翌日、氷河がスーツを身に着けてラウンジにおりてきたのを見て、星矢は瞳を見開くことになったのである。 「なんだよ、ネクタイなんか締めて。衣替えには少し早すぎるぜ」 「怪我をさせた人にお詫びにいくのに、だらしない格好はできないでしょ」 氷河への質問の答えが、氷河の横に立つ人物の口から返ってくる。 どうやら氷河にそれを身に着けさせたのは瞬らしかった。 瞬の答えを聞いて、星矢は、彼が発した質問内容に関しては一応 納得したのである。 氷河が自発的に着たのでないのなら、氷河のスーツ姿は得心できないものでもない。 だが、納得したそばから、星矢の内には別の疑念が生じることになった。 「詫び? 詫びって、昨日 瞬に手を出そうとして、足を出し損なったゲイジュツカ先生へのか?」 「手を出し損な……え?」 「いや、だから、詫びってのは、昨日 氷河のせいで肩を骨折した気の毒な男性への詫びか?」 「うん、そうだよ」 他に誰がいるのかというような顔をして、瞬が軽く首をかしげる。 瞬のその反応で、『氷河が詫びを入れなければならない相手は、今日現在では 例のゲイジュツカ先生しかいない』という件に関しても、星矢は 一応の納得を見た。 が、今 星矢が真に納得できないでいることは そんなことでもなく――『氷河がなぜ急に ゲイジュツカ先生に詫びを入れる気になったのか』ということだったのである。 「氷河は、昨日は、自分は悪くない、悪いのはゲイジュツカ気取りの阿呆な男の方だって言い張ってたぞ」 「考え直して、反省してくれたの」 「氷河が反省〜? ほんとかよ !? 」 信じ難いその言葉に、星矢は当然 疑わしげな表情を浮かべることになったのだが、瞬の言葉はどうやら事実のようだった。 氷河の反省振りを証明しようとしたらしい瞬が、氷河の方を振り返り、 「氷河、病院に行ったら、ちゃんと『昨日は申し訳ありませんでした』って言うんだよ」 と、濃紺のスーツを着た男に告げる(命じる)。 すると、瞬に そう告げられた(命じられた)氷河は、渋る様子もなく、 「わかった」 と答え、実にしおらしい態度で こくりと瞬に頷き返してみせたのだ。 その様子は、飼い主に『お手』と言われて、素直に求められたものを差し出す小犬の姿に似ていた。 むしろ犬より従順かつ勤勉だったかもしれない。 「さっき三回練習した」 と、氷河は真顔で瞬に報告してのけたのだから。 『君子は豹変す』と世間では言うようだが、これは まるで豹が兎に変身したようなもの。 身に着ける服装だけでなく性格までが一変してしまったような氷河の様子に、星矢はあっけにとられてしまったのである。 「氷河の奴、どーなってんだ? たった一晩で、すっかり いい子ちゃんになっちまって」 「まあ、瞬が氷河に振りまわされているより、瞬が氷河の手綱を握っていた方が間違いがなくていいだろう」 「そりゃそうだろうけど、それにしても――」 紫龍は軽い口調でそう言うが、氷河のこの変化は劇的、驚異的ですらある。 つい昨日まで、この金髪男は、正義は我にありと信じて疑わない、これ以上ないほど傲慢な自信家だったのだ。 それが、今日は、ご主人様の命令に従うことが 己れの至上義務にして無上の喜びと信じている下僕そのもの。 氷河の変化は、暴君ネロがヤハウェの神の前に引き出されることになっても、殷の紂王にロボトミー手術を施したとしても、これほど壮絶な変貌は遂げられまいと思えるような変化だった。 そして、氷河のこの変化は、もちろん瞬の手によって為されたことに違いなかった。 あれほど攻撃的な自信家だった男を、瞬はすっかり従順な男に変えてしまった。 その鮮やかな手並みに、星矢は空恐ろしさのようなものを感じてしまったのである――感じずにはいられなかった。 瞬が武器や小宇宙の力で氷河をここまで手なずけたのだとは思えない。 瞬が用いたのは、せいぜい“愛”と呼ばれる力だけだろう。 だとしたら、その力は、どんな武器もどれほど強大な小宇宙をもってしても太刀打ちできない強力無比の力だということになる。 星矢が驚嘆の眼差しを瞬に向けると、その視線に気付いた瞬は、星矢に にこりとやわらかな笑みを投げかけてきた。 その瞳と表情が ただただ優しく見えることに、星矢の背筋は一瞬 ひやりと凍りついてしまったのである。 愛している者と愛されている者。 与える者と与えられる者。 二人の恋の行く手を決める者は、もちろん、より深く愛している人間の方であり、より多く与える側の人間なのである。 Fin.
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