「あ……あ……でも、そんな……。だって……だって、だったらどうして――」 どうして最初に、二人が出会った時に、彼は自分こそが“氷河”だと瞬に知らせてくれなかったのか――。 瞬の混乱は、当然のものだったろう。 だが、“氷河”が彼の名を名乗らなかったのもまた、当然のことだった。 「おまえは俺以外の男を見ていた」 「あ……」 彼の言う通りだった。 瞬は、この館に来てからずっと、氷河ではない氷河だけを見詰めていたのだ。 『人の心は変わるものだし、それを責めることは誰にもできない』 以前 彼が瞬に告げた言葉を、瞬は思い出すことになったのである。 あの時 彼は“氷河”を責めるなと言っているのだと、瞬は思っていた。 だが、事実はそうではなく――彼は、“瞬”を責めるなと、彼自身に言いきかせていたのだ。 「僕はただ……名前と瞳の色と――」 名前と姿。瞬はそんなものに囚われていたのだった。 「だって、僕……。僕の氷河は金髪で、青い目をしていて、綺麗で華やかで……」 かつて瞬が氷河を恋していた時、瞬が愛したものは氷河の名前ではなく、その姿でもなかったというのに。 「氷河を裏切っていたのは、僕の方だったの……」 黒い瞳の氷河は、無言で瞬を見詰めている。 いくら彼が寛大でも――寛大になろうとしても――ここで瞬に『そうではない』と言うことはできないだろう。 言えば、それは明白に嘘になる。 「ごめんなさい……」 氷河の判断は間違っていない。 そう思っていることを知らせるために彼に浅く頷いてみせてから、瞬は、ふらふらと覚束ない足取りで歩き出した。 自分がどこに向かおうとしているのかは、瞬自身にもわからなかった。 どこでもいいから――今はただ、氷河のいないところに行きたかった。 「逃げるな」 氷河の手が、そんな瞬の腕を捉える。 瞬の腕を掴んだ氷河の手に込められた力は、特に強くもなければ弱くもない。 それは、おそらく彼自身が、裏切り者をこの場に引きとめることに ためらいを感じているからなのだろうと、瞬は思った。 「逃げるんじゃない。僕はただ……僕は氷河の前にいたくない……いられない」 何も考えられない。 “氷河”に忘れられた絶望の中にあった時、あれほど強く瞬を捉えた『死にたい』という思いも、今の瞬の中には生まれてこなかった。 瞬はただ消えてしまいたかったのである。 氷河との約束を破り、それだけならまだしも、裏切られたのは自分の方だと思い込み、氷河の前で嘆き悲しみ、彼に慰めてもらうことまでしていた我が身の愚かさ。 いったい氷河は、他の男のために死を考えさえした かつての恋人を、どんな思いで見詰めていたのか。 どんな気持ちで『生きていろ』と言ってくれていたのか。 考えれば考えるほど――否、瞬は恐ろしくて考えることができなかった。 氷河は以前のことを忘れているのだと思えばこそ、瞬はかろうじて彼の裏切りに耐えることができたのである。 憶えていながら――当の氷河が目の前にいるというのに、彼に気付くこともできなかったというのは、それこそ裏切り以前。氷河という存在を否定したも同然の残酷な振舞いではないか。 そんなことをしたのが、他の誰でもない自分自身だとは。 その事実もろとも、瞬はたった今この場から、どんな痕跡も残さずに、ただ消えてしまいたかったのである。 瞬の瞳はほとんど輝きを失ってしまっていた。 虚ろな瞳で呆然としている瞬の頬に、氷河の手が触れてくる。 その手の平が異様に熱く感じられるのは、瞬の頬が冷えきっていたからだったろう。 否、やはり氷河の手が熱かったからだったのかもしれない。 少なくとも、 「立ち去る前に答えてくれ。おまえは、今の命と心で俺を愛することができるか」 瞬にそう尋ねてくる氷河の声と眼差しには熱がこもっていた。 「氷河……」 「もう一度、俺を愛せるか」 なぜ氷河はそんなことを訊いてくるのだろうと、瞬は思ったのである。 なぜ そんな残酷なことを訊いてくるのかと。 「そんなこと許されない。僕は氷河と約束したのに――もう一度会おうって約束したのに、なのに僕は氷河を裏切って――僕は、誰が僕の氷河なのかもわからなかった……」 「一度だけ、初めて与えられた命を、新しい心で懸命に生きるのが人間だと言ったのはおまえだ。おまえが俺以外の者を好きになっても、それは当然のことだ。俺のおまえだから 出会えば気付いてくれると うぬぼれていた俺が愚かだったんだ。俺たちは同じ過ちを犯しただけで――だが、それは正すことのできない過ちか?」 それは正すことのできる過ちだろう。 その過ちを犯したのが自分でさえなかったら。 自分以外の誰かであったなら。 だが、その過ちを犯した人間は、瞬が唯一人 決して許すことのできない瞬自身だった。 「僕は――氷河との約束を憶えてる。もう一度会おうって約束したことを憶えてる。なのに僕は――僕は自分で自分が許せないよ」 「俺が許す。俺を愛せるか」 それまで氷河は懸命に自分を抑えていたようだった。 無理に瞬を引きとめることはせず、瞬自身が瞬自身の意思で決意することを、氷河は待っていた――のだろう。 一向に その瞳に輝きを取り戻さず、『もう一度 二人で生きていこう』と答えてることもしてくれない瞬を、それ以上 待ち続けることができなくなったらしく、彼は一度短い苦悶じみた呻き声を洩らすと、次の瞬間には 瞬の身体をきつく抱きしめていた。 瞬の肩と首筋に 頬と唇を押し当て、 「俺を愛してくれ」 と低く強い声で、瞬に懇願してくる。 「あ……あ……」 瞬は、自分がどうすればいいのか、どうするべきなのかが わからなかったのである。 もう一度愛せるのではない。 最初から、どんな時にも愛していたのだ。 そして、これからもずっと愛し続けるだろうことが わかっている。 そして、氷河もそうであることが わかっているのだ。 そんな人を、『自分の犯した過ちが許せない』などという重大な、だが自分勝手な理由で突き放してしまうことは、瞬にはできなかった。 死を覚悟していたのなら、瞬は氷河を突き放してしまうこともできただろう。 だが、瞬は、既に死という軽率な逃避を断念したあとだった。 自分は生き続けなければならない。 二人は生き続けなければならない。 これからも生きていく二人のために――瞬は、氷河にすがりついていくことしかできなかったのである。 「氷河……氷河……ごめんなさい。僕を許して。ごめんなさい……!」 瞬の哀願を受けた氷河が、瞬を抱きしめていた腕に更に力を込める。 それが氷河の答えで、それは 冷たく強張っていた瞬の身体をあっという間に溶かしてしまったのだった。 |