スパルタ

- I -







「このように貧弱では、この赤子はまず育つまい。育てても強い兵にはなれぬ。海に流すことだな」
部族の長老に派遣された代官に、恐れていた言葉を告げられて、それまで蝋のように白かった母親の頬は 更に冷たくなった。
親に命じられ、15になるやならずで、名も知らなかった男の許に嫁ぎ、その男との間に成した子といえど――むしろ、だからこそ――母には子が愛しかった。
まして、その子が他の赤ん坊より小さく生まれてしまったのは、産み月にはまだ1ヶ月以上あった ある日、彼女が不注意で転んでしまったせいだったのだ。
自分のせいで大切な一つの命が失われるのは、母にとって耐え難いことだった。

「そんな……この子は たまたま早く生まれてしまっただけで、本当なら もっと丈夫な身体を持って生まれてきていたはずなんです。育てば、きっと、この子の兄のように元気な子供になります」
「子供を育てるのは、そなたではない。国なのだぞ。スパルタの民の税で子供は育てられるのだ。国の役に立つ強い兵になり得る子でなければ育てる価値がない。そなたの我儘は、国に損害を与えるものだ」
母の必死の訴えも、代官の心を動かすことはできないようだった。
彼は、これまでにも、同じように必死にすがる母たちの願いを退け、虚弱な赤ん坊たちの命の火を消してきた者。
母の悲嘆に揺れ動くような心は、とうの昔に失ってしまっているのかもしれなかった。

「国からの援助には一切 頼りません。この子は、私が私の力だけで育てます」
「そなたの力だけで? できもせぬことを言うものではない。そなたが剣を持って戦場に行き、敵を倒して、死んだ敵兵の鎧や兜を奪ってくるとでもいうのか? そんなことができるわけがない。女にできることは、子を産むことと、戦場に赴く男たちの身の周りの世話をすることだけだ。それだけをしていればいい。スパルタの女は、他国の女たちと違って、子供を育てなくていい分、楽をしているんだ。我儘も大概にすることだ」
「そのようなこと、スパルタの母たちは誰も望んでいません……」

このスパルタでは、子供は7歳になると母の手から奪われ、国の運営する軍事訓練施設で他の子供たちとの共同生活に入ることになっている。
子供たちは、そこで、屈強な戦士となるための訓練を受けることが義務とされていた。
幼い身体をどんな悲惨な状況にも耐え抜くことのできる強い身体に鍛えあげ、忍耐と服従を身につけ、また、国のために喜んで死ぬ哲学を 子供たちは教え込まれる。
情が子供たちを弱くすることのないよう、彼等は母親と会うことも禁じられていた。
子は国の財産であり――強い戦士になることのできる子供のみが国の財産であり――価値ある財産になり得なかった子供は容赦なく打ち捨てられるのである。

だが、母にとっては、強くても弱くても、我が子は我が子。
子と引き離されることを喜ぶ母がどこにいるだろう。
スパルタは、母にとっては冷酷この上ない国だった。
同様に、妻にとっても、楽しい国ではなかっただろう。
スパルタの男たちは1年のほとんどを戦場で過ごし、たまに故国に帰ってきても、彼等の“家”は妻のいる私邸ではなく、共に戦う仲間たちと共同生活を営む兵舎だった。
そういう暮らしが、男たちが兵役を免除される60歳まで続くのである。

しかも、彼女は、つい先日、7歳になった息子を一人、国に奪われたばかりだった。
それまで愛情のすべてを注いで育ててきた我が子から引き離され、空虚になった心を埋めてくれるはずの二人目の子。
その子を、強い戦士になれそうもない虚弱な子供だからという理由で、代官は捨てろと言う。
それは、母には受け入れられない言葉だった。

「諦めることだ。そなたにだけ そんな我儘を許したら、これまで国のために泣く泣く我が子を捨ててきた他の母たちがどう思うか。そなたはスパルタの他の母親たちに何と申し開きをするのだ?」
「……」
同じ涙を流してきた母たちの話を持ち出され、彼女は返す言葉を失った。
生まれたばかりの我が子を奪われた母は、彼女だけではない。
このスパルタでは、年に幾十人もの母親が、我が子を育てることを禁じられ、我が子を その手から奪われているのだ。
だが、だからといって――子を奪われる痛みは、不幸な母親は自分だけではないと思うことで耐えられる痛みではない。

「いっそ、女子であったなら、育てることを許すことができていたかもしれぬが……。男子が美しくても、何にもならぬ」
生まれた子に育てる価値があるかどうかの裁定を下すのは、子の父ではなく、部族の長老――実際には、長老の代官――である。
哀れな母親は、子の生殺与奪の権を持つ者に、親子の情で訴えることもできない。
スパルタの母と子に課せられる定めは、非情かつ冷徹なものだった。

以前は、育てる価値なしと断じられた赤ん坊は、長老の手の者によって、獣の徘徊する山奥に捨てられていたのだが、我が子の死に耐えられない母親たちが危険を顧みず遺棄された子供を取り戻すために山に入って命を落とすことが頻発したため、最近は、育てる価値なしとされた虚弱な赤ん坊は粗末な木箱に入れられ、海に流されることになっていた。
そうなれば、もはや子供の命運は尽きたも同然。
無力な母は諦めるしかないのだ。

育てる価値なしと断じられたその赤ん坊は、小さな木箱に入れられ、翌日スパルタの浜から海に投じられた。
16年前のことである。






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