君が微笑むなら






「氷河、気持ちよかった?」
瞬に初めて そう聞かれた時、氷河は ぎょっとしたのである。
自分が瞬に何を訊かれたのか、咄嗟に理解することもできなかった。
より正確に言えば――『瞬は本当にそれ・・が気持ちよかったのかどうかを訊いてきたのか』と疑い、次に、『まさか瞬がそんな下世話なことを訊いてくるはずがない』と思い直そうとした。

瞬がそのとんでもないことを尋ねてきたのは、二人が二人の寝台に入り、その日最初の歓を尽くし終えた直後。
大きく上下していた瞬の胸が 通常の状態に戻りかけた頃。
場所は 二人が暮らしている村はずれの小さな家の寝室で、当然のことながら、氷河は瞬の中に彼の快楽の残滓を吐き出したばかり。
氷河に『ぎょっとするな』と言う方が無理な状況だったのである。

しかし、瞬が知りたいのは、やはり“そのこと”らしい。
その事実を認めざるを得なくなった氷河は、少々――否、大いに――困惑し、瞬に、
「なぜ おまえがそんなことを訊いてくるんだ」
と反問することになった。
「普通、それを訊くのは俺の立場にある者の方だろう」と。

「そうなの?」
「普通はそうだろう。俺は……その、何だ、気持ちよかったに決まっているんだから」
「ふぅん……」
氷河の答えは期待はずれのものだったのだろう。
瞬は、彼の返答を聞くと、少し不満げな顔になった。
しかし、いかに昵懇じっこんの仲とはいえ、“それ”がいかに気持ちよかったのかということを 微に入り細に入り事細かに瞬に説明することは、さすがの氷河にもためらわれたのである。
気恥ずかしさのせいというより、瞬に『氷河ばっかり、そんなにいい思いをするのはずるい』と責められることを懸念して。
「なんで、急に そんなことを訊きたくなったんだ?」
瞬の恋人が瞬によって いかに“いい思い”をさせてもらっているのかを瞬に語らずに済むように、氷河は微妙に話の方向を逸らした。

よいことは秘したい氷河とは対照的に、瞬は 恋人に隠し事をするつもりはないらしい。
それまで顔だけを氷河の方に向けていた瞬は、氷河にそう問われると、その日あった楽しい出来事を母親に語りたくてたまらずにいる子供のように弾んだ様子で、身体ごと向きを変え、指を氷河の腕に絡めてきた。
そして、上目使いに氷河の顔を覗き込む。
「あのね、僕、氷河とこれ・・をする時は、大抵いつも目を固く閉じてるの。その方が、氷河が僕の何してくれているのかとか、氷河の息づかいとかが よくわかるし、どっちにしても、そのうち とても目を開けていられなくなるから。でね、僕、氷河にあちこち触られているうちに身体が軽くなって、夢の中でふわふわしてるみたいな気分になって、自分の手足がちゃんと僕のものなのかどうかも わからなくなって、まるで自分の身体がなくなっちゃったみたいになるのが、もうずっと長いこと 不思議だったんだ。それで、昨日、自分に手足がちゃんとあることを確かめようと思って、頑張って目を開けてみたんだよ」

「変なものでも見えたのか」
「変なものじゃないけど……」
瞬が言葉を途切らせたのは、それが言いにくいことだったから――ではないようだった。
瞬は、彼が昨夜見たものを思い出し、そして、おそらく思い出し笑いをした。
「氷河がいった瞬間の顔と、その直後の顔」
「なに?」

氷河は、瞬のその問題発言に、またしても ぎょっとすることになったのである。
瞬には 自分がとんでもない発言をしたという意識はないらしく、氷河が一瞬 その顔を引きつらせたことにも気付いた様子を見せなかった。
明るい微笑を、その目許に刻む。
「それがねえ、すごく気持ちよさそうだったから、僕、すごく嬉しくなったんだ。僕の手足がどんなふうになっているのかも気にならなくなるくらい」
「おい……瞬……」
瞬が無邪気といっていいような微笑と共に嬉しそうに告げる事実に、氷河はさすがに少々赤面することになった。

その顔を瞬に見られないようにするために、僅かに顔を右に背ける。
そして、今度は間違いなく照れ隠しのために、彼は瞬に反問した。
「おまえはどうなんだ。少しは気持ちいいのか。それとも、今でも痛いだけか」
尋ねてしまってから、話の方向を変えるためにしても、これはまずい問いかけだったと後悔する。
とはいえ、氷河が瞬にそんなことを尋ねてしまえたのは、それが 今の瞬にとって痛いばかりのものではなくなっているという確信があったからだったろう。
多分に、期待を含んだ確信ではあったが。

が、氷河の期待に反して、瞬は、氷河にそう問われると、それまでの楽しそうな微笑をふいに消し去ってしまった。
そして、少し機嫌を損ねたような顔になる。
「そういうことは、できれば訊かないでほしい――かな」
「なぜだ」
いかに毎晩 瞬に嬉しそうな喘ぎ声を聞かせてもらっているとはいえ、氷河は瞬自身ではない。
ゆえに、瞬の真意は氷河にはわからない。
どう見ても不満げとしか表しようのないシュンの表情と声に出合って、氷河は不安を覚えずにはいられなかった。
瞬が、一度 軽く口をとがらせてから、言葉を継ぐ。

「だって……僕、これでも男なんだよ。氷河とこんなことして、氷河にあんなことされて、もう死んでもいいって思えるくらい気持ちよくなるのって、変態って言わない?」
「いやな単語を使うな」
「じゃあ、何て言えばいいの? 被虐趣味者?」
「瞬」
「僕、そんなんじゃないよ。僕、痛いの嫌いだもの」
「……」

瞬に痛い思いを強いている(はずの)男としては、瞬のその主張は 安易に聞き流してしまえる類のものではなかった。
我知らず眉根を寄せることになった氷河の胸の上に身体を乗り上げ、瞬が、浅く皺の寄った恋人の眉間に からかうように人差し指で触れてくる。
「でも、痛いのと気持ちいいのって、紙一重の違いしかないんだよね。氷河が気持ちいいんだって思うと、僕、嬉しくなって、なんて言うか、その嬉しいっていう気持ちが わーっと膨張して、それで僕も気持ちよくなるの」
「それはまた……」

瞬が真顔で楽しそうに語る告白は、氷河の不安を払拭し、むしろ彼を喜ばせてくれるものだった。
瞬の告白に、氷河はつい その顔をほころばせてしまったのである。
「だからね、僕が気持ちいいかどうかは、全部 氷河にかかってるんだ」
瞬は、つまり、そのために――自分が気持ちよくなるために――氷河をぎょっとさせる質問を発したのだと言いたいらしい。
そういう事情があるのなら、瞬の望みを叶えるべく協力することには、氷河もやぶさかではなかった。
それは むしろ、積極的に協力したいことである。
彼は早速 瞬が欲しがっている言葉を提供し始めた。

「俺はいつでも気持ちいいぞ。おまえとベッドに入った瞬間から、おまえが俺を受け入れようとしてくれているんだと思っただけで、感激でいきそう・・・・になる」
急に口が軽くなった氷河に、今度は瞬の方が その眉根を寄せる。
少しばかり不信げな顔で、瞬は氷河に尋ねてきた。

「それ、どこまで信じていいの」
「全部信じればいい」
「全部?」
「そうだ。全部 本当のことなんだから」
言われて、瞬が、氷河の胸の上で 考え込む素振りを見せる。
ややあってから、瞬は得心したように 氷河に軽く頷いてみせた。
「そうだね、信じることにする。そうすれば、僕もいつも いい気持ちでいられるから」

笑って そう言い、氷河の首に両腕でしがみついた瞬が氷河の肩口に顔を埋める。
そうしてから瞬は、小さな声でぽつりと呟いた。
「明日も戦いがあるのかな……」
「……」
それまで ただただ瞬の恋人として在った男の胸に、自分たちはアテナの聖闘士でもあるのだという思いが蘇る。
瞬の恋人であり、アテナの聖闘士でもある氷河は、瞬のその呟きを即座に否定してやれない自分を恨めしく思うことになったのだった。

最近、聖域の周辺には不穏な空気が漂っていた。
鈍く光る聖衣を身にまとった得体の知れない者たちが、たびたび聖域の周辺に姿を現わし、戦闘というほどのものではないのだが、彼等を聖域に近付けないための小競り合いが続いていた。
彼等は彼等の主に派遣された斥候にすぎないのか、本格的な戦闘になる前に退散してくれるのが常だったのだが、今日も氷河と瞬は その者たちと小規模な戦闘らしきものを繰り広げたばかりだったのだ。

瞬の呟きを否定してやれないことを、氷河は苦々しく思った。
それが表情に――否、身体の筋肉に――出てしまったらしい。
瞬は、氷河の肩口に埋めていた顔を上げ、再び その瞳に微笑をたたえて、氷河の胸に頬を押しつけてきた。
「夢みたいに幸せ」
「現実だ」
「うん」

大きな戦いの予感がする。
それは明日にも始まるかもしれない戦いの予感だった。
自分たちが その不安を無理に忘れようとしていることにも、仮にもアテナの聖闘士である者たちが こんな時に こんなふうに幸福感を感じていることにも罪悪感を覚えないわけではない。
だが、この恋と恋人がないと 二人が戦い続けていけないことは、紛う方なき事実だった。
この恋とこの恋がもたらす幸福感があるから、二人はこれまで戦ってこれたのだ。
自分は幸福だと感じることのできる瞬間がなければ、人は戦うことはおろか、生きていたいという意欲を持つこともできないだろう。
そして、戦いだけでは――たとえ その戦いで勝利を得ても――人は幸福感を得ることはできない。
生きていくために――戦うことを余儀なくされている二人には、この恋は必要なものだった。






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