「子供の頃からいつも一緒だった瞬をここまで騙せるのなら、おまえは神を騙すこともできるかもしれんな、氷河」 カミュが挑発するような声と目付きで、氷河に探りを入れる。 赤ん坊の頃から自分を知っていて、瞬のように純粋なわけでもないカミュを騙しきることは不可能と、その段になって氷河は悟ったらしい。 顎を僅かに上方に引き上げ、椅子に腰掛けているカミュを下目使いに見おろす。 そうしてから、氷河は、突然開き直ったかのように居丈高な口調で、彼の叔父に宣言した。 「まず、最初に言っておく。それまで手のつけられない悪ガキだった俺が、突然 態度を改めて、周囲が望むようないい子になったのは、瞬に会ったからだ。誰にも文句のつけようのない完全な領主・ 伯爵・男になって、瞬を守るため。俺が瞬を側に置くことに誰にも文句を言わせないためだ。そのためには、馬鹿領主の何のといちゃもんをつけられて廃嫡されるような事態は避けなければならないと思ったし、賢明な領主の振りをして地位と権力を保持していた方が、瞬を俺の側に置くには何かと都合がいい。瞬が仕える主君として、瞬に恥をかかせるようなこともしたくなかったし、すべては瞬のためだった」 「それは……そうなのだろうと思ってはいたが……」 カミュが、修道士にふさわしいとは言い難い態度を示し始めた甥に、浅く頷く。 瞬に出会って、考えや態度を改めたのは氷河だけではなかったのだ。 頭ごなしに『自覚を持て』『立場にふさわしい知識を身につけろ』と怒鳴りつけるより、瞬のように ひたすら主人を愛し仕える者の存在こそが、氷河に自覚を促す力を持っていることを、カミュは瞬という子供に教えられた。 氷河を変えたものが瞬という子供だったことは、カミュもよく知っていたのである。 だから、カミュは、いつまでも二人を二人のままにしておいたのだ。 その大前提を叔父が承知していることを確認すると、氷河はその事実に満足したように薄く微笑した。 そして、おもむろに本題に入る。 「叔父上。俺が修道士になろうとした理由は何だと思う」 「そ……それは氷河が高潔な志を持っていたからでしょう?」 瞬は、自分の不作法にも気付かずに、横から口を挟んでしまったのである。 自分をそれほど大層な存在だと考えたこともなかった瞬には、氷河の言葉の一から十までが、彼を戸惑わせ混乱させるものだったのだ。 「それも、おまえだ」 だが、瞬の答えは間違っていたらしい。 氷河が、その視線を、彼の叔父の上から瞬の上へと移動させる。 そこにあった瞬のすがるような瞳を見詰め、氷河は無理に作ったような笑みを、その目許に刻んだ。 「俺はずっとおまえを好きだった。もちろん、それは、おまえが思うような清らかな恋でも高次な愛でもない。俺はいつもおまえを抱きしめたいと思っていた。だが、これは神の教えに背く恋で、誰にも許されることのない罪だ」 「氷河……」 「すまん。おまえを困らせるつもりはないんだ。ただ、おまえに俺の気持ちを知ってほしいだけだ。おまえに何をしてくれというのでもない。不快なら忘れていい――忘れてくれ」 「あ……」 どうして忘れることができるだろう――と、瞬は思ったのである。 忘れろと言われて忘れられるものなら、氷河への恋を自覚してから数年間、瞬は苦しみのない平穏な日々を過ごせていたはずなのだ。 「氷河は……罪を犯したくないの? だから、修道院の中に逃げることにしたの?」 その時 瞬が忘れてしまったのは、氷河の恋ではなく、その場に自分たち以外の人間がいるという事実の方だった。 「俺は罪を犯すことは恐くない。この恋を罪だとも思っていない。だが、俺の罪におまえを巻き込んでしまいそうで――おまえの意思を無視して、抱きしめてしまいそうで――俺はそれが恐いんだ」 「氷河はそうすることを罪だと思うの」 「俺は思わない。だが、おまえが罪だと思うだろう」 「思わない! 僕は思わない……!」 言葉にしてしまってから、瞬は気付いたのである。 その心を、自分が本当はただの一度も、神の教えに背く――つまりは不自然な――心だと思ったことがなかったことに。 それは、いつのまにか ごく自然に、瞬の胸の中に生まれていたものだった。 本当に自然な心だった。 瞬が、それを罪だと考えていたのは、その心が自分一人だけのものだと思っていたからだったのだ。 自分だけが特異で異常な恋に囚われていると、思わざるを得なかったからだった。 「ううん。本当は……ずっとそうだと思ってた。僕がいつまでも氷河の側にいたいって願うことは罪なんだと思ってた。でも、それは、その願いが僕の……僕だけの一方的な願いだと思っていたからだもの。でも、本当は、僕はずっと いつまでも氷河の側にいたい。それだけが僕の願いだったの」 それが自然の生んだ心なら、その心を禁じる人の世が不自然なのであり、その心を禁じる神の方が不自然な――偽の――神なのだ。 瞬は、今なら そう信じることができた。 氷河も同じ心を持っていてくれることを知った今ならば。 「瞬……」 「氷河は本当はどうしたいの」 瞬の心を知った氷河の手が、瞬の頬に触れてくる。 その手が熱い訳が――その理由も、今の瞬には もうわかっていた。 「俺は本当は、俗世でおまえを愛し愛され生きていたいんだ。いっそ、おまえを連れて地の果てにでも逃げて、身分も地位もない、俺たち以外に誰も何もない場所で、二人だけで生きていきたい。だが、この俗世に地の果てなんてものはない。俺たちは幸せになれない。だから、苦しくて――だから、俺は修道院に逃げ込むことにしたんだ。死も考えたが、それは、おまえに恋することより重い罪だから……」 氷河の瞳と声には、苦渋の色と響きがたたえられていた。 二人にとっては自然な この恋が、不自然な人の世では許されない恋なのである。 二人だけの世界を作らない限り、人は二人の恋を責めるだろう。 「な……なら、僕も氷河と一緒に修道院に戻る! 俗世から隔てられた あの場所が僕たちの地の果てだっていうのなら、もう一度院長様にお願いして、下男としてでもいいから、あの修道院に置いてもらう! 僕、氷河と引き離されてしまったら、きっとすぐに死んでしまうよ!」 「瞬……」 瞬の頬に触れていた氷河の手が、その首筋に下りてきた時だった。 「えーい、この私を無視するのもいい加減にせんかーっ!」 というカミュの雄叫びが、彼の執務室に響き渡ったのは。 瞬は、彼に二人の恋を罵倒されることを予感して、身をすくませたのだが、その雄叫びに続いてカミュの口から飛び出てきた言葉は、瞬が予感していたものとは全く違っていた。 「それがおまえたちの幸福だというのなら、なぜ その幸福を実現するための努力をしようとせんのだ! 氷河! おまえは、そんなに諦めのいい男ではなかったはずだ。もしこの世に神の定めた運命というものがあるのなら、あくまでもそれに抗い、己れの生きたい道を己れの力で切り開き、貫き通そうとするのが おまえだろう! おまえはどんなことでも、何もかも自分の思い通りにしなければ気が済まず、そのための努力を惜しまない、傍迷惑なほど我儘で傲慢な男だったはずだ!」 「……え? いや、それはそうかもしれないが、この件は――事が事だし……」 「事が事とは、どういう意味だ! 男なら、途中で節を曲げることなく最後まで自分の立場で戦い抜かんか!」 「だから、俺は、これが、途中で節を曲げることなく最後まで自分の立場で戦い抜くことが許されないことだと思ったから、修道士になろうとしたわけで――」 「それが卑怯な逃避だと言っているんだ! おまえが修道士になることなど、私は絶対に許さんぞ! 修道士なんぞになられるくらいなら、男と恋仲でいられる方が はるかにましだ! それなら、少なくとも領地経営ができる!」 「それはもちろん、叔父上が俺たちの恋に目をつぶってくれるというのなら、俺は叔父上の期待に沿うため誠心誠意 努めるが……」 「当然だ! それこそが おまえの果たすべき第一の義務なのだからな。おまえたち二人の恋は おまえたち二人だけの問題だが、我が家の領地には10万からの民がいるのだ。どちらが より重要な問題なのかは、考えるまでもないこと!」 「叔父上の言われることは至極尤も……なのかもしれないが、こういうことには、世間体とか、神とか、他にも色々と問題が――」 「よろしい。では、私は、修道院長に 二人の修道士不適格者を当家で引き取る旨の手紙を書く。手紙はロバと一緒に下男に送り届けさせる。国王陛下に依頼の件も、おまえの一身上の不都合でご期待に沿えなくなったと伝える使者を出す。それで異存はあるまいな」 「異存だなんて、滅相もない」 「では、この件はこれにて一件落着!」 カミュは、実は、かなり短気な男だったらしい。 価値観の異なる二つの陣営は対立し合うものと瞬は思い込んでいたのだが、世の中には、価値観が異なるからこそ利害の一致を見るということもあるもののようだった。 恋を第一義とする氷河たちの世界と、支障のない領地経営を第一義とするカミュの世界は、かくして――カミュの迫力に、瞬があっけにとられているうちに――平和裏に並立することになってしまったのである。 |