「僕、デルポイの戦場で 不思議な女の人に会ったんだ。戦って人を傷付けて、そんなことしてる僕は幸せになんかなれないんだって落ち込んでた僕に、彼女は、これから僕が巡り会う最高の幸せの瞬間っていうのを見せてあげるって言った。このまま死んでもいいって思えるくらいの幸せの瞬間を見せてあげる……って」

僕が彼女のことを氷河に話す気になったのは――やっぱり、氷河と特別に親しくなったせいで生まれてきた気安さのせいだったのかな。
多分、僕がどんな突飛な話をしても、氷河は僕を馬鹿にしたりしないし、冷たく切り捨てたりもしないって信じられるようになっていたからだと思う。
それに――僕が見た白昼夢のことを、氷河には話しておかなきゃならないような気がしたんだ。
それは、今なら話せることでもあったから。

あの人は、『死んでもいいと思えるほどの幸せの時は一瞬』って言ってたけど、今になって、僕は彼女の言葉の本当の意味がわかったような気がしてきた。
そう、死んでもいいと思えるほどの幸せは、確かに一瞬だけのものだ。
一瞬だけのものだから、とても強烈で印象的で、一瞬だけのものだから、とても美しくて儚い。
つらいことや悲しいことに出合った時、人は その一瞬を思い出して、自分を励まし生きる力に換えたり、人によっては、今の不遇を悲しむ材料にしたりする。

でも、『生きていたい』って思えるような幸せの時は長い。
そして、とても控えめで印象に残らない。
それは大抵、つらかったり退屈だったりする日常と並行して存在するから、人はその幸せを意識することすらしないんだ。
生きていることは、生きている人間の義務みたいなものだし。
でも、無意識に生きていることを選択してるって、それはものすごく幸せなことだと思う。
世の中には、安易に、あるいは深刻に、死を望む人や、死を余儀なくされる人たちが、少なからず存在するんだから。

「それで、おまえは見たのか? このまま死んでもいいと思えるほどの幸せの瞬間を?」
氷河は僕に『夢でも見たんじゃないのか』なんて、詰まらないことは言わない。
頷いた僕に、
「どんなだったんだ」
そう訊き返してくれる。

そう。あの時、僕は確かに見たよ。
到底 信じられない、僕の幸せの光景を。
「僕、最初は信じられなかったんだ。そんなことあるはずがないって思った」
「なぜ」
「あの時、僕が見たのは、氷河に抱きしめられてる僕だったから」
「……信じられなかったのか? それがおまえの幸せの時だと」
僕にそう尋ねてくる氷河の声が、少し寂しげなものに変わる。
「まあ……あの時、俺は、おまえにひどいことを言ったしな」

それは僕が浅はかで、氷河の優しさや不器用を忘れていて、氷河の言葉の真意を考えることもできないほど 自分の悲しみに酔っていたせいだよ。
氷河のせいじゃない。
でも、確かにあの時、僕は彼女が見せてくれた幸福の光景を信じることができなかった。
それは事実だ。

「だって……!」
頬が赤くなってるのがわかる。
「だって、その時、僕も氷河も裸だったんだもの!」
「なに?」
耳まで真っ赤に染めた僕の悲鳴じみた声に、氷河が虚を衝かれたような顔になる。
僕たちは今、それこそ裸で同じベッドの中にいるけど、にもかかわらず氷河は、あの時僕が彼女に見せられた『氷河に抱きしめられてる僕』の図を着衣のそれと思っていたみたいだった。
そうだよ。
あの“このまま死んでもいいと思えるほどの幸せの瞬間”の僕と氷河が服を着けて抱き合っていたんだったら、僕だって あれほど『ありえない』と思うことはなかった。

信じろっていう方が無理だよ。そんなこと。
そんな、動物的で即物的な“最高の幸福”なんて。
結局はその通りになって、僕は、このまま死んでもいいって思えるほどの幸せの時を、氷河の胸の中で経験したけど。
今では――今だから、『このまま死んでもいい』って僕に思わせるものは、身体じゃなく心の作用だってわかってるけど。
でも、あの時には――あの時には、正直、たとえ白昼夢だったとしても、こんな場面を思い描いてしまう自分は狂ってしまったんじゃないかとまで、僕は思ったんだ。

真っ赤になった僕の頬から、なかなか熱が引いてくれない。
頬の紅潮を氷河に見られないようにするために、僕は枕に顔を突っ伏した。
氷河が、『真っ赤になってるおまえも可愛い』なんて馬鹿なことを言って、僕の頬に手をのばしてくる。
それで僕は、もぞもぞと もう一度、氷河の傍らに自分の身体を寄り添わせたんだ。
「あ……あの人は、僕の未来に必ず幸福はあるから、希望を持って生きていきなさいって、僕に言った」
「そうか」
氷河は、溜め息のように深く頷いて、そして、その腕で僕の肩を抱きしめた。

「俺は……マーマを失った時、二度と俺は幸福になんかなれないんだと思ったんだ。でも、おまえに会えて、おまえを好きになって、そんなことはないんだと思えるようになった。おまえに同じような好意を返してもらえたら、俺はどんなに幸せな男になれるだろうと、期待と希望を持った。人間てのは、誰もがそんなふうにして生きていくものなんだろうな。絶望の先に希望、失意の次に希望。希望を作り出す力こそが、人間を生かし続けているんだ。おそらく」
「あ……」

氷河のその言葉を聞いて、僕は本当に愚かな人間だったと、恥じ入るような気持ちで僕は思った。
戦って人を傷付けるために生まれてきたなんて、それがどれほどのことだろう。
それは、僕の意思でいくらでも変えることのできるもの。
でも、氷河が氷河のお母さんを失ったことは、どんなことをしても誰にも変えることのできない絶望だ。
氷河はそれを乗り越えてきた。
僕は、僕一人が不幸で悲しいんだと思い込み、思い上がり、一人で落ち込んでた――。
僕は、自分のみっともなさが恥ずかしくて情けなくて、いっそこのままどこかに消えてしまいたいって、一瞬 本気で思った。

「マーマが俺をおまえに会わせてくれたんだと、俺は思っている。俺に希望を持たせるために」
氷河がそう言ってくれなかったら、その場で消えるのは無理としても、毛布の中に頭を突っ込んで闇の中に逃げようとすることくらい、僕はしてしまっていたかもしれない。
氷河は、やっぱり優しいよ。
氷河のおかけで、僕はそんな滑稽で無様なことをせずに済んだ――できなくなった。

「……氷河のマーマって、綺麗な人だったんだろうね」
「写真を見せたことがなかったか」
「あるの?」
「一枚だけ。そこのヘッドボードの中にある写真入れにある」
「見てもいい?」
「あとで」
「どうして?」
「おまえとこうしている時に、おまえ以外の人間の写真なんて野暮だろう」
「そんなことないよ」
ほんとに氷河は、変なところで礼儀正しいというか義理堅いというか――。
僕は くすくす笑いながら、ベッドのヘッドボードに括り付けになっている棚の小さな扉を開け、それを取り出した。

それは、真鍮製の小さなフォトフレームだった。
写真は、多分、デジカメなんかない時代に撮ったもの。
アンティークっぽさを出すためにわざと黒ずませた銀色の写真入れに、大切そうに収められている古い写真を見て、僕はびっくりした。
だって、そこに映ってる綺麗な女の人は、僕がデルポイの戦場で出会ったあの人だったから。

見間違えようがない。
男性と女性の違いはあるにしても、氷河みたいな金髪で、氷河みたいな青い瞳で、氷河みたいに綺麗な人。
なぜ、僕は、あの時 こんな一目瞭然のことに気付かなかったんだろう。
きっと、あの時、僕は本当に自分のことしか考えていなかったんだ。
自分以外の人間の心を慮っていなかった。
自分が世界の中心にいるって信じている子供みたいに。
でも、もし あの人が本当に氷河のお母さんだったとして、いったいなぜ彼女が、氷河じゃなく僕の前に現われたんだろう?

僕が彼女の意図を訝ったのは、ほんの一瞬だけ。
その理由は、すぐにわかった。
僕は、氷河が彼女の次に見い出した希望。
今の氷河の希望であるところの僕が落ち込んでると、氷河までが悲しい思いをすることになるから――だ。
だから、彼女は、彼女の大切な息子の希望を守るために、一人がりに落ち込んでた僕の前に姿を現わして、僕を励ましてくれたんだ。
あの明るく優しい声と瞳で。
彼女自身はもう、氷河の希望ではありえないから――少なくとも、生きている希望ではありえないから――。

なんだろう。
僕はふいに、声をあげて泣いてしまいたい衝動にかられた。
母親は――人は――なんて深い心で人を愛するものだろう。
自分の悲しみに手一杯で、自分の悲しみに一人で酔いしれて、優雅に落ち込んでいた自分が、僕は恥ずかしくてならなかった、

声をあげて泣きたくて――でも、今 僕が泣いちゃいけないんだってことくらいは、大馬鹿者の僕にもわかった。
氷河のマーマの望みは、僕が笑っていること。
そうすることで、氷河が幸せになることだったんだから。

「――氷河のマーマは優しい人なんだね。いつも氷河のことを見守ってくれてるんだ」
「写真でそんなことまでわかるのか」
「わかるよ。氷河のマーマだもの」
僕がそう言ったら、氷河は子供みたいに嬉しそうに笑った。
それで、僕は――僕まで嬉しくなった――すごく幸せな気分になった。
僕が暗く落ち込んでいるせいで 氷河までを陰鬱にしてしまうより、こっちの方がずっといい。
ずっといいよ。
氷河のマーマはきっと、僕にそういうものになってほしかったんだ。
氷河に希望と幸せを与えられる人間に。
それができなくなってしまった自分の代わりに。


僕は、戦って人を傷付けるために生まれてきた 哀れな人間だ。
でも、人を愛するために生まれてきた幸福な人間でもある。
この上、人に希望を与えられるような人間になれたなら、氷河のマーマは僕を褒めてくれるだろうか。
そうであることを期待して――僕は、とりあえず、僕に与えられた命を懸命に生きてみようと思う。






Fin.






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