かくして、懊悩の淵に沈んでいた不幸な恋人たちは、もちろん、世界で最も幸福な恋人たちになったのである。
問題は、彼等の幸福が、必ずしも彼等の周囲の人間たちまでを幸福にするものではなかったということだった。

「瞬」
「あ……」
氷河が瞬の名を呼ぶ。
それは昨夜までと同じだった。
そこまでは、これまでと同じ。

とはいえ、『これまでと同じ』と思うのは、あくまでも瞬の仲間たちが第三者の目で見た上での判断であって、瞬の中では、その時点で既に今夜と昨夜は違うものになってしまっていたのかもしれない。
今夜 瞬の名を呼んだのは、悪い魔物に取り憑かれた仲間の一人ではなく、世界中の何よりも誰よりも瞬を好きだと公言する人物で、禍々しい魔の力を使わなくても 瞬を“あんなふう”にできてしまう特別な人間なのだ。

瞬は、三人掛けのソファの端に座っていた身体を小さく縮こまらせ、膝の上に置いていて二つの拳を固く握りしめた。
その反応もまだ、(第三者の目で見る分には)昨夜までと同じだったのだが、今夜の瞬は その先が違っていた。

氷河が自分を好きで、自分も氷河を好きでいるということを自覚している今夜の瞬は、どうやら その事実を意識しすぎているらしい。
氷河に名を呼ばれたことの意味を認識した途端、瞬の頬には ぱっと朱の色が広がった。
そして、頬を真っ赤に染めたまま、顔をあげず、瞼を伏せ、ひたすら もじもじしてみせる。
すぐに氷河に答えるのは物欲しげに見えるのではないかと詰まらぬことを懸念しているのか、上目使いに星矢を見、紫龍を見、氷河を見、そしてまた瞼を伏せて もじもじする。

その態度、その反応こそが、星矢にとっての瞬を“猥談の相手にだけはしてはならない人物”にしている最大の要因。
思春期の乙女のごとく頬を染め、もじもじしている瞬の姿を目の当たりにすることになった星矢は、まず 耳の下がかゆくなり、次に背中がかゆくなり、まもなく全身が耐え難い かゆさに覆われることになったのだった。

爪を立てて左腕を掻きむしり始めた星矢の姿など視界に入っていないらしい氷河が、ソファに腰をおろしたまま もじもじしている瞬の前に立つと、瞬を好きでいる男が踏むべき手順を踏み始める。
すなわち、氷河は、瞬の前に 自身の右の手を差しのべ、
「瞬、俺はおまえを愛している。おまえも俺を愛してくれていることを ぜひ確かめたい。だから、俺と寝てくれ」
と、礼儀正しく(?)瞬に依頼したのだった。

「やだ、星矢たちのいるところで……」
おそらくは、その手の依頼を受けた人間が踏むべき手順に従って、瞬が氷河の言葉に恥じらってみせる。
二人の脇で ほとんど悶絶している星矢を華麗に無視し、氷河は真顔で、手順を踏み続けた。
「俺は、必要な場面で適切な言葉を使うことと 手順を踏むことの重要性さを、身にしみて知ったんだ」
「それは僕だって……。あの……僕は、氷河が大好きだから、氷河と一緒に眠れたら、と……とっても嬉しい……かな……」

瞬は――瞬もまた――もじもじしながら、自分が告げるべき言葉を口にし、自分が踏むべき手順を踏んで、『諾』の返事を氷河に与えた。
「それはよかった。俺も嬉しい」
氷河の笑顔に引かれるように 氷河の手に自分の手を預けた瞬が、地球の重力を無視したように ふわりと掛けていたソファから立ち上がる。
そうして、告げるべき言葉を告げ、踏むべき手順を踏んだ二人は、あろうことか しっかりと手を繋いで、ラウンジをあとにしたのだった。



氷河と瞬の姿が消えたラウンジを包む静寂と沈黙。
なんとか気を取り直した星矢が、その静寂と沈黙を破ったのは、幸福な恋人たちが 不運な仲間たちを残して その場を立ち去ってから、優に5分がすぎた頃。
5分振りにラウンジに響いた音は、24時間休憩なしで認知機能検査を受けさせられた受験生の疲れきった声に酷似していた。

「おい、紫龍……。あいつら、これから毎晩 あの手順を踏むつもりでいるのかよ?」
「手順を踏むことは大事だからな」
「じゃあ、俺たちは、毎晩 あれを見せられて、あれを聞かされることになるのかよ?」
「言葉というものは、必要な時に適切に使用しなければならないからな」
「それはそうかもしれないけどさ!」

それはそうかもしれない。
だが、それは決して第三者の承認を必要とすることではないはずである。
当人たちが納得していれば、それでいいことのはずだった。
それをやるなら、もっと こっそり人目のないところでやってほしいと望むのは、人倫にもとる非常識なことだろうか。
そんなはずはないと、星矢は思った。
思いはしたのだが。
なにしろ氷河と瞬は、彼等の仲間たちの忠告助言に従ってあれ・・をしているのだ。
彼等の仲間たちに、それを止める権利はないのである。

「紫龍、一言言ってもいいか」
言葉は、必要な時に適切に使用しなければならない。
「どうぞ」
紫龍はもちろん、星矢のその義務と権利を妨害するようなことはしなかった。
紫龍から発言の許可を得た星矢が、ほとんどヤケになっているような大声で、彼の意見を室内に響き渡らせる。
「瞬がびくびくしてた時の方が、まだ全然マシだった!」
星矢のその意見には、実は、紫龍も完全に同感していた。






Fin.






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