氷河の問いかけに混乱することになったのは――というより、あっけにとられることになったのは――今度は瞬の方だった。 氷河は、本気で そんなことを、公爵家の財力でかろうじて破滅を免れた伯爵家の無力な次男坊に尋ねているらしい。 この人は自分の地位にも力にも立場にも全く頓着していないのだと思った途端に、瞬の唇は 花がほころぶように微笑の形を描くことになったのである。 笑って、瞬は答えた。 「とても可愛いです」 「だったら……!」 「だったら……?」 瞬が氷河に尋ね返したのは、意地悪でも揶揄でもなく、本当に彼の意図がわからなかったからだった。 彼が、どういうつもりで そんなことを言ってくるのか。 何といっても、今の彼は、望んで叶わないことは何ひとつない、この国で最も恵まれた人間の一人なのだ。 彼は、地位も財産も美貌も若さも持っている。 そして、今 彼は、希望という人間の最高の財産をも、その手の中に取り戻した。 どんな栄華もどんな幸福も手に入れることができる立場に、今の彼は在るのだ。 不安定な立場にいる非力な子供にかかずらう義務も必要も、彼にはないのである。 しかし、氷河は、そんな瞬に断固とした口調で言い切った――命じた。 まるで哀願するように――この願いが退けられたなら、もはや生きている術のない訴人が泣訴するように、 「兄の許に帰ることは許さん。俺には あの花園の世話をする者が必要なんだ」 と。 瞬は嬉しかったのである。 氷河の度が過ぎるほどの可愛らしさが、本当に嬉しかった。 声をあげて笑い出してしまいたいほどに。 そんなふうに感じている自分に、瞬は驚きもした。 だが、氷河の可愛らしい申し出を受ける権利を自分は有しているのかと、瞬は疑わないわけにはいかなかったのである。 すべてを持っている氷河と、何も持っていない自分。 二人の立場は、今では――最初から――そういうものだというのに。 「で……でも……」 瞬のためらいや拒絶の言葉など、氷河は聞く気がないらしい。 彼は、『諾』の返事以外聞きたくないと言わんばかりの勢いで、瞬に畳み掛けてきた。 「おまえが俺の側にいてくれたら、俺は、おまえの兄の地位を回復するために尽力する。馬鹿国王に諫言もするし、おまえの兄の恋が成就するよう協力もしてやろう」 「え……」 「この国の軍部を牛耳っているおまえの兄と、この国の金を握っている俺の家が結託したら、国王も そうそう強気ではいられなくなるだろう。この国も少しはましになる」 「そ……れは、とても嬉しいですけど」 氷河の右の手が、瞬の頬に触れてくる。 それは体温の高い子供のように熱かった。 氷河のその熱が、すぐに瞬の頬に移ってくる。 「俺はおまえが好きなんだ。母のいた場所におまえがいるのを見ている間、俺はずっと幸せだった。そうは見えなかったかもしれないが、いつも 本当に嬉しかった。俺は、自分が幸せになることを自分に禁じていたから、おまえに優しい言葉ひとつかけてやれなかったが、本当は俺は おまえがいつまでもこの城にいてくれればいいと思っていたんだ。なのに、おまえがいなくなってしまったら――おまえに見捨てられてしまったら、俺は寂しくて、毎日泣き暮らすことになるだろう」 「え」 瞬は、氷河のその言葉にびっくりしてしまったのである。 心から驚いた。 まさか、氷河がこんな引きとめ方をしてくるとは。 瞬が思っていたよりずっと真摯に、熱心に、氷河は瞬の人となりを観察していたものらしい。 どういう引きとめ方をすれば瞬が折れざるを得ないのかを、彼はよく心得ていた。 瞬が思っているよりずっと氷河は聡明で、そして、もしかすると、狡猾でもある。 あるいは、氷河は、子供のように素直なのかもしれなかった。 欲しいものを手に入れるために どう動けばいいのかを、彼は子供のようによく知っている。 大人を縛るプライドや見えや体裁を捨てて正直になれば、欲しいものは手に入ると、彼は知っているのだ。 「氷河が泣いたら、僕も悲しいです」 瞬は、そう答えるしかなかった。 「だろう。俺が泣いていたら、母も悲しむと思うんだ。だから、俺を泣かせないために、ここにいてくれ」 大人の外見をした、この 小狡い子供は! と、子供の外見をした心弱い大人は思ったのである。 だが、瞬は、見掛けはどうあれ、氷河よりは大人だったので――そのつもりだったので――、可愛い子供のまっすぐな願いを受けとめてやらないわけにはいかなかった。 「氷河がそうしてほしいのなら……」 瞬のその返事を手に入れるや、氷河の顔が ぱっと明るく輝く。 その明るさに目をみはる隙も瞬に与えず、彼は瞬の腕を引いて瞬を椅子から立ち上がらせ、そして、瞬の身体を抱きしめた。 氷河の両腕に強く抱きしめられた時には 一瞬止まってしまった瞬の心臓が、やがて驚くほどの強さと速さで鼓動を打ち始める。 氷河がこっそりと、だが、じっと瞬を見詰めていた間、瞬もまた彼を見詰め続けていたのだ。 氷河が手のかかる美しくて我儘で素直な花だということに、瞬は気付いていた。 瞬は、手間のかかる花が好きだった。 我が身と心を守るため、臆病な棘を養っている花を見ると、泣きたいほどの愛しさがこみあげてくる。 そんな花を見詰めていると、この花を守ってやらなければという思いに囚われてしまうのだ。 そうして、手間をかけ、時間を費やし、美しく明るく花が咲いたときの感激はなにものにも替え難い。 その可愛い花が、『おまえが側にいてくれれば、俺は明るく美しく咲くことができる』と、瞬に訴えていた。 この金色の花に、暖かい陽射しと適度な水と栄養を与え、たっぷりと愛情を注いでやったなら、彼は もっと明るく、もっと美しくなってくれるのだろうか。 そうなのであれば、そのためになら、どんなことでもしてやりたいと、瞬は思ったのである。 そんなことを考えている自分に少し戸惑いながら。 だが、『この花が咲くところを見たい』という瞬の思いは、既に抑えようのないものになっていた。 我儘で気位が高く、我が身と心を守るため、臆病な棘を養っている花。 時折、その棘に刺されるのも、まるで花が拗ねているようで可愛らしい。 「あ……」 氷河の唇が、瞬の瞼に触れる。 反射的に目を閉じることになった瞬は、その目で自分の心を見詰めることになった。 この花に、自分にできることを何でもしてやり、自分に与えることのできるものはすべて与えてやりたい。 そうして、この花が美しく咲く様を、この目で見てみたい――。 瞬の心は、強く そう願っていた。 瞬は――瞬は、結局、自分の心の中にある その願いに負けてしまったのだった。 その願いは、瞬自身にも抗いきれないほど強く激しい欲求でもあったから。 だから、瞬は、まるで蔓薔薇の蔓のように固く我が身を抱きしめてくる人の背に腕をまわし、その唇を受け入れたのである。 途端に、瞬の目の前に、咲き乱れる花園の光景が広がった。 Fin.
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