瞬はその夜、不安と迷いのために眠れなかったのである。
ヒュペルボレイオスの王位がスキュティア王家に転がり込んでくることは 悪いことではないし、大した問題ではない。
それを賭けるにしても、氷河はまだヒュペルボレイオスの王位を手にしてはいないのだし、実は慎重派の兄は他国の王位を軽々しく我が物にする愚を犯したりするはずがないのだ。
問題は、もう一つの賭けの対象の方だった。

なぜ それが自分なのか。
なぜ、いつのまに、自分は、これほど氷河に対して離れ難いという気持ちを抱くようになってしまっていたのか。
母のために命をかけるなどという、決して自分にはできないことを目の前で嬉々としてやり遂げようとした氷河が悪いのだ――と、瞬は思った。
そんな姿を見せられたら妬ましくて――妬ましくて、母を知らない子供は、彼に憧れずにはいられない。
助けてやらねばと思わずにいられず、守ってやりたいと思わずにもいられない。
そう思っていた人に――しかも、まもなく離れ離れなければならなくなると思っていた人に――思いがけない力強さで求められたら、人は彼を拒めるものだろうか。
迷わずに――心を震わせずにいられるものだろうか。
他人がどうなのかはいざ知らず、瞬の心は震えた――震えてしまっていたのだ。

まんじりともできないまま、瞬は翌朝を迎えた。
氷河と顔を合わせるのが恐くて、兄と顔を合わせるのも恐くて、瞬は、日が高いところに昇る頃になっても自室に閉じこもっていたのである。
兄と氷河の勝負を見るのが恐い。
だが、見ずにいるのは落ち着かない。
午前中いっぱい迷ったあげく、結局、瞬の足は二人の勝負が行なわれている兄の私室に向かうことになった。


既に正午は過ぎ、戦いは始まっていた。
場所が玉座のある広間でないということは、その勝負に賭けられているものが何であるのかを二人が他言していないということなのだろう。
単なる座興にしては見物人が多いのは、スキュティアの国の者たちには、その勝負がスキュティア国の王とヒュペルボレイオスの未来の王の最初の手合わせと見なされているからのようだった。

スキュティアの王とヒュペルボレイオスの未来の王の最初の手合わせの場――つまりは戦場――である市松模様の正方形の盤。
瞬は、兄と氷河の間にあるチェス盤を見た途端、唖然とすることになってしまったのである。
そこで展開されていたのは、大軍を率いて戦うことに慣れている大将軍に、戦争ごっこしかしたことのない子供が挑んでいるような支離滅裂な布陣だった。
もちろん、大将軍は瞬の兄の黒であり、子供は氷河の白である。

「な……何なの、これ」
チェス盤の脇に立つ兄の侍従に瞬が小声で尋ねると、彼は、王同士の真剣勝負を見守っている者というより、やんちゃな子供の無謀を見守っている者と言った方が正しいような呆れ顔を、瞬に向けてきた。
「ヒュペルボレイオス国の未来の国王陛下は、チェスのルールをご存じなのでしょうか? 先程から滅茶苦茶なことばかりしているんです。ポーンで他の駒を飛び越えようとしたり、陛下の黒の駒を勝手に動かそうとしたり――。私は いつも緊張して陛下と瞬様の勝負を見てまいりましたが、今日は全く別の意味で はらはらし通しです」

「ポーンで他の駒を――?」
そんなことをしようとする氷河は、どう考えてもチェスのルールを知らない。
では、氷河は、ルールも知らないくせに、百戦錬磨の兄に勝負を挑んでいったということなのだろうか。
氷河の氷河らしい無謀に、瞬は、比喩ではなく本当に激しい目眩いを覚えてしまったのである。
そんな瞬の目の前で、氷河の手が白のビショップの上に動く。
白のビショップが移動できる場所は ただ一箇所だけで、今 白のビショップが動くことは、ほとんど自分から敵の罠に飛び込んでいく行為だった。

すぐそこに黒のナイトがいる。
かなり離れた場所にいる黒のクイーンもまた、白のキングを追い詰めることのできるポジション。
氷河が今 白のビショップを動かすと、兄からチェックがかかる。
そして、白のキングに逃げ場はない。
どちらの味方にもつかずにいるつもりだったのに、次の瞬間、瞬は我知らず叫んでしまっていたのだった。

「だめ! それを動かしちゃ!」
半ば叱責に近い瞬の声に、氷河は唇だけで僅かに微笑した。
この場にいるのが瞬だけであったなら、彼はおそらく瞬の兄の私室で狂喜乱舞 欣喜雀躍していたに違いない。
唇だけで作られた氷河の微笑は、いつまで経っても消えなかった。
「わかった」
瞬の言葉に従い、氷河は、白のビショップの上にのばしていた手を引いた。
一輝が、そんな氷河をじろりと睨み、そして、瞬を見る。
瞬は、兄の睥睨に気付かなかった。
気付いている暇がなかったのだ。
瞬は、この支離滅裂で絶体絶命の窮地から、起死回生の策を見い出して、氷河を救い出さなければならなかったから。

圧倒的に優位に立っていた一輝が 氷河の次の手を待たずに投了の宣言をしたのは、瞬が氷河を救い出すために、狂瀾を既倒に廻らす策を見付けた まさにその瞬間だった。
「氷河、白のナイトをb4に――」
「投了する。瞬を敵にまわして勝てるわけがない」
兄のその声に、瞬は はっと我にかえったのである。
そして、自分が何をしようとしたのか――何をしようとしていたのか、その意味をやっと明確に自覚した。

瞬の周囲で、チェスの試合を見守っている者が抱く種類のものではない緊張感から ついに解放されたスキュティアの家臣や衛兵たちが、一斉に深い安堵の(?)息を洩らす。
この勝負に何が賭けられていたのかを知らない者たちに気を配る余裕がなかった瞬は、あまりにあっさりと勝負を投げてしまった兄に、音量を全く抑えていない声で訴えることになったのだった。
「で……でも、僕は兄さんの側にいたいのっ!」
「瞬!」
氷河が、瞬の訴えに異議を唱える。
否、瞬の名を呼ぶ氷河の声は、むしろ哀願に近い響きを帯びていた。
彼は、瞬の兄とのチェスでの勝負ではなく、瞬の決意にこそ賭けていたのだ。
人生を賭けた その勝負に勝つことができたと気を安んじた途端に、瞬に兄を選ぶと言われてしまっては、一世一代の勝負に出た意味がないではないか。

「では、氷河だけ、丁重にヒュペルボレイオスに帰ってもらうか」
この勝負に賭けられていたものを知っている三人の中で、一輝の声だけが、平生と変わりなく落ち着いていた。
「あ……」
兄のその言葉に、瞬がたじろぐ。
たじろいで、瞬は、恐る恐る 自分のもう一つの望みを兄に言上することになった。
「あの……僕、氷河とも離れたくないの……」
「我儘な弟だ」

言ってみれば、実弟に裏切られたようなものだったというのに、一輝の声と表情は 至って穏やかなものだった。
兄を裏切った弟、兄から弟を奪おうとしている男に、少なくとも彼は あからさまな憤りを見せることはしなかった。
「諦めるのは愚か者だけに許された特権だ。だが、我々は不幸にして愚か者ではないから――何とかしよう。スキュティアにもヒュペルボレイオスにも良いように、おまえの望みも 俺の望みも その馬鹿者の望みも すべてが叶うように」
「そ……んなこと、どうやって……」
「多少の妥協は必要かもしれないが、俺たちの叡智を結集すれば、解決策はいくらでも――」
そう言いかけた一輝が、途中で一度 言葉を途切らせ、それから、
「我々兄弟の叡智と、この馬鹿の無謀非常識をもってすれば、何とかなるだろう。どんなことでも」
と言い直す。

「兄さん……」
「スキュティアの王でない俺個人は、おまえの幸福だけを願っているんだ。なに、おまえがヒュペルボレイオスに赴いて 無謀な王を巧みに操りヒュペルボレイオスを乗っ取ってしまうもよし、このマザコンがスキュティアに通ってくるのでもよし。おまえが いずれこの男の馬鹿さ加減に愛想を尽かすことになるのは目に見えているんだから、俺はおまえの頭が冷える時を待つだけだ」
「兄さん……」
どんな言葉で何を言われても、兄が自分を愛し、その幸福を願ってくれていることだけは信じていられる。
信じていられることが嬉しくて、瞬は、寛容が過ぎる兄の首に勢いよく しがみついていったのである。

「ありがとう、兄さん!」
途端に、兄弟の背後から、
「瞬! 抱きつく相手が違うだろう!」
という氷河のクレームの声があがったが、瞬は彼の苦情をあっさりと切って捨てた。
「そんなことありません」
「いや、しかし、ここはどう考えても――」

ここはどう考えても、瞬は彼の恋人に抱きつくべき場面である。
氷河はそう思った。
瞬は、肉親への愛とは違う 新しい愛を見付け、その愛に従って、これまでとは違う生き方を生きることを決意をしたのである――そのはずである。
ならば、瞬は、彼が新たに見い出した愛にこそ、その身を委ねるべきなのだ。
それが、氷河の理屈で、氷河の常識だった。
が、瞬の理屈と常識は、どうやら氷河のそれとは違っていたらしい。

「あの……陛下……これはいったい……」
すっかり蚊帳の外に追いやられていたスキュティアの家臣たちが、いつにも増して仲睦まじい国王兄弟に首をかしげながら、彼等の王に事情を問うてくる。
一輝はにこやかに笑って、彼等に彼等好みの説明を与えてやったのだった。
「今日のこの勝負には、瞬が賭けられていたんだ。俺が負けたことによって、ヒュペルボレイオスの未来の国王は瞬を手に入れた。瞬はこれから、そこの無謀な王を巧みに操って、乱れきったヒュペルボレイオスを建て直し、スキュティアとヒュペルボレイオス両国に 新たな友好と更なる発展をもたらしてくれるだろう」

「おお、それは」
「そのために、陛下は、この勝負にわざと負けたというわけですか」
仮にも一国の王たちが(氷河はまだ王になってはいないが)道ならぬ恋の行方を賭けた勝負をしていたなどということに考えの及ばない常識人たちは、一輝のその言葉で すべての疑念を氷解させてしまったらしい。
つい先程まで戦場だった場所は、自国の一層の発展を約束された家臣たちの笑顔で満ちることになった。
そんな家臣たちに いかにも統治者然とした視線を投げながら、一輝が低い声で瞬に助言する。
「ああ、そうだ。瞬。おまえは政治向きのことなら氷河に適切な助言を与えることができると思うが、他のことは全く何も知らない子供だから、氷河とのことで判断に迷うことがあったら、それは氷河とのチェスの勝負で決めるようにするのがいいと思うぞ」

「俺との勝負……?」
それは、たとえばもし、瞬の恋人が瞬にキスをしたいと思い(キス以上のことでもいいが)、瞬がそうすることに逡巡を覚えたら、瞬の恋人は瞬にチェスの勝負を挑み、瞬に勝つことで その幸福を手に入れなければならないということなのだろうか。
最愛の弟を他の男に奪われたことが、瞬に兄にとって どれほどの衝撃だったのかは知らないが、スキュティアの国王は何という馬鹿げた提案をしてくるのだと、氷河は呆れ返ってしまったのである。
冗談にしても出来の悪い冗談だと、氷河は眉をひそめることになった。

だが、何ということだろう。
瞬は、瞬の兄の馬鹿げた冗談に、
「はい」
と素直に頷いてしまったのである。
しかも、瞬は、どう見ても完全に真顔だった。

白のキングがチェス盤から転がり落ちる。
氷河の恋は前途多難の様相を呈していた。






Fin.






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