全く現実的でなく、馬鹿げた話である。
そもそもファンタジーや神話は、氷河の管轄外だった。
この澄んだ瞳は夢見る狂人の持ち物なのか――と、氷河は大いに落胆することになったのである。
澄んだ瞳というものは、聡明で理性的な人間のものであって初めて 価値を持つ。
無知白知狂人の類の人間の瞳が澄んでいても、その清澄にはどんな価値も意味もないのだ。
すっかり落胆してしまった氷河に、だが、その非天使は、理性と知性を備えた人間の口調で、彼がこの部屋に出現することになった経緯を、理路整然と(?)説明し始めたのである。
天使か悪魔でなければ知り得ないような事実を交えて。

「氷河……は、8歳の時に、船の事故でお母様を亡くしていますね。あの時、本当は、氷河のお母様は死なないはずだったんです」
「なに?」
「あの時 死ぬのは、本当は、氷河のお母様でなく、氷河の方だった。氷河と氷河のお母様は、船から冷たい北の海に投げ出され、かろうじて お母様だけが救われる――というのが、お二人の本来の運命だったんです」
「なら、なぜ」
「あなたを死なせたくなかった お母様が、自分の命を差し出して、冥府の王に頼んだんです。あなたを死なせないでくれと。冥府の王は、その願いを聞き入れました。王は、美しい人、美しい魂、美しい行為が大好きで、氷河のお母様とお母様の行為は、王の意に沿うものでしたから」
「……」

ファンタジーや神話は管轄外。
にもかかわらず、氷河は、非天使のその言葉を ごく自然に認め、受け入れていた。
受け入れずにはいられなかったのである。
それは、彼が唯一 心から愛していると言っても過言ではない人の、深い愛と美しさを物語る言葉だったから。
氷河の記憶の通りに――記憶以上に、母は自分を愛してくれていた――。
生き永らえることのできたはずの命を投げ出すほどに。

その事実を知らされた氷河は、だから、むしろ尋常でなく幸福な気持ちで、
「つまり、俺は本当は8歳の時に死んでいたはずで、冥府の王とやらに母が差し出した寿命の期限が1ヶ月後に迫ってきた――というわけか」
と、白百合の花に尋ねたのである。
それならそれで一向に構わないと、氷河は思った。
死者の国で、もし母との再会が叶うのであれば、それは喜ばしいことだとも思った。
しかし、非天使の答えは、そんな氷河の期待を裏切るものだったのである。

「いいえ」
「いいえ?」
芸もなく鸚鵡返しをした氷河の前で、非天使は、申し訳なさそうに頭を垂れた。
「ごめんなさい。そうではないんです。あなたが あなたのお母様に与えられた命の時間は、本当はまだ30年以上あるんです。でも……」
「でも?」
こうなると、芸のなさなど気にしていられない。
氷河は、母の約束がたがえられることになった事情を1秒でも早く知りたくて、短い反問で 非天使の言葉の続きを促した。

「僕は医者でも死神でも天使でもなく、冥府の王のしもべです。冥府の王は、綺麗なものが大好きで、醜いものが大嫌い。王は、これまで彼なりに懸命に耐えてきたのだと言っていましたが、その堪忍袋の緒が切れたとかで――人間を醜悪なものと決めつけ、地上の人間すべてを滅ぼすことにしたんです。でも、あなたは、あなたのお母様との約束があるから、他の人間たちと一緒に命を奪うわけにはいかない。それで、僕が、あなたを説得するように命じられ、ここに送り込まれたということなんです」
「説得――とは、俺に、粛清される他の人間共と一緒に大人しく死ぬよう説得するということか?」
「はい……」

それが勝手な言い草であるということは わかっているらしい。
言葉を募らせるにつれ、非天使の声からは徐々に力が失われていった。
「冥府の王――神の約束は絶対です。特に、人間と交わした契約を反故にすることは、人間に対する神の権威に傷をつけること。あなたが説得を拒めば、冥府の王といえども、あなたを殺すことはできません。ですが、あなたが神と新たな契約を結び、自身の死を受け入れることを承諾すれば、話は別。僕は、冥府の王に、あなたが死を受け入れてもいいと思うように説得してこいと命じられたんです」
「どうやって」
人間は、基本的に生を望むものである。
生きていたいからというより、死を恐れるがゆえに。
いったい冥府の王は、そんな人間にどうやって 死を従容と受け入れさせるつもりなのか。
死への恐れからではなく、純粋に興味深さで、氷河は、冥府の王の考えを知りたいと思った。

「どんな望みも叶えてやると言えと言われてきました。世界のすべてを贖うことができるほどの富、すべての人間を意のままにできるほどの権力、世に二人といない絶世の美女――世界の王になりたいと望まれたら、その願いも叶えるようにと――」
「世界の王? 1ヶ月だけ?」
「1ヶ月だけです」
「……」

それで人間に死を受け入れさせることができると本気で考えているのなら、冥府の王とやらは相当の馬鹿者だと、本音を言えば、氷河は思った。
気の毒千万なことに、白百合の天使は、それが馬鹿な交換条件だということを承知しているらしい。
「ごめんなさい……」
非天使が あまりにすまなそうに言うので、氷河は、
「まあ、人間は誰でも いつかは死ぬものだろうが」
と言って、彼を慰めてやらなければならなかったのである。
愚かな君主を戴くことは、生者の国でも死者の国でも、実に不幸なことだと思いながら。

「……で、説得されなければ、俺はどうなるんだ」
「すべての人間が死に絶えた地上で、残された約束の時間を一人で生きることになります。約束の30年以上の時間を一人で」
「ぞっとしない話だ」
『世界の王にしてやる』などという馬鹿げた交換条件を出すより、その未来を想像させる方が、生きている人間に死を受け入れさせるための説得にはよほど効果的である。
壮絶なその未来を提示され、その上で どんな望みも叶えてやると誘いかけられたなら、説得されてしまう人間もいるかもしれないのに――と、氷河は他人事のように思った。






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