「俺は魔女取調官ではない。本当はハインシュタイン伯の正式な命を受けてきたわけでもなく、シュンの兄に頼まれてシュンを迎えにきたんだ。そう言わなかったのは、もしシュンがこの村に恋人や特別に大切な者がいるようなら、彼等を引き離すようなことはせず、黙って戻ってこいと言われていたからだ。だが、シュンは俺と共に来ると言ってくれた」
一晩経っても村の若者たちが冷静になれず暴走してくれたことは、シュンにとっても自分にとっても 幸いなことだったかもしれないと、ヒョウガは思い始めていた。
おかげで、二人の聖闘士は村人の目を盗んで姿をくらますようなことはせずに済み、大人たちの監督不行届きを責めることも、娘を甘やかすなと村長に忠言することもできたのだから――と。

村長は村の若者たちの暴挙を止めることができなかったことについては大いに反省し、これからはもう少し娘に厳しく接するようにすると約束することもしたが、シュンが村を出ていくことには 全く嬉しそうな顔を見せなかった。
「若い者たちには 今回のような軽挙妄動は慎むよう、きつく言いきかせますが、しかし、シュンがいなくなると、村の税が――」
大人は若い者たちより現実的で姑息である。
罪を償う時間がほしいから 今しばらく村に留まってほしいと言って、シュンを村に引き留めようとした若者たちとは完全に異なる理由で、村長はシュンを村に留めおこうとした。
もちろん ヒョウガは、村長のそんな都合を斟酌する親切心を かけらほどにも持ち合わせていなかったが。

「この村では今年 幾組も夫婦ができるだろう。男たちも女たちも、これまでに増して 張り切って働くようになる。大丈夫だ。ハインシュタイン伯には今回の騒ぎのことは報告しないでおいてやる」
恩着せがましくヒョウガにそう言われ、村長は折れるしかなかったのだろう。
我儘娘の夫になろうという奇特な男も見付かったことであるし、それでよしとするしかないと、彼は自分を納得させたようだった。
ヒョウガにとっての最大の障害は、村長の思惑などではなく、むしろ 彼の利口すぎる妹娘の方だったかもしれない。

「シュンちゃん、ヒョウガと一緒に行っちゃうの……」
アンナが寂しそうにシュンにそう言ってきた時、ヒョウガは背筋にひやりと冷たいものを覚えてしまったのである。
この少女に『行かないで』と言われたら、シュンは情に負け、やはり村に留まると言い出すのではないかと、ヒョウガは懸念しないではいられなかったのだ。
だが、ヒョウガの懸念は杞憂に終わった。
アンナは、自分の“お気に入り”を取りあげられようとしている普通の子供のように 泣き喚いてシュンを困らせるようなことはしなかったし、『ヒョウガと共にこの村を出る』という決意は、シュンの中で既に翻し難いものになっていたようだった。

アンナの前に片膝をつき、視線の高さを彼女のそれより低いところに置いて、シュンは微笑み囁くような声でアンナに告げた。
「アンナには、僕が住んでいた家をあげるよ。凶作でどうしても税が納められそうになくなった時、食器棚の奥を探してみて。そこに金貨があるから、村長さんに渡してね」
「ずっと探さずに済むといいね」
シュンの言葉の意図を即座に、そして正確に理解して、アンナがシュンに深く頷く。
この少女は本当に聡明かつ賢明である。
どうして こんな間抜けで俗物な村長に これほど聡明な娘が授かったのかと、ヒョウガは それこそ神意を疑うことになった。

「アンナは、魔女みたいに賢いな」
それが褒め言葉になっているのかどうかを、口に出してしまってから、ヒョウガはしばし迷ったのである。
そんなヒョウガとシュンに向かって、アンナが歳相応にあどけない笑顔を向けてくる。
「大きくなったら、私、いつか必ずシュンちゃんに会いに行くよ。パンドラと一緒に。シュンちゃんを守るのが、私の使命だから」
「パンドラ?」
この村に来て初めて聞く名に、ヒョウガは僅かに首をかしげることになった。
アンナが、ヒョウガの目の前に、いつも彼女が抱きしめていた人形を差し出してくる。
それは、アンナと同じ漆黒の髪の人形の名前だったらしい。

『パンドラ』とは、ギリシャ語で『全てを贈られた者』という意味の、ギリシャ神話に登場する女の名前である。
ギリシャ神話どころか聖書の物語すら知らないだろう幼い少女が――少なくとも読んだことはないだろう少女が――なぜ そんな名を知っているのか。
ヒョウガは その人形の名に奇異の念を抱き、そして、ふと 彼の女神が彼に告げた言葉を思い出したのである。
『途轍もなく強い小宇宙の片鱗を感じるの。聖闘士か――もしかしたら、眠りに就いて目覚めることを忘れてしまっている神がいるのかもしれないわ』
ヒョウガをこの村に派遣する時、アテナはヒョウガにそう言ったのだ。
そして、この村に入った時に感じた奇妙な感覚。
外界から隔絶され、まるで 何か強大な力に守られ包まれているかのように、この村は平和そのものだった。

シュンが聖闘士だと気付いてから、ヒョウガはそれを、シュンが無意識のうちに自らの小宇宙で彼の暮らす村を守っていたのだろうと決めつけていたのだが、はたして その推測は正しいものだったのだろうか。
シュンはまだ完全には聖闘士の力に目覚めていない。
小宇宙がなぜ生まれるのかも、小宇宙を制御する力も、シュンはまだ知らない。
シュンの意思で制御されていない小宇宙だからこそ、それはシュンの無意識にだけ従って この村を包んでいたのだろうと、ヒョウガは考えていた。
だが、それは正しい推測だったのだろうか――。

何かひどく嫌な予感がして、ヒョウガは、アンナと別れを惜しんでいるシュンに ちらりと視線を投げたのである。
シュンは、愛しみ慈しむように優しい眼差しで、心優しく聡明な少女を見詰めていた。
二人が聖闘士だということも、二人の聖闘士が これからどこに向かうのかも、アンナは知らない。
シュンは、自分が、この大切な友人と もう二度と会うことは叶わないかもしれないということを覚悟しているようだった。
実際、シュンは二度とアンナと会うことはないだろう。
何か特別なこと・・・・・が起きない限り、シュンは この小さな友人と再会することはないはずだった。

「シュン、寂しいのか」
ヒョウガに問われたシュンが、最初は縦に、次には横に、首を振る。
「でも、僕はヒョウガと一緒に行くって決めたから。ヒョウガと一緒にいたいから。僕、ルカスが僕よりラウラを選んだ気持ちが、今はよくわかるの」
「……そうか」
シュンは、恋のために“ヒョウガ”を選んだと言ってくれている。
シュンにそんな選択を強いた自分自身に、ヒョウガは苦いものを覚えたのである。
シュンに つらい選択を強いた自分は、アンナに不吉を感じる権利はないだろうとも、ヒョウガは思った。

そんなヒョウガに、シュンが、優しく やわらかい、だが強い意思を感じさせる笑顔を向けてくる。
「ヒョウガ、どうしてそんな つらそうな目をしてるの。僕は大丈夫だよ。僕はきっと後悔なんかしない」
シュンの笑顔は、二人なら どんな試練も必ず乗り越えられるだろうことをヒョウガに信じさせてくれる笑顔だった。
シュンは、その言葉通り、この先どれほど つらく悲しいことが起きても、後悔せずに、その つらさ悲しさに正面から向き合い、戦い、勝利するだろう。
ならば、シュンにその選択を強いた自分も後悔するわけにはいかない。
それ以前に、自分はもうシュンから離れられない――。
そのどうしよ・・・・うもな・・・い事実・・・を思い出した途端、ヒョウガは――ヒョウガも――我知らず笑い出してしまっていたのである。
本物の魔女が出てこようが、寝とぼけた神が出てこようが、自分はシュンから離れられないし、離れるつもりもない。
神々にすべてを贈られたパンドラは、多くの災厄を人類にもたらしたが、しかし、彼女は最後に“希望”という素晴らしいものを人の世に送り出してくれたではないか。
そして、二人の胸には今、その希望があるのだ。

「いや、これからは いつもおまえと一緒にいられるんだと思ったら、自然に顔がにやけてくるんだ。意識して しかめっ面でいるようにしないと、おまえに呆れられてしまうかと思ってな」
それは、半分は その場しのぎの嘘だったが、残りの半分は紛う方なき事実だった。
シュンが一瞬きょとんとして、次の瞬間、花がほころぶような笑みを浮かべる。
希望を――二人なら どんな試練も必ず乗り越えられると信じさせてくれる人を――手に入れた人間が、必ず乗り越えられる試練を思い煩って何になるだろう。
ヒョウガは、自らの老婆心に苦笑しないわけにはいかなかった。

そうして 二人は 魔女のいる村をあとにしたのである。
希望という、魔女からの贈り物を その胸に抱いて。






Fin.






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