『僕は、ヒョウガへの好意に 判断力を狂わされているかもしれません』と前置きしてから、シュンが知らせたヒョウガの要望を、アテナは、ただの一瞬も迷った様子を見せずに快諾した。
それどころか、できるだけ早く会いたいというアテナの希望を容れて、アテナとスパルタの五百人隊長の会談が実現したのは、それから2日後の夕刻。
さすがにアテナが宿舎を抜け出ることはできなかったため、ヒョウガが彼女の許を訪ねることになった。


「ようこそ。お会いできて嬉しいわ。シュンの綺麗な隊長さん」
あでやかな笑顔でスパルタの五百人隊長を迎えたアテナの背後に、自分以外にもう一人のスパルタ人の姿があるのを認め、ヒョウガは目をみはったのである。
それは、彼がよく見知った顔。
民会においては、意見の対立する二人の五百人隊長の調停者。“毒する”形で、ヒョウガに ものの道理を教えてくれた彼の幼馴染みのシリュウだった。

「なぜ、貴様がここにいる」
当然、ヒョウガは、“敵国”の最高権力者の後ろに まるで彼女の侍従か何かのような顔をして控えている幼馴染みを問い質すことになったのである。
シリュウは決して その答えを彼の幼馴染みに知らせることを避けようとしたわけではなかったようだったが、アテナが二人の間に割り込むことで、二人のスパルタ人の会話は断ち切られた。
「それで、シュンは首尾よく あなたを――いえ、あなたは首尾よく シュンをあなたのものにしてくれたの」
「もちろん。シュンはもう俺だけのものだ」
「まあ、スパルタの隊長さんは、さすがに行動が迅速だこと。やはり、スパルタは侮れないわね」

アテナに そう言われて、ヒョウガは はっと我にかえったのである。
そうして、思いがけない人物がここにいることに気をとられた隙を衝かれて、自分が 言わなくてもいいこと――それは、言ってはならぬことでもなかったろうが――白状させられてしまったことに気付く。
自分に忠誠を誓っている家臣を“敵国”の将に汚されたことに立腹した様子もなく、彼女は にこにこ笑っていた。
全く屈託のない その笑顔に、ヒョウガは一瞬 気恥ずかしさと きまりの悪さを覚えたのである。
何とか気を取り直し、無理に険しい顔を作って、ヒョウガは、今度はアテナに、シリュウがこの場にいる理由を問い質した。

「なぜ、奴がここに――いや、なぜ この者がここにいるのです」
アテナは笑顔のままで、ヒョウガの疑問に答えてきた。
「それは私が呼んだからでしょうね。シリュウは、これまでずっと、スパルタで子が流されるたび、私に知らせてくれていたのよ。アテナイには、シリュウと彼の先代の知らせのおかげで生き延びることのできたスパルタの子供たちが千人近くいます。彼はスパルタ人千人の命の恩人と言っていいのではないかしら。彼は真にスパルタを愛する憂国の士だわ」
「……」

シリュウの行為は、決して故国を裏切る行為ではないと、アテナはスパルタの五百人隊長に言いたいらしい。
それは、真に故国を憂える気持ちから出たことであれば、ヒョウガの今日の行動もまた、故国への裏切りではないということ。
アテナは、ヒョウガが彼女に面会を求めることになった理由を、あらかた察しているようだった。
話は想定していたよりも はるかに早く済むかもしれないと、すべてを承知しているようなアテナの表情を見て、ヒョウガは思ったのである。
そんなヒョウガの横に立っていたシュンもまた、彼の幼馴染みの姿がシリュウの隣りにあることに驚いていた。

「どうして、セイヤがここにいるの」
「アテナが忘れ物を届けてくれっていうから、持ってきたんだ。アテナイからスパルタまで半日で駆けてきたんだぜ」
自身の俊足を誇ってみせてから、セイヤがその俊足並みに素早く話題の転換を図る。
「で、おまえ、こっちの金髪のにーちゃんとやっちまったのか?」
あまりに直截的な言葉で尋ねられたシュンが、質問の言葉にふさわしい言葉を見付けられなかったのか、頬を真っ赤に染めて顔を伏せる。
言葉での答えをもらわなくても、セイヤは それで、彼の幼馴染みが金髪のにーちゃんと“やっちまった”ことを理解したらしい。
恥じらう幼馴染みの前で、彼は おどけた仕草で両肩をすくめてみせた。
「俺はいいけどさー。おまえを神のごとく崇めてる詩人だの劇作家だの彫刻家だのの自称ゲージツカのにーちゃんたちが、このこと知ったら憤死するぞ」

シュンの友人らしき少年のぼやきは、ヒョウガにとっては聞き捨てならないものだった。
ぴくりと こめかみをひきつらせたヒョウガを一瞥し、アテナがセイヤの軽口をたしなめる。
「失恋もまた優れた芸術活動の重要な動機になるでしょう。セイヤ、シュンをからかうのはやめなさい。アテナイの芸術家たちの悲嘆より、スパルタ男の嫉妬の方が恐そうよ」
アテナに そう注意されて初めて、セイヤは、自分が この会談の場に余計な波風を立てかけていたことに気付いたらしい。
彼は、またしても素早く 場の話題を変えた。

「スパルタとアテナイの戦を回避するため、シュンの初恋を実らせるためって言われたら、俺もアテナの人使いの荒さに耐えるしかなくてさー」
「セイヤの愛国心と友情の強さ深さには、私も感服していてよ。で、シュンの綺麗な隊長さん。あなたが私に会うことを考えたのは、もちろん もう一人の五百人隊長を陥落させる方法を見付けたから――と思っていいのかしら?」
アテナは本当に すべてを見通しているらしい。
ヒョウガは今は妬心を忘れることにして、彼女に頷いた。

「シュンの生い立ちを聞いて……もしかしたらと」
「おそらく、我々の考えていることは全く同じだと思う」
ヒョウガからヒョウガの“考えていること”を聞く前に、シリュウが 部屋の中央にある方形の卓の脇に移動する。
卓の上には、古いパピルスの巻物が広げられていた。
「老師が残したシュンの記録を持ってきた。シュンは、我々がアテナイと共同で動くきっかけになった子供だから、記録は特に詳細だ。とはいえ、スパルタに残っているシュンに関する記録の大部分は、老師がアテナイから知らされたことを記憶しているだけで、アテナイの記録とほとんど重複しているんだが……。スパルタ側で付け加えられた情報は、シュンの父母の名と兄の名くらいのものだな。父親は12年前の戦役で戦死している。兄は存命。赤子の特徴等は、アテナイ側のものと完全に合致している。もちろん、これは ただの記録にすぎないわけだが――」

「そこで、俺の出番ってわけ。アテナイから、赤ん坊だったシュンが入れられてた木箱と、くるまれていた布、一緒に入れられていた守り石や守り刀をアテナイから運んできたんだ」
そう言って、セイヤがパピルスの巻物の横にある木箱を指し示す。
セイヤがアテナイから運んできたという木箱には、海神に我が子を捧げた父親の名が刻まれていた。
木箱に刻まれている その名を確かめたヒョウガが、複雑極まりない顔をして低い呻き声を洩らす。
「本音を言うと、俺はまだ信じられないんだが……。これだけの証拠が揃っていれば、あの男を説得することは可能だと思う」
「あの……どうして僕の出生が……」

その場にいる者たちの中で、シュンだけが事情を知らされていなかった。
この場にいる者たちは皆、ギリシャの二大強国の友好を望み、またシュンに好意を持つ者たち。
彼等が二つの国や自分にとって良くないことを企てているのだとは、シュンも思ってはいなかったろうが、ひとりだけ情況を知らされない立場に置かれることは、シュンの胸中に不安を生むことになったのだろう。
だが、ヒョウガとしても、今はまだ 確実に良い方に転ぶとは言い切れないことをシュンに知らせるわけにはいかなかったのである。
ヒョウガが説得しようとしている男は、性 狷介にして剛愎不遜な男。
彼は、へたをするとヒョウガの説得をアテナイとの共謀と勘繰って、最悪の事態を引き起こしかねない男でもあった。
そして、ヒョウガたちが今 計画していることは、良い方に転べば問題はないが、まかり間違うと、シュンの心に消えない傷を残す可能性も皆無とはいえないような計画ではあったのだ。

「おまえに贈り物をして驚かせたいから、説明はその時に――明日の民会で」
信じてはいるが、不安は消し去れない――そんな目をして恋人を見上げてくるシュンの頬に手を添えて、ヒョウガはシュンのために緊張を押し隠した微笑を作ってみせたのだった。






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