気弱で非力で大人しい瞬の、その強さ。 氷河は、むざむざ瞬を死なせてしまわないために、瞬のその子供らしくない“強さ”を利用することを思いついたのである。 二人の別れの時は すぐそこに迫っている。 思いつきを実行に移すのを ためらっている時間は、氷河には残されていなかった。 彼は、その思いつきを思いつくと即座に、彼の母の形見の品を首から外し、瞬の前に差し出した。 それまで 兄に不運を運んでしまったことへの責任を感じて沈んでいるばかりだった瞬の瞳が、突然 目の前に差し出されたものの形を捉えて、驚いたように見開かれる。 青い石が嵌め込まれた金の十字架。 それが氷河にとって どれほど大切なものであるのかを、瞬は知っているはずだった。 持ち主が実際に感じているより はるかに大切なものとさえ、瞬なら考えているかもしれない――そう思いながら、氷河はそれを瞬の手に押しつけた。 「これは、俺のマーマの形見だ。おまえにやる」 「氷河……?」 氷河が彼の大切なものを、もしかしたら二度と会うことが叶わないかもしれない仲間に『やる』理由が、瞬にはわからなかったのだろう。 小さな手に押しつけられた それを、瞬は一向に自分のものとして強く握りしめようとしなかった。 自分の手の平の上にある それを見詰め、それから幾度か戸惑ったように瞬きを繰り返す。 そんな様子さえ心細げな瞬に、氷河は、決定事項を伝える口調で告げたのだった。 「俺も一輝も他の誰も おまえの側にいてやれなくなるから――みんなの代わりだ。これが みんなの代わりに おまえを守ってくれる」 「僕を……? でも、これは氷河の――」 「おまえが生きて帰ってきてくれなかったら、俺はマーマの形見をなくすことになる。そんなことにしないでくれ。きっと生きて帰ってきてくれ。生きて帰ってきて、そして、それを俺に返してくれ」 「氷河……でも、僕は……」 『僕はきっと生きて帰ってはこれない』 瞬の唇がそう言うために動くことを、氷河は許さなかった。 「生きて帰ってくるんだ……!」 強い口調で命じられ、悲しく開きかけていた瞬の唇が僅かに震える。 人に強く命じられれば逆らうことのできない瞬は、それで不吉な未来を語ることができなくなったようだった。 それを瞬に受け取らせてしまえば、氷河の計画は半ば以上 成ったようなものだった。 仲間の大切なものを託され、再会時の返却を求められた瞬は、それを仲間に返さなければならないという責任感から、“生きて帰らないこと”ができなくなる。 責任感が強く、人との約束を破れない瞬は、生きて帰るしかなくなる。 少なくとも、簡単に自分の生を諦めることはできなくなるはずだった。 それは、仲間に失望をもたらし悲しませる行為――瞬が最も厭い恐れる行為だったから。 瞬は、自分が仲間に何を託されたのかを、賢明にも すぐに理解したらしい。 託されたものの大きさと重さに恐れおののいているような目をして――それでも瞬は、自分に託された“大切なもの”をしっかりと両手で握りしめた。 体温が移るほどの時間 それを握りしめてから、瞬は、氷河の母の形見を自分の首にかけ、代わりに その細い首から、氷河の“大切なもの”とは違う鎖を外すことをした。 「あの……あのね。じゃあ、僕も、これ氷河にあげる」 「ん……?」 母の形見のロザリオに代わって 二人の間に姿を現わしたペンダントに、氷河は僅かに首をかしげたのである。 瞬が そんなものを身につけていることを、氷河は これまで知らなかった――気付いていなかった――のだ。 それは、ペンダント――つまりは装飾品――というには、少々 妙な形をしていた。 金色の五芒星。 星の中央部には羽状複葉が対になった意匠があり、その下部には文字が刻まれている。 星を囲むリングがなければ、それは、ペンダントヘッドというよりは、むしろ記念盾か記念メダルに向いた形状をしていた。 しかも、刻まれている文字は『 Yours ever 』――永遠にあなたのもの。 ペンダントよりは、むしろエンゲージリングの内側に刻まれるのにふさわしい文言である。 「これは……?」 「僕の母さんの形見なんだって。これも」 「……」 記されている文字が『 Yours ever 』で、母の形見というのなら、それは十中八九、瞬の父の形見でもあるだろう。 一瞬間だけ、氷河は それを受け取るのを躊躇したのである。 とはいえ、氷河が瞬からそれを受け取るのをためらったのは、瞬から母の形見を奪うわけにはいかないと考えたせいではなかった。 瞬は、自分に課せられた責任を少しでも軽くするための担保として、それを仲間に与えようとしているのではないかと、氷河は疑ったのである。 すぐに、氷河は、瞬の責任感は そんないい加減なものではないと思い直したのではあるが。 瞬は既に 守らなければならない約束を、仲間から受け取ったのだ。 それは、他の何かで相殺されるような約束ではない――少なくとも、瞬にとって“約束”というものは そんな軽いものではないはずだった。 だから、氷河は、瞬から、瞬の母の形見だという それを受け取ったのである。 おそらく、瞬が氷河のロザリオを受け取った時より はるかに軽い気持ちで、氷河はそれを受け取った。 「俺が永遠におまえのものなのか、おまえが永遠に俺のものなのかは、再会した時にじっくり話し合おう。忘れるな。きっと 必ず、俺たちは もう一度会うんだ。約束だぞ」 瞬が絶望したようにではなく、困ったように、金髪の仲間の顔を見上げ、見詰める。 氷河が、“約束”で瞬の命を 地上に引きとめようとしていることを、もしかしたら瞬は察しているのかもしれなかった。 だが、それならそれでいいと、氷河は思ったのである。 仲間の魂胆がわかるのなら、瞬は、それほどに自分の生還を望んでいる人間がいることも理解してくれているはず。 そんな人を失望させるわけにはいかないと、瞬は考えるはずだったから。 約束は交わされたのだ。 瞬は、仲間の“大切なもの”を仲間に返すために、何よりもまず 自分が生き延びることを考えるようになるだろう。 氷河は、今はそれだけで満足だった。 というより、それで満足するしかなかった。 別の方法で瞬の命を守るには、彼は今はまだ あまりにも幼く非力な子供でありすぎたから。 「氷河のロザリオ、大切に守るね」 瞬にそう言わせることができただけでも、今の氷河には上出来の部類だったのだ。 「ああ。大切にしてくれ。俺もおまえから預かったものを大切にする」 そう言って 瞬に頷きかけた時――氷河は、自分の手の中にある五芒星のペンダントに、何か妙な力を感じることになったのである。 まるでペンダントが意思を持っていて、そして、瞬から離れるのを嫌がっているような。 自分こそが本当は瞬と離れ難く思っているから そんな気がするだけなのだろうと、氷河は自分の感じた力に理由をつけ、自身を納得させたのだが。 (マーマ。俺の瞬を守ってくれ) 言葉にはせず、今は瞬の胸元にある母の形見に、氷河は祈りをこめた。 |