そうな仲間の顔を見やり、瞬は苦しげに眉根を寄せた。
「だって、僕、少しでも氷河の側にいたいんだもの。氷河と離れてると落ち着かなくて、不安になって、一人で眠ってると、夜の間に氷河がいなくなっちゃうんじゃないかって恐くなって、眠れなくなって……。でも、氷河の側にいると恐くなくなるんだ。氷河が側にいればいるほど嬉しくて、安心できて――僕、もういっそ永遠に氷河と一つに繋がっていたい……!」
苦しげに、まるで身悶えるように切なげに、瞬が仲間たちに訴えてくる。

「え……永遠に一つに繋がっていたい――って、おまえ……」
瞬は本気でそんなことを言っているのかと、正直 星矢は瞬の正気を疑ってしまったのである。
瞬は至って真面目に、極めて本気かつ正気で そう思っているようだった――そう感じているようだった。
たった今も、瞬は、氷河と一つに繋がれずにいる状況に苦痛を覚えているようにさえ見える。

それを欲情と言ってしまっていいのかどうかを、星矢と紫龍は悩むことになってしまったのである。
瞬の頬は朱の色に上気し、確かに その瞳は恋の欲望に燃えている。――ように見えた。
にもかかわらず、瞬のその様子が一向に劣情に支配されているように見えないのは、瞬の全身から あまりにストレートかつ素直に発せられている『氷河が好きで好きでたまらない』という主張のせいだった。
瞬の変貌は、『大人になって、その楽しさがわかるようになった』というより『思春期の子供に戻って、初恋をやり直している』ような変化だったのだ。

いずれにしても、瞬の中では、『好き』が『恥ずかしい』を凌駕してしまったらしい。
瞬の心と身体は、今この瞬間も、『氷河と永遠に一つに繋がっていたい』と煩悶している。
これ以上 瞬をこの場に引きとめておくことは、瞬を苦しませるだけの拷問になりそうだった。
「引きとめて、わるかった。早く行け」
「あ……うん!」
仲間の温情に触れて、瞬の顔がぱっと明るく輝く。
そのまま瞬は、氷河の胸に飛び込むように彼にすがりついていった。
氷河の手が、そんな瞬の肩を 至極大事そうに抱き寄せる。

氷河は、瞬の豹変を驚きつつ受け入れている――というポーズをとり続けていたが、彼の内実は、それこそ欣喜雀躍・狂喜乱舞状態なのに違いない。
ただ、瞬の前であからさまに にやけて瞬に幻滅されるわけにはいかないから、氷河は懸命に平静と冷静を保つべく努めているだけのことなのだ。
氷河は今、世界で最も幸福な男であるに違いなかった。


「『人を憎むより愛せ』とか『憎しみは何も生まない』とか、よく言うけどさー……」
世界一幸福な恋人たちの姿を呑み込んだ扉に向かって溜め息をついてから、星矢は彼のもう一人の仲間の方に視線を巡らせた。
紫龍はちょうど、星矢と同じ扉に向かって、星矢と同じような溜め息をつき終えたところだった。
そんな仲間に、星矢は しみじみした口調で呟くことになったのである。
「憎しみに打ち克つと、ほんとにいいことがあるんだなー」

愛は憎しみにまさる――。
星矢はその言葉を、長い戦いの歴史を編んできた人類の希望であり、願いなのだと思っていた。
だが、何のことはない、それはただの事実だったのだ。
誰かを憎んでいるより愛していた方が、人は得を・・する・・
動かぬ証拠を目の前に突きつけられた星矢は、もはやその“事実”を信じることしかできなかった。

愛は憎しみにまさる――。
もちろん、それはただの事実である。






Fin.






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