ホテルを引き払った瞬が城戸邸にやってきたのは、翌日の昼前。
城戸邸の正面玄関でタクシーから降り立った瞬の傍らには、アンドロメダ座の聖衣が収められた箱が一つ。
瞬は、他に荷物らしい荷物を持っていなかった。

「ほんとに聖闘士になったんだ。おまえが」
紫龍と共に迎えに出てきた星矢が、瞬の聖衣ボックスを見て感動したように呟く。
「こうして聖衣を見せられたら、信じないわけにはいかないな」
「箱だけ見て、なに言ってんだよ。早速ラウンジに運んで、お披露目といこうぜ。瞬が来るのを、氷河が今か今かと意地張って待ってる」
「氷河は……まだ機嫌が悪いの」
わざわざ玄関に出て歓迎の意を表してほしいわけではなかったが、この場に氷河の姿だけがないことが気にかかる。
心配顔で尋ねた瞬に、瞬の聖衣ボックスの肩帯を手にした紫龍は 妙に楽しそうな苦笑を返してきた。

「機嫌が悪いというより、きまりが悪いんだろう。秘めたる初恋が、あんな形で俺たちにばれてしまったんだから」
「せこい嘘ついて瞬の唇を奪った悪事もばれちまったしな」
星矢は、氷河の弱みを握れたことが嬉しくてならないらしい。
彼はやたらと機嫌がよさそうに瞬の腕を引いて、“いいウチのお嬢様”から“仲間の一人”に転身した瞬を城戸邸内に招き入れた。

「でも、おまえ、なんだって女の振りなんかしてたんだよ。おかげで俺たち、瞬が目の前にいるのに全然気付けなかったじゃないか」
「それは僕の先生が……」
ほんの数日前、初訪問の客として歩いた城戸邸の廊下。
楽しい思い出など ほとんどないと思っていた他人の家。
そんな場所だというのに、星矢たちの仲間の一人として足を踏み入れた この邸宅は、瞬の胸中に不思議な懐かしさを運んできた。

「おまえの先生って、今回のことを企んだ張本人か?」
興味津々といった顔で訊き返してくる星矢は、やんちゃな子供だった頃の彼が そのまま身体だけ二まわりほど大きくなったような姿と表情をしていて、そんな彼の様子は、瞬の懐旧の念を更に深めることになった。
「うん。いいウチのお坊ちゃんだっていう触れ込みで沙織さんに近付くと、女装した男子だと疑われて 痛くもない腹を探られることになるだろうから、最初から女の振りをしていけって」
「おまえの先生って、ものすごく頭がいいな!」
ここで『日本男児に女子の振りをさせるなんて、ひどい師匠だな』と言わないところが星矢である。
師に対する星矢の評価に、瞬は素直に頷くことしかできなかった。


「氷河。お待ちかねの瞬が来たぞ」
「別に待ちかねてなぞおらん」
瞬の到着を知らせた紫龍に、0.01秒の間も置かず、氷河の不機嫌そうな声が返ってくる。
ラウンジのテーブルの上に瞬の聖衣ボックスを置いて、紫龍は、全く益のない氷河の依怙地をたしなめることになった。
「詰まらん意地を張るな。瞬の聖衣を見て褒めてやれ。聖闘士になって帰ってきたんだ。あの泣き虫の瞬がだぞ」

紫龍に注意された氷河が掛けていた椅子から億劫そうに立ち上がったのが、紫龍の忠告の0.001秒後。
その 更に0.0001秒後には、氷河は、いかにも興味がなさそうな目をして瞬の聖衣ボックスの中を覗き込んでいた。
言葉とは全く裏腹な氷河の態度に吹き出してしまいそうになるのを、紫龍は懸命に耐えることになったのである。

「なんだ、このピンクの聖衣は。どこの玩具屋から仕入れてきたんだ」
「おまえの聖衣だって、相当のもんじゃん。ったく、瞬が帰ってきてくれて死ぬほど嬉しいくせに。 素直になれって。もう全部ばればれなんだから」
「何がばれていると――」

星矢のからかいに むっとした氷河が、その顔を上げて天馬座の聖闘士を睨みつけようとした時だった。
聖衣の箱が置かれたテーブルの脇に立っていた瞬が、さすがは聖闘士としか言いようのない素早さで、氷河の瞼にキスをしたのは。
自分の身に何が起こったのかを咄嗟に理解できなかったらしい氷河が、顔を半分俯かせたままの体勢で、全身を硬直させる。
首を傾けて 硬直状態の氷河の顔を覗き込み、瞬は、懐かしい意地っ張りの仲間に向かって微笑した。

「氷河、泣きそうな顔してる」
「――」
「僕は、氷河のおまじないのおかげで、一人でも泣かずにいられたのに」
「う……嘘をつけ。泣き虫でないおまえなんて、想像もできない」
どもりながら懸命に態勢を整えようとする氷河の視線を捉え、瞬は微笑の上に微笑を重ねた。
「あのおまじないはすごく不便だったんだよ。氷河以外の人に、あのおまじないしてくれって頼むわけにはいかなかったから。でも、これからは氷河が側にいてくれるから、いつでも あのおまじないをしてもらえるね」

「それは……」
それはいったいどういう意味なのか。
今こそ0.0001秒の間も置かず 瞬に尋ねたいところだったのだが、こういう時に限って身体が思う通りに動いてくれない。
おかげで氷河は、衝撃的なほど嬉しい言葉を、瞬から贈られることになったのである。
「どうして僕が氷河のこと憶えてないなんて思えたの。憶えていないわけないでしょう。氷河は僕の――僕に初めてキスしてくれた人なのに」
そう言ってしまってから、さりげなく やり過ごしてしまえない羞恥に襲われたらしい瞬は、真っ赤になって、その顔を伏せた。

「あ……お……俺は……おまえを騙すつもりじゃなかったんだ。俺はただ、どうしてもおまえに――」
どうしても、瞬きのたびに涙の雫を生む瞬の瞼に、そして、その唇にキスしたかったのだ。
あの嘘は、素直に『おまえが好きだ』と言うことのできない不器用な子供が、必死に考えた策略だった。

星矢の言う通り、すべてが ばれているのに、無意味な意地を張っても何にもならない。
氷河は腹をくくって、素直になることにした。
素直になって、どうしても もう一度会いたかった人の身体を抱きしめる。
「生きていてくれてありがとう……瞬」

自分より一まわり以上小柄な瞬を すがりつくように抱きしめて、そのまま離そうとしない氷河の震える肩を見やりながら、しばらく沙織の誤解は解かないでおいた方がよさそうだと、星矢と紫龍は思ったのである。






Fin.






【menu】