瞬の綺麗な寝顔を心ゆくまで堪能してから やっと、俺は虚空に目を向けた。 ホテルの部屋の照明は煌々と明るい光を放っていて、室内のどこにも闇はない。 「そこにいるんだろう」 俺が声をかけると、光しかなかった場所に、若い男の姿をした闇が再び、そして静かに姿を現わした。 「俺は、自分が思っていたより はるかに 嘲笑われるのを覚悟して、俺は自嘲気味にそう言ったんだが、奴は俺を嘲笑ったりはしなかった。 かといって、腹を立てているようでもなく、この状況を嘆いている様子もない。 闇が呈している表情を強いて形容するなら――奴は無表情で冷静だった。 すべては予定通りと思っているかのように、落ち着いていた。 慌て取り乱したところの全くない、腹立たしいほど涼しげな声で、 「そなたに あの約束を守りきられて困るのは余の方だからな」 と、奴は言った。 「瞬を余のものにする権利は、必ず余の手の中に戻ってくると信じていた。生きている人間が、生きている身体と心の欲求に抗い続けられるわけがない。そなたと瞬は生きているのだから」 全くもって正論だ。 弁解しても みっともないだけだし、そもそも反論する理屈も言葉も持っていなかった俺は、不愉快な男の前で沈黙を守っていた。 奴にも奴の立場や面子ってものがあるだろうし、まあ言いたいことは言わせてやろうと、俺の中にはいつのまにか妙な余裕が生まれていたんだ。 人間、心身共に満たされていると ここまで余裕を持てるものかと、俺は、一向に奴に噛みついていきたいという気持ちが湧き起こってこない自分に、自分で驚いていた。 「瞬を、こんな浅ましい人間の犠牲にすることはできないという思いが強まった。そなたに何をされようと、瞬の強さと清らかさが損なわれることはないようだし……。時が満ちて瞬が余のものになる日が楽しみだ。いずれにしても、余の勝利は揺るぎないと思うが」 それはどうだか。 一度 瞬を手放して、瞬と共にいられることの幸福と幸運の価値を再認識した俺は、二度と再び瞬を失わないためにならどんなことでもするだろうし、瞬は、そんな俺より 更に強い。 神だって、生きていることの喜びを思い知ってしまったおれたちを向こうにまわして、容易に事を運ぶことはできないだろう。 闇と俺は、一瞬 互いに不敵に笑い合った――と思う。 見ていても楽しめないものを長く視界に映していたくなかった俺は、闇に再会を期する言葉も告げずに、瞬の隣りに横になった。 眠れぬ夜が続いていたせいで、瞬ほどではないにしろ、俺も眠りたかったから。 瞬の温もりが、俺のすぐ側にある。 その温もりが、ひと月振りの安らかな眠りを 俺に運んできてくれた。 翌朝、瞬はすべてを忘れていた。 瞬の認識では、俺たち二人は地上の平和を守るために離れていなければならなかったが、その試練の時は過ぎ去った――ということになっているようだった。 あの闇のことも、俺が瞬を避けていた訳も、瞬の記憶の中からは すべて消え去ってしまっていた。 夕べ 俺たちが何をしでかしたのかということだけは憶えているようだったが。 忘れていても、瞬は思い出さざるを得なかっただろう。 そのほとんどを、俺に食い尽くされてしまったような自分の身体を見たら。 あの闇が、どんな意図をもって そんな小細工をしたのか、その真意は俺にはわからない。 それは、もしかしたら、より残酷なドラマを演出するために、その時までは俺たちを幸福な恋人たちにしておこうという奴の企みなのかもしれなかった。 陰湿そうな男だったから、そんな根性の曲がったことも、奴は考えかねない。 だが、奴の真意など、俺にはどうでもいいことだった。 もちろん、不安が完全に消えてしまったわけじゃない。 だが、朝がきて、人工の照明じゃなく自然の陽光の中で目覚めた瞬が、馴れた小犬のように俺の胸に擦り寄ってくる様を見たら――見せられたてしまったら――、俺はそんなことはどうでもいい気分になってしまったんだ。 瞬の肩を抱き、 「戦えるか」 と訊いたら、瞬は微笑んで、 「一人じゃないから」 と答えてきた。 そう。 瞬は一人じゃない。 二度と、一人になんかしない。 だから、瞬は、あの闇のような神に勝つこともできるだろう。 Fin.
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