早朝ジョギングから帰ってきた星矢が、まだ誰も その日の仕事に取りかかっていない城戸邸の廊下で とんでもないものを見ることになったのは、氷河の赤いリボン騒動から半月ほどが経った ある日のこと。 季節はまだ、 「えええええーっ !? 」 早朝の冴えた空気と静寂の中に、星矢が素っ頓狂な大声を響かせる。 星矢に、そんなふうに近所迷惑な大声をあげさせたもの。 それは、あろうことか、瞬の部屋から廊下に出てきた氷河の姿だった。 別に氷河は裸でいたわけでも、夜着のままでいたわけでもなく、ごく普通の――白いYシャツを着けた、ごく普通の――格好でいたのだが、それは星矢を仰天させるのに十分な威力(?)を持ったものだったのだ。 なにしろ、時刻は午前6時。 朝の挨拶をするために友人の部屋を訪ねるには 多分に早すぎる頃。 星矢の素頓狂な雄叫びを聞きつけて廊下に出てきた紫龍でさえ――氷河に比べれば はるかに早起きの紫龍でさえ――まだ竹の葉模様のパシャマを着ている時刻だったのだ。 「氷河……おまえ、まさか……おまえ、まさか、やっちまったのかーっ !? 」 「そういう下品な言い方はやめろ」 どこから何をどう見ても落ち着きを失っている口調で、あまりに直截的に その事実を訊いてくる星矢に、氷河が渋い顔になる。 だが、どういう言葉を用いても、星矢が確かめたい事実が変わることはない。 そして、氷河は、星矢が確かめたい事実を否定することはしなかった。 つまり、氷河は、本当にイタシてしまったのだ。 「い……いくら何でも早すぎだろっ! 瞬が普通にオトコの側に近寄れるようになったのは、つい半月前のことなんだぞ! そんなことしたら、瞬のオトコ嫌いが重症に――おまえ、二度と瞬に許してもらえなくなるかもしれないんだぞっ!」 『やっちまった』にしても無理矢理だろうと、星矢は決めつけていた。 星矢は、そう思わないわけにはいかなかったのである。 氷河の“かっこいい”姿を見るたびに、赤いリボンつきの氷河の写真を確かめることを、瞬は今でも やめずにいた。 そうすることで、瞬はおそらく、我が身の安全を自身に言い聞かせているのである。 要するに、瞬は、氷河に男らしさや男としての魅力を求めてはいない。 そんな瞬が、抵抗なく氷河の男としての欲望を受け入れられるわけがないのだ。 しかし、氷河は、星矢の懸念を全く無意味な杞憂と思っているようだった。 「おそらく、大丈夫だろう。瞬も気持ちよさそうにしていたし。今夜も来ていいと、約束も取り付けた。まあ、俺の愛と誠意とテクがものを言ったんだろうな。ここで失敗したら次はないと覚悟を決めて、俺の持てる力のすべてを瞬に投入したから、瞬も大いに満足したと――」 そう告げる氷河の口調は、心配性の友人を落ち着かせようとする口調ではなく、自分の手柄(?)を自慢する口調でもなく――ただ事実を事実として報告する者のそれだった。 だが、それでも――そんな淡々とした口調でも――氷河の事実報告は、瞬には十分に羞恥を運んでくるものだったらしい。 「そんな恥ずかしいこと、言わないでっ!」 氷河が閉じたドアから、今度は瞬が廊下に飛び出てくる。 瞬は、仲間たちのやりとりを洩れ聞いて慌てて外に飛び出てきたものらしく、その身に着けているものは白いブラウスが1枚、脚は いわゆるナマ足状態。 そして、これが何より重要なことなのだが、瞬の頬は薔薇色に上気し、どう見ても青ざめてはおらず、もちろん涙で濡れてもいなかったのである。 瞬のそのあられもない姿を見て、星矢は 激しい目眩いと頭痛に同時に襲われることになった。 こんなことがあっていいのかと、腹の底から思った。 それはそうだろう。 これはまるで、散るのは自然の摂理と諦めていた桜の花が突然、『今年から散るのはやめました』と言い出したようなもの、進行する温暖化を案じていた人類が、突然 地球に『今日から温暖化をやめました』と宣言されたようなものだった。 「おまえ、ついこないだまでオトコ恐怖症で、オトコに触られるのも嫌だったんじゃねーのかよ! なのにこんな――こんな急に、一気に行くとこまで行っちまうなんて詐欺だろ、詐欺!」 「それは……」 それは決して人に責められるようなことではなかったし、星矢は瞬を責める権利を有してもいなかったのだが、瞬は、自分は星矢にそう言って責められても致し方のない立場にいるという認識でいたらしい。 消え入るように小さな声で、瞬は星矢に弁解をしてきた。 「だ……だって……氷河、頭におっきな赤いリボンつけて迫ってくるんだもの。氷河が真剣な顔をすればするほどおかしくて、僕、身体から力が抜けてっちゃったんだよ……!」 「おっきな赤いリボン……?」 星矢は、瞬のその言葉を聞いて絶句することになったのである。 では、氷河は、瞬と肉体交渉に及ぼうという時にまで、あの真っ赤なリボンの力を借りたというのだろうか。 あのリボンの持つ強大な力は十分承知していたのだが、それでも星矢は開いた口がふさがらなかった。 「それで、あっさり押し倒されてしまったのか。見事な必殺技だな」 紫龍の感嘆の声に、瞬が身の置きどころをなくしたように身体を縮こまらせる。 瞬は、そして、彼の仲間たちに 更に弁解を重ねてきた。 「だ……だって、氷河、僕のこと好きだって何度も言うし、優しくするって約束してくれたし、気持ちよかったし、僕、ほんとは――」 「おまえ、寂しがりやだもんなー……」 とても聖闘士とは思えない、まるで些細ないたずらの弁解をしている小さな子供のような様子の瞬の細い肩を見て、星矢はその事実を思い出したのである。 幼い頃の瞬は 一人にされることを何より恐れる子供だった。 誰かに触れていることで、自分は一人ぽっちではないのだということを確認し、安心感を得ようとする、極度の寂しがり屋、孤独恐怖の気のある子供だったのだ。 人類の半分を占めるオトコに嫌悪感を抱きながら、それでも瞬はいつも誰かと触れ合える自分を求めていたに違いなかった。 かといって、昨日今日知り合ったばかりの女の子に抱きつくわけにもいかず、瞬は人肌の温もりに飢えきっていたのだろう。 そこに、『おまえに触れたい』と熱望する男が現われた――現れてくれた――のである。 瞬が その男にすがることになったのは、ある意味では自然必然のことだった。 二人がそういうことになったのは もちろん、積極的な氷河のアプローチが第一の要因だったろうが、二人の間にそれが成立してしまったのは、結局、誰に気兼ねすることなく触れ合える人を瞬が希求していたからだったに違いなかった。 でなければ、仮にも聖闘士である瞬が、滑稽な赤いリボンごときに こうもあっさり負けを喫してしてしまうはずがないのだ。 瞬こそが それを求めていたのだと考えでもしなければ、これはありえない事態だった。 星矢が1年後くらいには到来するだろうと踏んでいた第二の嵐。 瞬とその周囲を巻き込んで 大きな混乱と被害をもたらすはずだった第二の嵐は、その嵐に正面から立ち向かうことを余儀なくされるはずだった瞬が、『いらっしゃいませ。お待ち申し上げておりました』と 嵐の源を自分の部屋に迎え入れてしまったために、熱帯低気圧から台風に発達し損ない、ただの春の宵の微風になってしまったのだ――。 せっかく咲いた春の花々を散らしてしまう嵐が、その花びらを愛撫するだけの そよ風になってしまったことは、よいことなのだろう。 よいことなのだろうとは思うのだが。 第二の嵐の到来を危機感と緊張感をもって恐れ案じていただけに、星矢は心底から気が抜けてしまったのである。 それは、たとえて言うなら、猛烈な勢力を保った台風上陸という気象予報を聞いて、玄関先に土嚢を積み、窓や雨戸を釘付けにし、屋根や外壁の補強をし、非常用食料まで用意して台風の到来を待ち構えていたというのに、その台風が上陸前に消滅してしまったような――そんな事態だった。 台風を迎え撃つために費やした甚大な時間と労力と覚悟はいったい何だったのかと、青く晴れ渡った空を怒鳴りつけたくなるような気分。 ありていに言えば、星矢は、上陸しなかった台風に すっかりがっかりしてしまったのである。 その期待外れの原因が、全く罪の意識を感じていない顔で その期待外れの原因である氷河を、星矢が激しい声と言葉で責め なじらなかったのは、天馬座の聖闘士の脱力と疲労のレベルが あまりに高いもので、その気力の回復が容易に成らなかったからだった。 嵐を そよ風に変えてしまった男に、星矢は疲れた声で嫌味を言うのが精一杯だったのである。 「氷河……おまえって、欲しいものを手に入れるためなら、ほんとに なりふり構わねー男だな。フツーの男は、頭に真っ赤なリボンつけて 好きな相手に迫るなんて阿呆なこと、死んでも考えねーぞ」 「おまえには日本男児の気概と誇りがないのか。恥ずかしい」 星矢の疲労と脱力に同情共感したように、紫龍もまた 氷河のこの振舞いに呆れたような声を洩らす。 そんな仲間たちに対して、だが、氷河は、それこそ どこ吹く風の 「俺は、なりふり構って、欲しいものを手に入れ損なう愚か者になるつもりはない」 疲れ果てている星矢と、呆れ果てている紫龍を、氷河が恥じ入る様子も見せずにクールに鼻で笑ってみせる。 確かに氷河は、自分の欲しいものを手にいれた男だった。 彼は、人生の失敗者でも敗北者でもなく、正しく成功者にして勝利者なのである。 それは星矢も紫龍も認めないわけにはいかなかった。 氷河の問題対処法は、おそらく正しいのだ。 氷河のそれは、真夏の直射日光のように正しく、まっすぐで強い。 そして、彼は、真夏にも溶けることのないシベリアの永久氷壁のようにクールでもある。 自らの目的を遂げるためなら、氷河は他のあらゆることを――名誉もプライドも体面も――クールに無視し切り捨ててしまうのだ。 氷河は、人生の試練の乗り越え方を知っている。 その方法を知っているだけでなく、着実かつクールに行動実践する。 氷河はただ、恥を知らないだけなのだ。 Fin.
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