子供の母親が見付かったのは、氷河が帰国して10日後。 実際に城戸邸に子供を引き取りにきたのは、空港のガレリアで叫んでいた若い母親ではなく、彼女の両親だという二人連れだった。 あの母親が来ていたら、氷河も渡すのを渋ることになっていただろうが、城戸邸の天井の高さに恐れおののいているような 50絡みの夫婦に幾度も頭を下げられて、氷河も我が子を手放す決意をしないわけにはいかなかったのである。 こういう時こそ泣き叫んで 行くのを嫌がってくれればいいのにと、氷河は内心では望んでいたのだろう。 瞬の腕の中から 祖母だという認識もないはずの女性の腕の中に移動させられたというのに、泣き声一つあげようとしない彼の娘に、氷河は大いに不満そうだった。 この10日の間に買い込んだベビー服や玩具と共に赤ん坊を乗せた車が 城戸邸の門に向かって動き始めると、彼の不満は懸念に変わったらしい。 滑るようにゆっくりと門に向かう車を目で追いながら、 「あんな娘しか育てられなかった親たちが、あの子をちゃんと育てられるのか」 と、氷河は心配そうに呟いた。 氷河と同じように、車の中の 束の間我が子だった赤ん坊の影を 名残惜しげに見詰めていた瞬が、氷河の呟きで我にかえる。 心配顔の氷河を見やり、瞬は 笑い声を伴わない笑みを その口許に浮かべた。 「お二人にとっては二人目のお子さんだもの。人間には学習能力があるよ」 寂しげに優しい微笑を浮かべて 瞬が口にする言葉の内容は、かなりシビアである。 だが、だからこそ、氷河にとって瞬の保証は信じるに足るものだったらしい。 「そうだな、それを期待するか」 氷河は軽く顎を引くようにして、瞬に頷き返した。 そんな氷河の偉そうな態度に、氷河たちから2、3歩分ほど後ろで 赤ん坊の旅立ちを見送っていた星矢は、思い切り呆れてしまっていたのである。 「よそんちの親を偉そうに批判する権利があんのかよ、氷河に! 勝手に子供を拾ってきて、瞬を悲しませて、あげく赤ん坊の世話はほとんど瞬に任せきりで、自分は脇から眺めてるだけだったくせに!」 「だが、子供は嫌いだと公言していたわりに、優しく接していたじゃないか。あれは一応、可愛がっていたと言えるんじゃないか? 疎んじているようには見えなかった」 氷河のためというより 星矢の怒りを静めるために、紫龍は氷河の弁護を試みたのだが、星矢の憤りはそんなことでは治まってくれなかった。 「面倒なことは全部 瞬にやってもらってたんだから、当然だろ。氷河は、『可愛い、可愛い』って言って、傍から見てただけ。無責任の いいとこ取り。ミルク飲めば大人しくなる赤んぼより よっぽど質の悪いガキだぜ」 「瞬がちゃんと しつけ直すだろう。馬鹿な子ほど可愛いと言うし」 氷河に聞かれないほどの音量でそう言うと、紫龍は、子供を乗せた車が視界から消え去ってもなお、その車を呑み込んでしまった門の影を見詰め続けている二人に視線を投じた。 後ろ姿を見る限りでは、実質的に世話をしていた瞬より氷河の方が、子供を手放すことに気落ちしているようだった。 しつけ直さなければならない大きな子供がいる瞬は、氷河ほど気楽に落胆してはいられなかったのかもしれない。 すっかり肩を落として その場に立ち尽くしている氷河の手を、瞬がしっかり握ってやっている。 「世の中というものは、存外 公平にできているのかもしれん」 親の愛に恵まれなかった分、仲間が肉親以上の愛で支えてくれる――。 氷河に限ったことではなく、もしアテナの聖闘士たちが普通の家庭で当たりまえのように両親の愛を受けて育った子供たちであったなら、彼等ははたして 何の迷いも疑いもなく信じられる仲間との友情に恵まれることができていただろうか。 そういう意味で紫龍は呟いたのだが、星矢はその意見に素直に賛同することをしなかった。 「どこが公平だよ! なんで、こんな馬鹿騒ぎ起こした氷河が、あんなふうに瞬に――」 あんなふうに瞬を傷付けた悲しませた男が、こんなふうに瞬に愛され甘やかされているだけでも不条理極まりないことだと思うのに、氷河に向かう瞬の愛情は、彼に傷付けられたことで更に強まり深まった感さえあった。 これが不公平でなくて何なのだというのが、星矢の見解らしい。 その考え方にも一理があったので、紫龍は星矢に反駁することはできなかった。 「愛情の収支なら、氷河はいつも黒字だろうな。支出も多いが収入も多い。常にインフレ状態だ。あんなに出来の悪い子供なのに」 「世の中、絶対 不公平だぜ!」 星矢はどうにも この結末に納得がいかないらしい。 頬を膨らませ、口をとがらせ、肩まで怒らせて断言する星矢に、紫龍としては言葉のない笑いを返すことしかできなかった。 「まあ、おまえの腹立ちもわからないではないが……。多少愛情を注ぐ対象や方向を間違っていても、多く与える者は、報いも多く得られるものなのかもしれないな」 氷河は母親や師に深く愛され、瞬からも、他人の目には分不相応に映るほどの愛と思い遣りを その身に注がれている。 その上、氷河を愛する者たちは誰もが、氷河のために命をかけることさえ やすやすとしてのけてしまうのだ。 それを紫龍は、『世の中には愛され上手な人間というものがいるのだ』程度に思っていたのだが、事実はそうではないのかもしれない。 氷河はまず彼自身が人を愛する人間なのだ。 子供じみた率直さで激しく一途に、氷河は彼の愛する者たちを愛する。 彼はその愛の報いを受けているにすぎない――のかもしれなかった。 氷河の愛し方はあまり賢明とは言えないし、一つの目標を定めたら、他を顧みることなく その一つのものだけに持てる愛のすべてを注ぎ込む傾向は、傍迷惑で不器用と言っていいものだが、ともかく彼は、愛されるのを待っているだけの赤ん坊ではない。 彼は、彼が与えた愛情に、ふさわしい報いを受けているだけなのだ。 彼が他者に与える愛情が原始的なほど乱暴なものであるにもかかわらず、彼がその報いとして受け取る愛が賢明で上質なものばかりだから、『氷河は愛されすぎる男』という印象を周囲の者に与えるだけで。 世の中には、そんな人間もいるだろう。 ひとまわり小柄な瞬に支えられているようなインフレ状態の男の寂しげな肩を見て、紫龍は微かに苦笑した。 Fin.
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