15時開始ということは、それが就業時間内に行なわれる講座である――ということである。
つまり、その講座の出席者たちは、業務の一環として総帥に出席を命じられた者たち――ということになる。
翌日PM 3:00、総帥命令で 講座の進行・監督を任されたらしい人事部長が建前上の講座開催目的を簡単に説明し、講師である瞬を出席者たちに紹介するのを、瞬の仲間たちはグラード財団本部ビル30階大会議室30Aの後方壁際で、溜め息と共に眺めていた(約一名、“眺める”ではなく睨んでいる男がいたが)。

「はじめまして。ただ今 ご紹介に預かりました城戸と申します」
全く気は進まないが、本音を態度に出すわけにはいかないと思ったのだろう。
ほとんど開き直ったらしい瞬が会議室に集まった30人の独身男たちに型通りの挨拶をすると、広い会議室は、30人の独身男たちの作る低く大きいどよめきで満ちることになった。
仲間の婚活講座を“見学”していた青銅聖闘士たちは、そのどよめきに一瞬遅れて、更に疲労感の増した溜め息を洩らしたのである。

100平米ほどの会議室には、二人掛けの長テーブルが20ほど。
席に着いているのは、ほとんどが黒か濃紺の背広を着た中年男たち(しかも、全員独身)。
対して、今は何も映されていないプロジェクター用スクリーンを背にして立つ講師は、どう見ても10代の、しかも とびきりの美少女。
いったい これからここで何が起こるのかと疑った彼等によって どよめきが生じるのは無理からぬことだったろう。

「総帥に依頼されてまいりました。皆さんには、皆さん自身と皆さんの親しい方々を守れるように、護身術の基礎を習得していただくことになります。昨今の世の中はいろいろと物騒ですし、皆さんが社外で突然 暴漢に襲われるようなことがないとも限りません。皆さんは、こちらの財団で、特に将来を嘱望されている優秀な方々だと伺いました。いざという時に我が身を自分で守ることができるように護身術の基礎をマスターすることは、皆さん自身のためにもなりますが、財団の人材保護にもつながること。皆さんには、身体を鍛えつつ、スマートな身のこなしができるようになっていただき、それによって一人の男性としての自信をも養っていただきたいと思っています。それが本講座の目的です。きっと女性にも好感を持たれるようになりますよ」

おそらくは沙織にそう言えと指示された口上なのだろう。
瞬は、沙織に与えられた口上を つかえることなく言ってのけたが、はたして出席している男たちの幾人が、それを真面目に聞いていたのかは非常に怪しいものだと、瞬の仲間たちは思っていた。
彼等の目と意識は、ファッション誌や映画館のスクリーンでも滅多にお目にかかれない絶世の美少女に釘づけになっており、ただただ呆然としているように、星矢たちには見えていたのである。

瞬の口上が終わると、それが合図だったのか、プロジェクターが護身術の基本の型をスクリーンに映し出した。
どこぞのシークレットサービス社が採用している教材らしく、資料内映像で基本の型をとっているのは黒いスーツを着た男たち。
教材や資料も沙織が用意したもので、瞬は初見のようだったが、さすがにバトルを生業にしているだけあって、それらの資料を即興で説明する瞬の口調に淀みはなかった。

「加えられた力を逃がすのが基本です。降りかかってきた力をまともに自分で受けとめてはいけません。そして、暴漢の拳や携帯している武器から、何はさておいてもガードすべき身体の部位を心得ておいてください。顔は、優先的に守る部位ではありません。暴漢が武器を携帯している時には、心臓と首をガードすること。万一 揉み合いになった時には、頭部――脳に大きな衝撃を受けることのないよう、注意を払ってください。もっとも、プロのスナイパーでもない限り、脳を狙ってくる暴漢は滅多にいませんけども」

護身の基礎理論は、わざわざ人に教えてもらわなくても、人体の仕組みを理解している人間になら既知のことがほとんどである。
大事なのは、その時 具体的にどう動くべきなのかを身体に叩き込んでおくことだろう――と、氷河が講座開催の無意味に 胸中で毒づいた時だった。
まるで氷河の思考の流れを見透かしてでもいるかのように、会議室のスクリーンに『実演』の文字が映し出されたのは。

瞬は、この講座の進行予定を全く聞いていなかったらしく、スクリーンに映し出された文字に一瞬ぎょっとしたようだった。
が、そこもそつなく笑顔でやりすごし、瞬がゆっくりと講座出席者たちの上に視線を巡らせる。
「え……と、では、ここで、簡単に暴漢に襲われた際、暴漢を取り押さえる実技を行なってみたいと思います。皆さんのどなたかに暴漢役をお願いしたいのですが……」
瞬のその言葉を聞くと、いい歳をした独身男たちは、またしても低く大きなどよめきを会議室内に響かせることになった。

ここにいる男たちには、絶世の美少女を襲う役など、この先100年生きて待ち続けても巡ってこない主役級の大役のはずである。
にもかかわらず、彼等は誰ひとり、瞬の“お願い”に応えようとはしなかった。
財団の幹部候補というのなら、彼等は、少なくとも業務上・オフィス内では消極的な人間ではないはずである。
そんな彼等の遠慮あるいは尻込みの訳が、氷河にはどうにも得心できなかった。

「その役は俺がやる」
ともかく、そんな魅惑的な役を他の男に――地上の平和に仇なす“敵”以外の男に――取られるわけにはいかない。
どよめいているしか能のない男たちが 本来の図々しさを発揮して 暴漢役に名乗りをあげることだけは、氷河は阻止しなければならなかった。
「おい、氷河!」
それでは実習の意味がないだろうと引き止める星矢の手を振り払って、氷河が瞬の立つ壇上にあがっていく。
オブザーバーという自分の立場を完全に忘れている氷河の据わりきった目に、星矢は“もはや処置なし”の顔を作ることになった。

が、瞬は、氷河の登板に かえって安心したらしい。
へたに受け身のできない素人を相手にしての実演より、はるかに綺麗な型を受講者たちに見せることができると、瞬は考えたのかもしれなかった。
「あ、では、希望する方がいらっしゃらないようなので、暴漢役は僕の友人に演じてもらうことにしますね」
30人の独身男たちに そう言ってから、瞬は、瞬の“友人”の方に向き直った。

「じゃあ、氷河。まず正面から擦れ違いざまに襲うパターンから始めてくれる? おてやわらかにね」
瞬がにっこり笑って、氷河に彼のなすべきことを指示してくる。
いつもなら くらくらと目眩いを覚えさえする瞬の その微笑が、今日の氷河には苛立ちの種でしかなかった。
もしかしたら、ここにいる売れ残り男の誰かに、この微笑が向けられていたのかもしれないと思うと、氷河は 心中穏やかではいられなかったのである。
瞬の人懐こい笑顔に苛立つなという方が、今の氷河には無理な話だった。

そのせいもあって、氷河が演じる暴漢は、瞬に対して かなり乱暴な襲撃(?)を加えることになったのである。
もちろん、瞬は、暴漢の攻撃を華麗に逃れ、氷河の身体に体落としの技をかける態勢に持ち込んでみせた。
間抜けな暴漢役に徹することのできなかった氷河が、30人の独身男たちの前で、瞬に投げ倒されてしまうことを潔しとせず、身体を地に落とされる前に足で地を踏んで宙返りをし、元の位置に戻る。それは、暴漢の襲撃を阻止する際の模範例としては、あまり適切なものではなかっただろう。
素直に投げ倒されてくれない暴漢に、瞬は苦笑することになったのである。
「彼は暴漢のプロなので、こんなふうですが、普通の暴漢なら、これで地面に倒れます。そうしたら、暴漢の腕を背中の方に捻じ曲げて、全体重をかけて暴漢の肩を地面に押しつけてください」

それは、到底 模範例とは言えない実演だったのだが、二人の一連の攻防を見せられた独身男たちの作るどよめきは、その時初めて 困惑のそれから感嘆のそれに変わったのである。
「あんな可愛い顔をしてるのに……!」
「馬鹿。それを言うなら、あんなに細い腕をしてるのに、だろ」
彼等は模範例とは言い難い実演を目の当たりにしたことで、自分たちが参加している会合が どうやらかなり本格的な護身術講座だと認識することになったらしい。
講座出席の目的を得心しきれず、出席させられて・・・・・いる感が強かった彼等の顔つきは、それで一変することになったのである。

その後の講座進行は、いたって順調だった。
俄然真剣な顔になったエリートたちの前で、背後から羽交い絞めされた場合の逃れ方、暴漢が刃物を持っていた場合の撃退法等を一通り実演し終えたところで、名目上は護身術講座である婚活講座は、無事に(?)17時の終了時刻を迎えることになったのである。
「これで護身術の基本はほぼ説明できたと思います。長い時間お付き合いいただき、どうもありがとうございました。今日の講座のカリキュラムはこれで終了となりますが、ご質問があったら個別に受け付けますので、ご遠慮なく」

瞬が肩の荷を下ろしたような表情で講義終了の宣言をした時、氷河はむしろ、瞬とは逆に、心身を一層 緊張させることになったのである。
氷河がここにやってきた真の目的は、決して瞬の護身術講座の見学などではなかった。
一見したところでは大人しく控えめで 人に逆らうことのできない印象の強い瞬に、『電話番号を教えてくれ』とか、『個別指導を受けるにはどうすればいいのか』とか言って群がってくる(はずの)男たちの撃退。
それこそが、グラード財団本部ビル30階の大会議室30Aにまで白鳥座の聖闘士が足を運んできた真の目的だったのである。

だったのであるが――。
グラード財団の幹部候補であるらしい30人の独身男たちは、瞬の講義が終わると、実に礼儀正しく『ありがとうございました』と講師への礼を口にしただけだった。
皆、稀に見る美少女に大いに関心はあるようなのだが――それは彼等の態度や表情からも明白なことだったのだが――それでも彼等の中には、個人的に瞬に近付こうとする男は ただの一人もいなかったのである。
講座終了後にこそ本日のメインバトルが始まるのだと身構えていた氷河は、30人の独身男たちの礼儀正しさに、すっかり拍子抜けしてしまったのだった。






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