粋が過ぎる瞬の未来の姉の振舞いに、氷河は大いに感謝したのである。
彼女は女にしておくのは惜しいとさえ、氷河は思った。
それからおもむろに、粋で雄々しい義姉とは対照的に不粋で臆病な義弟の方に向き直る。
不粋でも臆病でも、瞬の目に『美しい』と映る人間は瞬ひとりだけだった。
そして、今この時は、もしかしたら唯一無二の好機――二人が幸福になるために用意された唯一無二の機会であるかもしれないのだ。
氷河は、思いの丈のすべてを瞬に伝え、できればその思いを瞬に受け入れてもらいたかった。

「俺は、いつもおまえしか見ていなかった。おまえだけだ。一生、おまえだけだと約束する」
「ぼ……僕だけを守るなんてこと、できるわけないでしょう。氷河は親王なんだよ。東宮様に何かあったら、帝にだってなる可能性のある人なんだ。氷河には、氷河の宮を盛り立てる義務が――」
さすがに“不粋な”瞬だけあると、氷河はいっそすがすがしい思いで思ったのである。
瞬をしか愛せない男が、そんな馬鹿馬鹿しい義務のために宮家を盛り立てようなどとしたら、不幸な女を増やすだけではないか。
あの光源氏もどきと同じように。

「あの光源氏もどきは腐るほど子供を残した。娘や姪を幾人も入内させ、あるいは、多くの親王の妻とし―― 子も孫も、俺たち以外に幾人もいる。これからも、一門はうんざりするほど栄えるだろう。おまえが心配する必要はない」
「……」
氷河の、いかにも気楽な親王らしい言葉に、瞬が力なく瞼を伏せる。
瞬の父、氷河の祖父がそんな人だったから不幸な人間が多く生まれたことを、瞬は知っていた。

「僕の母は……父にとって、押しつけられた妻だった。帝の娘という身分と大人しいことだけが取りえの人。美しくはあったけど、才長けているわけでもなく、父の心を捉えるほどの高雅もなく――父の他の華やかな妻たちに比べれば、みすぼらしいほどの人だった。でも、母は父を好きだったんだろうと思う。夫が自分を顧みてくれなかったから、多分、僕の母は不義に走ったんだ。いつも自分を見ていてくれる人がほしくて、父に振り向いてほしくて――」
「……」

瞬の母なら、美しい女性だったはずなのだ。
愛する人に愛されたなら、おそらく他のどんな女性よりも美しくなれたはずの女性。
そんな女性を“みすぼらしい人”にしてしまう祖父の情の薄さが、氷河は嫌いだった。
憎んでさえいた。
人を幸福にできない男が、権力と才にあかせて多くの女を自分のものにする――できてしまったことが、氷河を憤らせるのだ。
そして、だからこそ、自分はそんな男にだけはなるまいと、氷河は思っていた。

「母はそれだけが望みだったの。でも、その望みは叶えられなかった。愛しても報われず、報われないことで傷付き、あげく、当てつけのように不義に走るほど、母は父を憎むようになった。僕は恐かったんだ」
「恐い?」
「いつか僕自身も母のようになるんじゃないかって」
「おまえに人を憎むことなどできるものか」
「できるよ。現に僕は、氷河が通っている姫君たちを妬んでいたもの」

瞬のその言葉を、氷河はにわかには信じられなかったのである。
瞬は、氷河の“武勇伝”を、いつも微笑んで聞いていた。
微笑んでしかくれない瞬に、氷河がどれほど傷付いていたか――それは言葉にできないほどの苦しみだったのだ。
だが、その微笑の裏で、瞬の方が はるかに傷付いていたのだとしたら――。
瞬の微笑みの後ろにあるものに気付かずにいた自分を、氷河は深く悔やんだのである。

「恐くて――自分がそんな醜く浅ましいものになるのが恐くて、だから出家も考え始めていたの……」
瞬の告白に、氷河はぴくりとこめかみを引きつらせることになった。
それは、氷河も薄々 察していたことだった。
若い身空で、法華経などという詰まらないものを熱心に読み写している瞬を見るたびに、氷河は不安に苛まれていたのだ。
「おまえが出家なんかしたら、俺もすぐにあとを追うぞ」
「氷河にそんなことをさせたら、僕は都中の姫君たちから恨まれてしまう」
「……」

おそらく、それは冗談――あるいは皮肉――だったのだろう。
冗談にすぎないはずの言葉を、あまりに切なげな微笑と共に瞬に告げられ、氷河の心臓は鋭い針で刺し貫かれたような痛みを覚えることになったのである。
「瞬。俺をいじめるのはやめてくれ。本当に、俺はどの姫にも触れていない」

たった今も、氷河は瞬に触れていなかった。
問答無用で抱きしめたい人を目の前にして、そうであればこそ、触れたい思いを抑えつけていた。
これは、瞬が決めなければならないことなのだ。
瞬が『諾』という答えを出して初めて、二人は触れ合うことができる。

「氷河……僕は……」
「俺を好きか嫌いかだけ答えろ」
恐れを感じずにはいられないほど真剣な氷河の眼差しに射すくめられながら、震える声で、瞬、氷河に求められた答えを彼に返したのである。
「――好き。誰よりも」
その答えに迷いはなかった。
その答えだけには。

「なら、問題はない。俺の幸福はいつもおまえを見ていられることだ。俺を幸せにしてくれ。おまえにしかできない」
「氷河……」
母が手に入れることのできなかった幸福が、今、手をのばせば届くところにある。
愛した人が自分だけを見つめてくれるという、ありふれた、だが、誰もが手に入れられるとは限らない幸福。
瞬は悲しかったのである。
そんな ささやかな幸福が、誰もが手に入れられるものではないということが。
迷う瞬の前に、氷河が右の手を差しのべてくる。
手をのばし、この幸福を掴んでしまっていいのか、自分だけが――と思う。

瞬は迷い続け、やがて、瞬の視界に映る氷河の手は涙でにじみ始めた。
氷河は辛抱強く待ち続け、やがて、微かにその指が動く。
途端に、瞬の身体は凍りついてしまったのである。
このまま この手を失うことを考えただけで、瞬は身体だけでなく心までが凍りつくような恐怖を覚えた。
そして、次の瞬間、瞬は、手だけでなく身体ごと、氷河の腕にすがりついてしまっていたのである。
まるで目の前の菓子を片付けられそうになった子供のような――自分の振舞いをそんなふうに感じて、恐る恐る瞬が顔をあげると、氷河は彼の手にしがみついている子供を見おろして、ひどく嬉しそうに笑っていた。

「失うことや人に奪われることを恐れて 遠くでびくびくしているくらいなら、勇気を出して掴みとってしまった方がいいようだ。俺はそうする」
そう告げて瞬を抱きしめた氷河の唇が瞬の瞼と頬に触れ、その感触に瞬は陶然とすることになった。
「氷河……」
恐れる気持ちがなかったと言えば、それは明確に嘘になる。
親に望まれることなく生まれてきた我が身に、誰もが手に入れられるわけではない幸福を手にする権利があるのだろうかという不安は、瞬の中から消えてくれなかった。
誰も、自分たちの恋を祝福してはくれないだろうことも、瞬には わかっていた。
だが、
「おまえだけだ。俺を幸福にできるのは」
冷たく凍りついていた瞬の心と身体を、氷河の声が溶かそうとするのだ。
そして、瞬の心と身体は、彼に溶かされてしまうことを望んでいた。

自らの心と身体、そして氷河が望んでいるのに、いったい自分の何がそれらのものに逆らえるというのか。逆らえるわけがないのに――瞬は胸中で小さく呟いた。
「逆らえるはずない……」
「瞬?」
声にしたつもりはなかったのに、それは声になってしまっていたらしい。
氷河が、瞬の肩を抱きしめたまま、怪訝そうに瞬の名を呼ぶ。
瞬は軽く左右に首を振った。

「僕は、どうしていつも氷河に勝てないんだろう――って思ったの。結局、僕は氷河を許してしまう……」
「それはきっと、おまえが俺を好きでいるからだ」
氷河が真顔で訴えてくるのがおかしくて、瞬はくすりと笑うことになったのである。
「きっと氷河の言う通りだね」

氷河の言う通りで、それがすべて、それが真実。
その真実ゆえに、人は幸福にも不幸にもなる。
抗えない真実なら、逃げることより打つ勝つことを考えた方が賢明だろう。
その先に、幸せがあることを信じて。
目を閉じて、氷河の背に腕をまわし、瞬は氷河との幸福に我が身を委ねることにした。






終  






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