おまえの手紙を読み終えた瞬間、俺は自分が塵になって消えてしまうかと思った。
だが、そうはならなかった。
おまえが何者であるのかを おまえが俺に打ち明けてくれたように、俺が本当は何者なのかを 俺がおまえに知らせ、それでもおまえが俺を愛してくれていたなら、俺は――俺たちは塵になって消えてしまうかもしれない。
だが、俺には今、一つの希望がある。
だから、俺は自分が何者なのかをおまえに打ち明けることにした。

俺の故国はロシア。
俺はどこぞの国の王子様でも、暇と金を持て余した大貴族なんかでもない。
母はシベリアの寒村に生まれた漁師の娘――とはいえ、母の父は、母が10歳になる前に亡くなっていたらしいが――、父は、日本が鎖国に入った頃にロシアにやって来た日本人だ。
父がどういう目的でそんなことをしたのかは聞いていないが、彼は数人の仲間と共に船で蝦夷地を出て、その船が難破し、一人だけシベリアの岸に漂着したらしい。

父が東シベリア海の岸に流れ着いた時、母は彼女が生まれた村の外れで一人で暮らしていた。
両親は既に亡く、兄弟もなかった。
小さな村のことだから親戚くらいはいたのかもしれないが、そんなものは母にとって ただの他人だったろう。

俺の母は、一度死んだことのある人間だ。
10代半ばの頃、その頃にはたった一人の肉親だった母親――つまり、俺の祖母だ――が、ひどい熱病にかかって、俺の母は薬草を探して真冬のシベリアの森に入った。
おそらく、そこで道を見失ったんだろう。
祖母が娘の死を知らずに亡くなったことは、彼女にとって幸福なことだったに違いない。

母は、一度 凍死した――ことになっている。
事実がどうだったのかは知らないが、村の者たちが母を見付けたのは、母が森に入って10日も経ってからのことだったそうだ。
だが、シベリアの極寒の気候のせいで、母の身体は腐敗しなかった。
そして、遺体として村に運ばれた その日のうちに母は生き返ったんだ。

あの地で、そういう事象の例は皆無というわけじゃない。
吸血鬼や人狼の伝説が最も多く残っている国は、ルーマニアでも英国でもなくロシアだ。
ストラヴィンスキーの『火の鳥』に出てくる不死身のコシチェイも、元を辿れば原典はスラヴ神話。神話や伝説には、その元になった事象があるものだろう。
仮死状態から生き返る人間の例は皆無ではないんだ。
寒冷で低湿度のシベリアでは。
だが、それは、シベリアでも頻繁にあることではなかった。

俺の母は一度死んで生き返った化け物として、まあ、日本で言う村八分のような目に合っていた。
そんな母の許に、故国に帰る当てのない異国の男が転がり込んできたというわけだ。
二人の間にどういう経緯があったのかは俺も知らない。
ともかく、そういう二人の間に生まれたのが俺だ。

俺が7、8歳になった頃――もうすぐ春になろうという季節に、日本の船がシベリアにやってきた。
俺の父は蝦夷地では それなりに有力な家の者だったらしく、その船の乗員たちの目的は、父を探すことだったらしい。
幕府の力は蝦夷地の奥にまでは まだ届いておらず、だから鎖国令が発布されたあとでも、彼等は船を出すことができたんだろう。
父は、俺と母を故国に連れて帰ることにした。
日本人離れした姿の俺と母が異国の地で苦労するのはわかっていただろうが、俺と母には他に身寄りがなかった。
父は祖国に親兄弟がいて、彼は祖国に帰りたかった。
異端者一家が村を出ていくのを引きとめる理由はなく、村の者たちも俺たち一家が出国の支度を整えているのを静観していたらしい。

そして、出航の日。
俺たち親子を乗せた船が岸を離れて数時間後に嵐が起こり、船は仕方なく いったん元の岸に戻ることにしたんだ。
その際、大きな氷塊にぶつかり、船は座礁した。
浜から半マイルも離れていない場所で。
岸にいた奴等は、海に投げ出された異国の者たちと異端者一家を救おうとはしてくれなかった。
海の水はまだ身を刺すように冷たかった。
船に乗っていた者たちは皆、一人また一人と力尽きて 冷たい海の底に沈んでいったさ。

俺は、母の最期の言葉を憶えている。
まだ多くの流氷が浮かぶ冷たい水の中、俺を抱きしめ、その目には 岸に立って動かぬ者たちの姿が映っていただろう。
「神様、私は誰も恨みません。あなたが私の息子を死なせずにいてくれたなら。でも、私の息子が今日ここで死ぬようなことがあったら、私は永遠に神を憎み続けます――」

俺は、あの時、本当は死んだのだと思う。
俺の屍は氷塊に押されて岸に流れ着いた。
死に行く者たちを見捨てた罪悪感からか、俺の屍に触れようとする者は村人たちの中には一人もいなかった。
村の奴等は、死んだ俺の身体を浜に打ち捨てて、やがて三々五々自分の家に帰っていった。
悲惨な事故の起こった浜に 生きている者が誰一人いなくなってから、俺は目覚めたんだ。
俺は母と父を求め、無謀にも氷の浮かぶ海に飛び込み、目指すものを見付けられず、再び浜にあがった。
生きたまま、元気に動く心臓と共に。
俺は、そうして、自分が死ねない身体の持ち主になっていることを知ったんだ。
神罰によって死ぬことができなくなった、さまよえるオランダ人のように。

それから俺がどんな生き方をしてきたのかを語ると、おまえを泣かせることになってしまうだろうから、語ることはしない。
だが、まあ、どんな過酷な状況にあっても死なない肉体というものは、死ねないという点で不便だが、何かを恐れる心を持たずに済むという点で有益だ。
俺はおまえのように計画的な経済活動ではなく、危険を冒すことで金を手に入れた。

もちろん、悪事は働いていないぞ。
人殺しや強盗なんてことは。
真冬のシベリアの氷雪より冷たい村の奴等に復讐しようなんてことも考えなかった。
そんなことをしても無意味だと、どこかで俺は諦めていたんだろう。
そんな殺伐としたことじゃなく――たとえば、死なない身体の持ち主なら、冷たい海の底に沈んでいる貨客船から金貨や宝石を調達することも容易だ。
他にも色々な場所に――人が容易に近付けない危険な場所にあるものは、大抵 人の世では価値を持つものだったからな。

成人したところで成長が止まり、自分が不死であるだけでなく、不老であることがわかった。
成人していたとはいえ、10年前の姿と10年後の姿が全く同じ人間がいたら、それは当然 人の心に不審を生む。
俺は、おまえと同じように 一つところに留まっていることができなくなり、放浪を始めた。
おまえと同じように、一人きりで。

おまえと同じように、孤独に耐えかね、死のうとしたこともある。
おそらく、おまえが試したのより はるかに多くの過激な方法を、俺は試した。
俺の旅が、やがて死に場所を探す旅になっていったのも、おまえと同じだ。

不死人が死ぬ唯一の方法を 俺が知ったのは100年ほど前だ。
俺がその男に会ったのはウクライナの山奥だったから、おまえにその術を教えてくれた人物とは違う人間なのだと思うが、その男は、俺が初めて会った俺以外の不死人だった。
俺は、その男に、おまえが言われたのと同じことを言われた。
不死人は 真実の愛を手に入れれば 死ぬことができる――と。

真実の愛!
俺はあの男にそう言われた時、声をあげて大笑いしたな。
そんなものがどこにあるんだと。
氷で閉ざされたシベリアの海の底か、人間が足を踏み入れたことのない高い山の頂か。
誰も答えられないだろう。
誰も知らないのだから。
俺はおまえと同じように絶望し、この国に来て、そして、おまえに会った。

瞬。
俺たちは今、真実の愛を手にしていると思う。
真実の愛。
それは、俺たちが考えているほど 難しいものでも複雑なものでもないのではないだろうか。
その人がいれば、誰を憎むこともなく 何も恨まない自分でいられる――たとえば、そんなふうに。
今、俺の心の中には、神を憎む気持ちも運命を恨む気持ちもない。
ただ おまえが優しく微笑んでいるだけだ。

おまえがこの手紙を読んで、俺が何者なのかを知り、それでもおまえが俺を愛したままだったなら、俺は死ぬかもしれない。
おまえも死ぬかもしれない。
その可能性があるのに、俺がこの手紙を したためたのは、一つの希望があるからだ。

おまえが その小さな胸にありったけの勇気と覚悟を生んで綴った手紙を読んで、俺はおまえを これまでよりなお一層愛しく思うことになった。
俺がもし信心深い・・・・普通の人間だったなら、俺は神に許されない存在として おまえの抹殺を試みていたかもしれないのに、おまえは俺に真実を語ってくれた。
愛しさが増すのは当然のことだろう。

おまえが愛しくてならない俺の心が、この愛が、たった今 おまえを殺してしまったのではないかと慌てた俺は、おまえからの手紙を読み終えるなり、身を隠していた場末の宿の部屋を飛び出し、おまえの許に駆けつけようとした。
その時、弾みでテーブルの上にあったグラスを割ってしまったんだ。
そして、指に小さな傷を作った。
そんな傷、これまでは一瞬で消えるのが常だったから 特に手当ての必要性も覚えなかったんだが――だが、その傷は5分以上の時が過ぎても消えなかった。
今も、俺の指には、血の色をした線が残っている。

瞬。
俺たちは、真実の愛を手にすれば死ぬことができる。
それは、俺たちが真実の愛を手に入れた瞬間に塵になって消えてしまうということではなく、不老不死でない肉体に戻るということなのではないかと、俺は思ったんだ。
俺の身に起こったのと同じことが、おまえの身にも起こることを、俺は期待している。
いや、その変化は既におまえの身体に起こっていると確信している。

この手紙に小さなピンを同封した。
そのピンで、おまえの綺麗な指先を少しだけ――少しだけだぞ――傷付けてみてくれ。
その傷が一瞬で消えてしまわなかったなら、それは、不死だったおまえが死に、命を持ったおまえが生まれたことを意味する。

この手紙を、俺はおまえのいるホテルに自分で持参する。
そして、ホテルのメッセンジャーに預け、おまえの部屋に届けさせる。
俺の身に起こったのと同じことが、おまえの身にも起こったら――すぐにロビーにおりてきてくれ。

限りある命を二人で生きていこう。
俺はおまえを永遠に愛している。






Yours sincerely






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