「そこ……そこに座れ。泣くな、阿呆」
それは、氷河が瞬にかけた、初めての優しい言葉だった――おそらく。
そして、瞬は、到底 優しいとは言い難い氷河の優しさを、ちゃんと受けとめてくれたらしい。
氷河に指し示されたラウンジのソファに座ると、瞬は その顔に笑顔――まだ少々 無理のある笑顔だったが――を浮かべ、
「ありがとう」
と言ってくれたのである。

氷河は、瞬に礼を言われて、かえっていたたまれない気持ちになった。
彼自身も瞬の向かいの席に腰をおろし、一度ためらってから、思い切って瞬に尋ねてみる。
「おまえは、その……人は なるべく多くのものを好きになった方が幸せになれるという理屈で、俺のことも好きになってくれるのか」
「多分。星矢と紫龍の友だちだもの、好きになる要素はたくさんあるんでしょう? その綺麗なお顔以外にも」
「顔しかなかったら?」
「え?」

「俺が、顔しか取りえがなくて、中身のない空っぽな男だったら?」
「……」
それは、どう考えても、“我儘で傲岸な”男の言うセリフではなかった。
昨日までとは――つい数分前までとは――打って変わって謙虚な氷河の物言いに、瞬は戸惑うことになったようだった。
「そ……そんなことはないと思いますけど、もしそうだったとしたら、その時には、その綺麗なお顔を好きになります」
「……」

氷河には、自分は“中身”がない男だという自覚――自信というべきか――があった。
だから、顔を好きになってもらえるだけでも有難いと思うべきなのだろうと、彼は思ったのである。
そして、そんなことを考えている自分に気付いて、氷河はひどく驚くことになったのだった。
だが、今、氷河の胸の内には確かに、『瞬にだけは嫌われたくない』という思いがあった。
瞬がもし自分を好きになってくれなかったら、自分は永遠に誰からも好きになってもらうことはできないだろうという確信が、氷河の心の中には生まれていたのである。

氷河が恐る恐る覗き込むと、そこには、“好きな人を見る目”で氷河を見詰めている瞬の瞳と眼差しがあった。
嬉しいのに、なぜか切なさも覚える、瞳と眼差し。
その瞳に見詰められていることが苦しくなって、氷河は僅かに瞬の上から視線を逸らした。
あらぬ方向を見やって、
「おまえ、その……苦労してきたのか?」
と、馬鹿なことを尋ねてしまう。

「え?」
「おまえの親は……いや、言いたくないんならいいんだ」
それが馬鹿な質問だと、そして残酷な質問だと、言葉にしてから気付く自分を、氷河は殴り倒してしまいたいと本気で思ったのである。
瞬は、氷河の後悔に気付いたようだった。
だからこそ――氷河の後悔を更に深めることのないように――瞬は、氷河に問われたことに答えることにしたのかもしれなかった。

「両親は、僕が1歳になる前に事故で亡くなりました。兄が一人いて、氷河より年上で、今は夜学の4年生。僕の兄さんは働きながら学校に通っているんです。こんな仕組みがあることを知ってたら、兄さんだって、きっと……」
瞬の兄なら、当然優秀な男なのだろう。
瞬は、その先の言葉は口にしなかったが、胸中の無念の思いは隠しきれていなかった。
「僕がいるせいで、兄さんは苦労ばかりしてきたの。これ以上兄さんの負担にはなりたくないから、中学を出たら働こうって思ってたんだけど、こういう道があるってことを星矢が教えてくれて――」

だから、瞬にとっては、星矢も“いい人”なのだろう。
氷河は、だが、星矢が“いい人”であり得たのは、まず瞬自身が“いい人”だったからなのだろうと思わないわけにはいかなかったのである。
世の中はそういうようにできているのだ。
“いい人”の周囲には“いい人”が集まるように。

「氷河は、ご両親は?」
「あ?」
突然 瞬に尋ねられ、氷河は慌てて顔をあげた。
瞬がすぐに、
「言いたくないのなら、言わなくていいです」
と言ってくる。
「いや、そんなことは」

それは氷河にはもちろん、『言いたくないこと』だった。
最愛の母を失った悲しみを、なぜ他人のために思い出し、他人に語ってやらなければならないのかと、人にそういったことを訊かれるたび、氷河は反発心を抱いてきた。
今はなぜか、瞬が自分に関心を抱いてくれたことを嬉しく感じてしまっていたが。

「あのね。『言いたくないのなら、言わなくていい』って、普通の家で育った人は言ってくれないの。普通に幸せで、家庭的に恵まれている人たちの中には、人には 言いたくないことがあるかもしれないなんてこと、考えもしない人が多い。想像力がない……っていうより、想像力が限定されているのかな。大人になって いろんな経験を積むと、『言いたくないのなら、言わなくていい』を覚える人も増えてくるけど、何歳になっても覚えない人もいる。中高生程度だと十人中九人までの人がそんなことには思い至らない」
「瞬……」
「氷河は、ちゃんと想像力があって、人を思い遣ることもできる人ですよ。氷河は優しい人なの。星矢があれこれ氷河をからかうのも、きっと本当は氷河が優しいってことを わかってるからだと思う」
「……」

『言いたくないのなら、言わなくていい』
そんな言葉は常套句の一つでしかない――ありふれた普通の言葉だと言おうとして、氷河はそう言うのをやめた。
瞬は、おそらくこれまでに『言いたくないのなら、言わなくていい』を知らない人間に多く出会ってきたのだろう。
そして、そのたびに傷付きながら、それでもそんな残酷な者たちを好きになることで幸せになろうとしてきたのだ。
拗ねて人を見くだすことでプライドを守ろうとしてきた自分より、瞬ははるかに強く健気で、また、人として上質なのだろうと、氷河は思ったのである。
その強くて健気な瞬が、『氷河は優しい人なの』と言ってくれている。

悲しい気持ちと嬉しい気持ちがないまぜになった不思議な気持ちで、氷河は瞬を見詰めることになった。






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