- II -






神が人間に捧げた この清らかな生け贄を捻じ伏せ、犯し、そのやわらかな肉を貪り尽くしたいというヒョウガの欲求は かなり強く、また切実なものでもあったのだが、結局 彼はその欲求を現実のものにすることはできなかったのである。
欲望に負け“敵国”の者と情を通じることの危険性を 理性に説かれたからではなく、昨夜シュンに襲いかかって逆にシュンに倒されてしまった兵たちが、一日経った今でも元の運動能力を取り戻せずにいることを思い出したからだった。
彼等の身体には傷の一つ、痣の一つも残っておらず、立って歩くこともできるし物を食べることもできるのだが、肺が半分になってしまったかのように呼吸が困難になっているという話だった。
少しずつ回復に向かってきてはいるのだが、元通りになるには あと数日の時間が必要――というのが、医者の見立て。
ヒョウガは、彼等と同じ運命を辿るのは、できれば避けたかったのである。

極上の獲物を目の前にして、ヒョウガが溜め息と共にシュンに告げたのは、
「しかし、おまえ、本当に身軽なんだな。見張りもいたはずなのに」
という、実に他愛のない、ほとんど世間話の域を出ない言葉だった。
「気付かれなかったみたい。昨日の失敗を教訓にして、今日は誰にも見付からずに侵入できました」
シュンが笑顔でヒョウガにそう答えることができたのは、つい数秒前までヒョウガの全身を覆っていた敵意あるいは害意のような緊張感が、その問いかけと共に綺麗に消え失せたのを感じとることができたからだった。

シュンの答えは半ば真実、半ばは嘘だったのだが――昨夜、シュンは本当はわざとスパルタ兵に捕まったのだが――シュンは、その事実には言及しなかった。
そんなことを――本当のことを――言ってしまったら、ヒョウガの部下である見張りの兵が気の毒なような気がしたのだ。
シュンの返答を聞いたヒョウガが、情けなさそうな顔になる。
「俺の部下たちは、昨夜の失態で何も学ばなかったようだ。あれで、スパルタ軍選り抜きの兵千人のうちの半分なんだからな。他の軍の兵の程度も推して知るべし。スパルタは、肉体の鍛錬より先に、ものの道理と学習能力自体を兵に学ばせる場を作る必要がありそうだ」
「ヒョウガは、それをどうやって養ったの。彼等よりずっと若いのに」

シュンは昨夜からずっと――ヒョウガがスパルタの五百人隊の隊長であることを知らされてから ずっと――それが不思議でならなかったのである。
それを学ぶ場がスパルタにないというのなら、大抵の場合、そういったことを、人は実体験から学ぶ。
しかし、ヒョウガは、そんな経験を積むには あまりに若すぎる。
無謀だけを友にしていることが許されるほど、彼はまだ若いのだ。
シュンの推察通り、ヒョウガはそれを自らの経験によって身につけたのではなかったらしい。
彼は、“経験”ではなく“人”から、それを教示してもらったらしかった。

「腕は立つんだが、争い事を愚行と断じて軍に入らず、行政官になった幼馴染みがいるんだ。奴の言い分を聞いているうちに、自然に頭に入ってきた――いや、いつのまにか毒されていたというべきか」
「毒されるだなんて……。そういう人が僕の兄さんだったらいいのに……」
「おそらく違うだろうな。口先と腕力ばかりの阿呆共に『穀潰し』『役立たず』と侮辱されるたび、そういう輩を涼しい顔をしてぶちのめしてやっている、かなり凶暴な男だから。シリュウというんだが」
「ああ」

思わぬところで、思わぬ人と思わぬ人が繋がっているものである。
その名を、シュンは、アテナとセイヤから知らされていた。
スパルタで子供が流されるたびに、その情報をアテナイに知らせてくれる人。
そういえば、その不幸な出来事が起こるたび彼と直接連絡を取り合っているセイヤも、
『滅多に切れることはないが、たまに切れると ものすごく恐い奴』と、彼を評していた。
一度アテナイの役人が、スパルタの母親は情がないと貶した際、シリュウは表情も変えずに その役人を『ぶちのめした』のだそうだった。

シリュウのしていることは、へたをするとスパルタへの裏切り行為ととられかねないことなので、彼が彼の仕事をスパルタの五百人隊長に知らせているとは思えない。
だが、全く別の方向から知った二人の“ものの道理がわかった”スパルタ人が友人同士だったといいう事実は、シュンの心を浮き立たせた。
「ヒョウガにシリュウ――スパルタにも話の通じる人がいることがわかって、希望が持てるようになりました。スパルタに来て、本当によかった。僕、本当は最初は今回の使節団の中に入ってなかったんです。アテナにお願いして、無理に入れてもらったの。たまには我儘も言ってみるものですね。あの時、我慢して黙っていたら、僕はヒョウガに会えなかった。僕は ちゃんとこうしてヒョウガに会えたのに、もしヒョウガに出会えてなかったなら――って、そんなことを想像しただけで、悲しくなってしまいます……」

「それは俺も――おまえに会えて嬉しいが……」
敵国の将と巡り会えたことを喜び、巡り会えなかったら悲しいと、切なげな目をして言い募るシュン。
そんなシュンに応じるヒョウガの声は、かすれ乾ききっていた。
灯りのある部屋で間近で見る誘惑者の姿は可憐そのもので、しかも この可憐な花は、スパルタで最高の価値を持つものとされている強さと、アテナイで最高の価値を持つものとされている美しさの両方を兼ね備えているのだ。

「確かに、戦いよりも素敵なことを楽しむなら、おまえくらい美しい相手の方が、俺も嬉しいが」
「僕なんか……。ヒョウガの方がずっと綺麗です。金髪は、スパルタでは珍しいですよね。アテナイでも時々 見掛けるけど、ヒョウガのものほど豪華な金髪は見たことがありません」
「……」
いったい この綺麗な花は、アテナの意図が正しくわかっているのだろうかと疑いたくなる。
わかっているから、敵国の将を手放しで賛美してくれているのだと思いたいのだが、それは あまり期待できないことのような気もする。
ヒョウガは、腹の底から生じてくる嘆息を禁じ得なかった。

「俺も、アテナイとの戦いには反対だ。今のスパルタが今のアテナイに勝てるわけがない。アテナイは自由で開放的な国で、他国からの人間の流入も多い。対照的にスパルタは純血を尊び 閉鎖的だ。そのせいもあって、スパルタはアテナイの10分の1の人口しかない。兵の数も、当然 人口に比例している。スパルタ軍は少数精鋭、強い兵だけで構成されている軍を自慢しているが、個々の兵がどれほど鍛えられていても、1人の兵が倒すことのできる敵の数は せいぜい5人。10人は倒せない。いや、5人倒せるかどうかも怪しいものだな。兵舎の見張りも満足にできない兵たちでは。この兵舎にいる兵たちは、あれでもスパルタでは選りすぐりの優秀な兵ということになっているんだ。信じられるか?」
「全く信じられません」
可愛い顔をして きついことを言ってくれるシュンに、ヒョウガは苦笑した。
この花は、摘み取って その姿を愛撫し愛でるのもいいが、野に置いたまま語らい合っているのも楽しい――と、ヒョウガは思った。

「アテナイにはスパルタを攻める意思はない。どうしてもアテナイを この地上から消し去りたいというのなら、スパルタはアテナイに攻め入るしかない。それも海路を採るしかない。兵と武器を運ぶ船の建造、兵站方法の確立――出兵するだけで、スパルタの民がどれほどの負担を負わされることになるか……。ペルシャやマケドニア並みの大国ならともかく、スパルタは小国、ギリシャの1ポリスにすぎない。その中でも、スパルタは国の体制が特殊で閉鎖的、人口が増えないようにできている。子供が生まれても、その倍の数の兵が戦死する。国は縮小の一途を辿っているんだ。そんな小国が国力のほとんどを投入して戦を起こし、その戦に負ければ、スパルタなど、1年の時をおかずに国そのものが消滅することになるだろう」

「なのに、なぜ、スパルタはアテナイを攻め滅ぼしたいと思うの」
「アテナイとスパルタ――二つの国が あまりに対照的すぎるからだろう」
自由と文化芸術の国、アテナイ。
規律と軍事の国、スパルタ。
対照的ではあるが、決して並立し得ない二国ではない――と、ヒョウガは思っていた。
問題は、その国に住む者が、感情や自尊心を持つ人間であるということなのだ。

「スパルタには、他国に誇れるものが 兵と軍の強さしかない。そして、強さというものは戦わなければ、その価値と意味を他者に知らしめることができないものだ。強力な軍隊を持たないアテナイはどんどん国力を増していく。唯一 他国に誇れる兵の強さを否定されては、スパルタには存在する意味がない」
「国が生き残るためには文化を育てるのがいちばんだと思いますけど。スパルタの人たちは、強さばかりを求められることに不満を持たないの」
「女たちはかなり不満を溜め込んでいるだろうな。だが、スパルタにもいい点があるんだ。女たちは虐げられているが、男たちは、ある意味で平等だ。力さえあれば、貧しい家の男も高い地位に就き、貴族にさえなれる。アテナイでは、それは叶わないことだろう?」
「はい」
「おまえのような貴族にはわからないかもしれないが、貧しい国に生まれた力と才能を持つ男には、実力主義というものは、実に有難い制度なんだ」
「僕は貴族じゃありません」
「なに?」

思いがけない一言に、それまで意識して さりげなくシュンの目を見詰めてしまわないようにしていたヒョウガは、我知らず視線をシュンの上に戻し、正面からシュンの顔を見ることになってしまった。
そして、視線を逸らすことができなくなる。
「そう……なのか?」
「僕は捨て子だったんです。アテナに拾われ、育てられました」
「そうか……」

視線を逸らすことができない。
心と身体がシュンの方に引きつけられる。
ヒョウガはいつのまにか、悲しげに瞼を伏せたシュンの頬に、その手で触れてしまっていた。
「おまえのように美しい子供を捨てるなんて、両親には よほどの事情があったんだろう」
「ええ。とても悲しい事情が」
シュンが僅かに首を傾け、ヒョウガの手にシュンの頬が推しつけられる。
触れ合いの僅かな変化にヒョウガの心臓が跳ね上がり、ヒョウガは慌ててシュンの頬に触れていた手を自分の方に引き戻した。






【next】