翌日も瞬は 沙織の顔を立てるため、某東証一部上場企業のCEO令嬢と 某々々々国から来日した某々々々々劇団のマチネー観劇に出掛けていき、昨日までと同様 夕食前に城戸邸に帰ってきた。 そこからしても、瞬のデートは至って健全なものと考えられ、それゆえ氷河はどこかで心を安んじているところがあったのである。 少なくとも、昨日まではそうだった。 今日の瞬の帰宅は、昨日より少々早め。 ラウンジに瞬だけが一人 ぽつねんとしているのは、どうやら瞬が今日は土産という名の星矢のおやつを買ってこなかったからだったらしい。 ラウンジのドアを開けた途端、瞬の深い溜め息で迎えられ、氷河は一瞬 その息を止めることになったのだった。 瞬の“オトコ嫌い”は、『オトコよりオンナの方が好き』というレベルのものらしく、極端に近付きすぎなければ、瞬は仲間との交流までを拒否したりはしない。 それはわかっていたので、氷河は極めて慎重に、注意深く、可能な限り さりげなく、瞬が掛けているソファに近付き、その向かいの席に腰をおろした。 「どうしたんだ。浮かぬ顔だな」 意識して何気なく、瞬に声をかける。 昨日 激した声で『オトコって大っ嫌い』と叫んでいた瞬は、今日はやけにしおらしく――その声と表情は憂鬱そうに沈んでいた。 瞬の嫌いなオトコである氷河に、救いを求めるような目を向けて尋ねてくる。 「僕って、そんなに女の子みたい?」 「なに……?」 それは氷河にとって――おそらく氷河以外の人間にとっても――実に答えにくい質問だった。 否定すれば嘘になり、かといって、瞬の期待する答えがわかるだけに、肯定するわけにもいかない。 仕方がないので、氷河は、瞬に、 「誰かに何か言われたのか」 と反問することで、自身の見解を明言することを避けた。 が、不幸なことに、愚鈍の性に恵まれていない瞬には、氷河の答えの意味するところが理解できてしまったらしい。 瞬は両の肩を落として、自分の“浮かぬ顔”の理由を氷河に語ってくれたのだった。 「僕、女の子は好きだけど――今時の女の子って、あんまり控えめじゃなくて、大人しくもなくて、何でもはっきり口にするの。みんなが、僕のこと、女の子みたいに綺麗だとか、女の子より綺麗だとか――」 「それは……それは、おまえが相手を務めている女共は皆、親を通じてとはいえ、沙織さんにおまえへの紹介を依頼してきた積極的なご令嬢ばかりだからだろう。彼女等に“控えめ”を期待するのは間違っている。だが、普通の“女の子”は、そこまではっきりした口のきき方はしないものなんじゃないか?」 「でも……そうかもしれないけど、他の子もはっきり言わないだけで、同じことを考えているような気がする……」 ここで、『多分そうだろう』と頷かないだけの分別は、氷河にもあった。 彼女等が興味を持ったのは、 その保護者たちが、(未婚の)娘と尋常ならざる力を持つ瞬が二人きりで外出することを許すのは、少女のような瞬の姿が危険を感じさせないものだから。 ――ということは、娘など持ったこともない氷河にも容易に察することのできる事実――おそらく事実――だったのだ。 彼等は瞬をオトコとして見ていない。 そして、全くもって不幸なことに 愚鈍の性に恵まれていない瞬は、その事実に気付いている――のだ。 瞬はその視線を氷河の上に据え、その視線に心底からの憧憬を込めて、力無い声で呟いた、 「氷河は綺麗だよね。でも、女の子みたいに綺麗なわけじゃない。僕、どうせ綺麗って言われるような外見を持たなきゃならないのなら、氷河みたいな綺麗がよかった」 「そんなに綺麗だの可愛いだの言われるのが嫌なのか? 貶しているわけじゃないし、そんなことは気にせず、でんと構えていればいいじゃないか。おまえは少しばかり自意識過剰だと思うぞ。おまえを女より綺麗で可愛いと思う奴は多いだろうが、女のように綺麗で可愛いと思う人間は少数派だろう。少なくとも、俺はおまえを女のようだとは思っていない」 それは決して嘘ではなかった。 少女と間違えて恋に落ちはしたが、氷河は幼い頃も含めて、瞬を女の子のようだと思ったことは一度たりともなかった。 瞬を男と思ったこともなかったが。 氷河にとって、瞬は ただ瞬だった。 見知らぬ異国の地で途方に暮れていた異邦人に気遣わしげに声をかけ、温かく微笑みかけてくれた優しいもの。 それが、氷河にとっての瞬だったのだ。 であればこそ、瞬が実は男子だと知っても、瞬に向かう氷河の恋心は消えてしまわなかったのである。 この気持ちを、どう言って瞬に伝えればいいのか。 誤解を生むことなく、この思いを瞬に伝えるとこのできる言葉は、そもそも この地球上に存在するのか。 その方法、その言葉を思いつけないことが、今の氷河を あせらせ苛立たせていたのである。 それがどういうものであれ、氷河が瞬に好意を抱いていることは、瞬もわかってくれているようだった。 十中八九、瞬はそれを友情か仲間意識と思っているのだろうが、『大っ嫌い』なオトコの一人である自分に対して、瞬が信頼と親愛の情を抱いてくれているのは確かなことだと、氷河は思っていた。 その『大っ嫌いなオトコ』で、友人で、仲間である氷河を、瞬が、憧憬とは違う悔しさをにじませた瞳で見詰める。 そうしてから、瞬は、力を失ったように その瞼を伏せた。 「氷河、信じられる? 僕はアンドロメダ島に行って、1週間経たないうちに小宇宙に目覚めたんだよ」 「なに……?」 『信じられる?』と問われれば、『信じ難い』と答えるしかない。 氷河が自分が生む小宇宙を明瞭に自覚できるようになったのは、彼が東シベリアに行って5年以上の月日が経ってからだった。 それをたった1週間で――しかも、城戸邸に集められた子供たちの中で最も生還が危ぶまれていた瞬が――小宇宙を生む技を体得していたというのだろうか。 「1週間?」 単位を間違えているのではないかという口振りで尋ね返した氷河に、だが、瞬は至極あっさり頷いた。 「そう。1週間」 そして、瞬は、氷河には信じ難い その日数をもう一度繰り返した。 「僕が送られたアンドロメダ島の周辺は、政情が不安定で治安が悪くて――今でもそうだけど、海賊やテロリストが多い。アンドロメダ島にも、時々一般人がやってきたり流れ着いたりしてたの。一般人っていうのは、聖闘士や聖域に関わりがない人たちっていう意味だよ。彼等はみんな、自分の望みを実現するためになら略奪や人殺しも平気でする、法の外にいる人たちだった」 「ああ」 瞬が送られたアンドロメダ島はインド洋ソマリア沖にある孤島と聞いていた。 あの辺りは、政府が政府として機能していない国も多く、沖は海賊が跋扈する無法地帯。 まともな船は 武装した護衛艦なしでは航海もままならない第一級の危険海域だということは、遠い北の果てにいた頃の氷河でも知っていた――というより、本当に そんなところに瞬がいるのかと、氷河はいつも気にかけていた。 瞬は、本当に“そんなところ”にいたらしい。 幸福な子供時代を懐かしんでいるとは言い難い目をして、瞬はつらそうに その眉根を寄せた。 「平和じゃないってことは――社会が安定していないってことは、すごく恐いことだよ。何より人の心をすさませる。人を自暴自棄にさせて、良心とか善悪の判断をする力を麻痺させて、自分が生き延びることが何よりも優先されて、他人の心や命はどうでもよくなる。あそこでは、力のない者は誰に何をされても仕方がないの。力のない自分が悪いんだから。力のない者は、自分に降りかかってくる理不尽を黙って耐えるしかないんだ。殴られても、盗まれても、殺されても、犯されても――」 「瞬……まさか……」 抑揚はないのに震えている自分の声を聞いて、氷河はそんな自分自身に嫌悪と戦慄を覚えた。 瞬は今 こうして仲間の前に生きて存在しているのだから、瞬はそういった無法者たちに殺されることはなかった。 それが事実で現実である。 今この場で瞬の死を懸念することは無意味なのだ。 だが、そうであるにしても、『殺される』より『犯される』という言葉の方に より強い憎悪を抱く自分を、氷河は嫌悪しないわけにはいかなかったのである。 仲間の前で青ざめてしまった氷河に、瞬が、見るからに作りものの笑顔を向けてくる。 「あ、心配しないで。ちゃんと逃げたよ。……倒した」 ――小宇宙の力で。 我が身を守るために 目覚めざるを得なかった小宇宙の力で、瞬は、おそらく瞬に暴力を振るおうとした ならず者を傷付け、倒した。 その時、瞬は何歳だったのか――。 そんな幼い頃に、瞬は、肉体を鍛錬するより先に小宇宙を生む術を体得してしまわなければならなかったのである。 それでも笑顔を浮かべている瞬の前で、氷河は言葉もなかった。 「自分が何をされようとしていたのか、何が起こったのか、自分が何をしたのか、最初は僕自身にも わからなかった。でも、そういうことがしばしば起きて、“一般人”を何人も傷付けて、だんだん わかってきたの。元凶は、僕の、女みたいな この外見にあるんだってことが」 「瞬……」 「僕は、自分の外見が女の子みたいだってことが悔しくて、腹が立って、そして、男ってものが大嫌いになった」 「……」 それは至って自然な感情だろう。 非力で幼い子供を腕力で屈服させようとするだけでも卑劣極まりないことだというのに、子供相手に力にあかせて 一方的に性欲を満たそうとするなど 下劣で非道――残虐ですらある。 瞬に対して、そういう者たちを『許せ』『憎むな』と言うことは、氷河にはできなかった。 だが、氷河は、ただ男だというだけで、自分までが そういう下劣な者たちとひとくくりにされてしまうことは、非常に不快だったのである。 「おまえは聖闘士だ。今は――普通の男は誰も おまえに勝てない。そんな下種共は わざわざ嫌ってやるほどの価値もない。そんなことは早く忘れてしまえ」 「そうだね。今の僕には誰も勝てない。でも、氷河や星矢は僕に勝てるかもしれないじゃない」 「瞬……!」 言うに事欠いたにしても、瞬は、瞬の仲間たちに そんな下劣な行為に及ぶ可能性があると、本気で考えているのだろうか。 瞬のその言葉に、だが、氷河は腹は立たなかった――瞬を責める気にもならなかった。 それほどに瞬は深く傷付いたのだと、それだけが悲しく、そして 痛ましかった。 「……氷河や星矢たちがそんなことするはずないってことは わかってる。でも、それが男だっていうだけで、至近距離にまで近付かれるとぞっとするの。今の僕は、あんな卑劣な人たちの暴力に屈することはないってわかってるのに、でも ぞっとして恐くなる。あの恐怖、氷河にはわからないでしょう」 「……」 瞬の言う通り、氷河にはわからなかった。 わからないことが幸福なのか不幸なのかということさえ わからない。 氷河は、ただ悔しかったのである。 瞬には何の罪も責任もないこと。 世の大部分の男たちにも、瞬の仲間たちにも、何の罪もないこと。 瞬が恐怖にかられていた時、自分が側にいてやれなかったこと。 瞬に小宇宙を生む力を与えたきっかけが、そんな不幸な出来事だということ。 それらのこと何もかもすべてが、氷河は腹立たしく、そして悔しくてならなかった。 「俺が女だったらよかった。そうしたら俺は、おまえを抱きしめて、おまえを慰めてやることもできるのに」 「氷河……」 瞬の仲間たちがそんな下劣な行為に及ぶことはないとわかっている――という瞬の言葉は、嘘ではないのだろう。 それでも、瞬の仲間たちは、瞬の『大っ嫌い』なオトコたちの一人ではある。 二度と経験することはないはずの恐怖を忘れられずにいる自分を悲しみ傷付いているような瞬の眼差しに、氷河の胸は強く締めつけられた。 |