それでもいつかは瞬を怪我人もどきの“世話”から解放してやらなければならないことは、氷河にもわかっていた。
調子が悪い振りを続けていれば、瞬はいつまででも怪我人の世話をしていてくれそうだったのだが、そうもいかない。
「おまえの手助けがなくても、もう大丈夫だろう」
氷河が瞬にそう告げたのは、彼の指を固定していたギプスが取れ、包帯を巻いている必要もなくなった頃。
一度は その身体から離れた氷河の指が完全に氷河本体に同化したことが 明白になった頃だった。

氷河の朝の身支度の手伝いをするために仲間の部屋にやってきた瞬を、その日 氷河は すっかり朝の支度を済ませた状態で出迎えた。
そして、彼は、決して本心から望んでいるわけではない その言葉を、瞬に告げたのである。
瞬を迎えた氷河が身に着けていたものは、何ということもない、ごく普通の白いYシャツ。
が、ごく普通のYシャツというものは、手の不自由な者には留めることが困難なボタンというものが幾つもついている。
それをしっかり留めた状態で、氷河は、瞬にその言葉を告げたのだった。

「あ……」
朝の身支度を終えている氷河の姿を認めた時点で、瞬は既に悪い予感を覚えていたようだった。
予感通りの言葉を聞いた瞬が――聞かされた瞬が――ひどく動揺した様子を見せる。
自分の快楽の源を失うことには耐えられないというような目をして――そんなことを言い出した氷河を恨めしく思っているような目をして――元怪我人を見詰める瞬に、氷河は罪悪感のようなものを感じてしまったのである。
それは、どう考えても、感じる必要のない罪悪感だったのだが。
その罪悪感を振り払うようにして、氷河は瞬のために微笑を作った。

「まあ、元に戻ってよかった。指がないなんて、まるで足を洗ったヤクザだからな。そんなことで おまえに気味悪がられでもしたら、俺としても切ない」
「もし氷河の指が元に戻らなかったとしても、僕はそんなふうに思ったりしないよっ!」
そんな戯れ言に本気で立腹しているような瞬の剣幕に、氷河はひどく驚くことになったのである。
もし仲間の指が欠損したまま元に戻らなかったとしても、瞬は仲間を気味悪がったりはしない。
そんなことは氷河にも わかっていた。
氷河がわかっていることを、瞬もわかっているはずだった。
当然 瞬は、そんな強い口調で仲間の言を否定する必要はない。
それは、正しく戯れ言だったのだ。
だというのに、瞬は何をそんなに向きになってみせるのか――なぜ そんなに向きにならなければならないのか。
瞬の剣幕の訳が、氷河には皆目わからなかった。

「冗談だ。そんなに向きになるな。こんなドジを踏んでしまって、俺もきまりが悪いんだ。冗談でも言っていないことにはいたたまれない。命にかかわるような負傷だったら、まだ格好もついたのに、たった指2本とは」
「氷河っ!」
すべてを冗談にしてしまいたい氷河の意図を、瞬はみとってくれない。
今にも泣き出しそうな顔をして仲間の名を呼ぶ瞬の前で、氷河は急いで真顔を作らなければならない状況に追い込まれてしまったのである。

怪我人の世話から解放されることを、つまり、怪我人が全快したことを、なぜ瞬は喜ばないのか――喜んでくれないのか。
瞬の不可解な反応に、氷河はどうにも合点がいかなかった。
もしかしたら瞬は白鳥座の聖闘士に並々ならぬ好意を抱いていて、白鳥座の聖闘士の世話をすることに ある種の喜びを感じていたのだろうか――?
そんなことを、一瞬間だけ氷河は考えた。
そうではないことは、氷河には(悲しいことに)すぐにわかってしまったのだが。

瞬は、“好意”をそういう方向に向け 表現するようなタイプの人間ではない。
もし瞬が白鳥座の聖闘士に ひとかたならぬ好意を抱いているのだとしたら、瞬の好意は、白鳥座の聖闘士の怪我の全快を喜ぶ方向に発露されるはずだった。
『おまえの手助けがなくても、もう大丈夫だろう』と言われたなら、瞬はまず仲間の全快を喜ぶはず。
少なくとも、全快を果たした仲間に 悲しげな顔を見せたり、戯れ言を戯れ言と理解できない鈍さを見せたりすることはしないはずだった。
瞬に不可解な行動をとらせているのは、どう考えても、“好意”ではなく、“好意”以外の何かである。
氷河は、そう思わないわけにはいかなかった。

「悪い。悪かった。俺はただ、俺自身は至極元気でいると言いたかっただけで――瞬、おまえどうかしたのか? 変だぞ」
そう言われて、瞬は、自分がひどく感情的になっていることに初めて気付いたらしい。
はっと我にかえったような目をして、氷河と自分の周囲を見まわし、それから瞬は心配顔の氷河に小さな声で詫びてきた。
「ご……ごめんなさい」
「いや、おまえがそれだけ俺の身を案じてくれているということだから、俺はその……なんだ。嬉しいことは嬉しいんだが」
氷河が困惑を隠しながら そう言っていることは、瞬にもわかったらしい。
瞬は、ひどく落ち込んだように俯いた。

『嬉しいことは嬉しい』という氷河の言葉は嘘ではなかった。
ゆえに、瞬に そんな沈んだ顔をさせることは、氷河には不本意なことだった。
だが、あいにく、こんなふうにしおれてしまった瞬を少しでも力づける方法を、今の氷河はただ一つしか知らなかったのである。
それはつまり、瞬が求めているものを与えてやること――瞬がしたがっていることを、瞬にさせてやること。
要するに、瞬に白鳥座の聖闘士の“世話”をさせてやること――だったのである。

「そうだ、瞬。俺の指はもうほとんど大丈夫なんだが――手紙の代筆を頼まれてくれないか」
「手紙の……代筆?」
俯かせていた顔を、瞬がゆっくりと上向かせる。
その視線を捉え、氷河は意識して軽く明るい声と表情を作り、心許なげな目をした瞬に頷き返した。
「おまえ、ロシア語は大丈夫だな?」
「簡単なものなら。ロシア……コホーテク村の誰か宛て?」

「ああ。俺が指を切り落とされた時、沙織さんに連絡してくれたのはヤコフなんだ。沙織さんに持たせられた携帯電話はあったが、あの時は、その携帯電話を扱う肝心の俺の指が使いものにならない状態だったからな。コホーテク村には今でも無線通信波どころか、有線の電話線すら通っていない。固定電話も通常の携帯電話も使えないし、当然パソコンの無線LANも圏外になる。で、沙織さんに頼んで、あそこでも使える携帯電話を用意してもらって、ヤコフに贈ることにしたんだ。それにつけるカードを書いてくれないか。指が万全の状態でも、俺の悪筆は礼状には向いていない」

説明しがてら、氷河は、ドアの脇に立っていた瞬をライティングデスクの前に、完治の成った右の手で差し招いた。
デスクの上には、『そういう時には、お礼状をつけるのが礼儀というものよ。どんなに小さな子供が相手でもね』と主張する沙織に押しつけられた官製ハガキ大のカードが置かれている。
書き損じても大丈夫なようにと、沙織に 金の箔押しつきのカードを数枚 手渡された時には、礼儀礼節を重んじる女神の用意周到さに少々うんざりし、『使ってくれ』以外に どんな言葉が書けるのかと悩みもしたのだが、何がいつどんなところで役に立つかわからないものである。
氷河は、今は、沙織の礼節を重んじる態度と用意周到さに大いに感謝していた。
要するに氷河は、瞬をデスクの椅子に座らせながら、カードに綴る言葉を考えているうちに、これが絶好のチャンスだということに気付いたのである。
それは、文字通り(女)神に与えられた千載一遇のチャンスだった。

瞬にペンを渡し、氷河はカードに記す文章を瞬に告げた。
緊張のために、僅かに上擦った声で。
「その節は世話になった。驚かせて悪かったな。俺の指は元に戻った。まだ多少の不自由はあるが、そういう時には――」
瞬が書きやすいように、氷河は、短い文をゆっくりと口にした。
瞬の細い指が、氷河が書くものより はるかに綺麗で読みやすい文字をカードに綴っていく。
その作業を氷河の“世話”の一環と思っているらしい瞬は、おそらくカードの送り主(ということになっている)氷河より はるかに心をこめて一文字一文字を丁寧に記しているようだった。

「そういう時には――?」
「そういう時には――」
そこまで告げて、だが、氷河は言葉を途切らせることになったのである。
次に書く言葉がなかなか与えられないことを怪訝に思ったらしい瞬が、小首をかしげて氷河の顔を見上げてくる。
氷河は、一度ごくりと息を呑んだ。

瞬に“世話”を続けてもらうには無理があるほど、指はもう治ってしまっている。
今この時を逃すと、指を切断される前の日常が戻ってくる。
今しかないのだと自身に言いきかせ、深呼吸をひとつして、氷河は続く言葉を瞬に告げた。
「そういう時には、俺の大好きな瞬が手助けをしてくれるから、何とかなっている」
「……」
氷河の次の言葉を待っていたはずの瞬が、待っていた言葉を紙面に写すこともせず、ぴたりと その手を止める。
そのまま瞬は、ペンを持つ手だけではなく、自身のすべてを凍りつかせてしまった。
そういうふうに、氷河には見えた。
瞬の肩、瞬の表情、瞬の声、瞬の唇、もしかしたら、心臓までもが、その動きを止めてしまったように、氷河には見えたのである。






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