次の瞬間、会議場が蜂の巣を突ついたような大騒ぎに――ならなかったのは、イッキの提議の内容があまりにも重大な問題を含んだものだったから、だったろう。
ヒョウガの罪が明白なものだったとしても、ヒョウガはスパルタ軍の半分を掌握する将軍。
王の権威が有名無実のものとなっている今、二人の五百人隊長のうちの一人の処刑を決定するということは、スパルタが二つに割れ内乱状態になる事態を招きかねないこと。
そうならず、ヒョウガが粛々と処刑されたとしても、二人の有力者のうちの一人がスパルタから消えるということは、スパルタが一人だけ残った五百人隊長の独裁国家になる可能性を生むのだ。

シュンがその場で取り乱さずに済んだのは、告発を受けたヒョウガ当人が、全く動じた様子を見せなかったからだった。
ヒョウガは、彼の処刑を求める もう一人の五百人隊長の提議を、落ち着き払った顔で受け入れてしまったのである。
「議論する必要はない。俺がシュンを愛しているのは事実だ。それが祖国への裏切り行為だというのなら、処刑でも何でもされてやろう。だが、祖国の裏切り者として処刑される前に言っておきたいことがある」
「これまでの貴様の国への貢献に免じて、それくらいの慈悲は垂れてやろう。俺への非難でも何でも存分にわめくがいい。裏切り者に何を言われても、俺は痛くも痒くもない」

しんと静まりかえった広い会議場に、二人の五百人隊長の声だけが響く。
その命を断ち切られようとしている五百人隊長が この期に及んで いったい何を言うのかと 固唾を呑んでいる市民たちの前で、次にヒョウガが口にしたのは、極めて個人的なこと――イッキ個人に関することだった。
ヒョウガはその場にいるスパルタ市民たちに、自身の罪を弁明するでもなく、自分の死後のスパルタ独裁や内乱の可能性を訴えるでもなく、イッキ個人に、
「おまえの母親と弟を殺したのはアテナイではなくスパルタだ。おまえがアテナイを憎むのは間違っている」
と告げたのだった。

「なにっ」
その時を待ち構えていたらしいシリュウとセイヤが、演壇の脇にある資料提出用の卓の上に、昨夜 彼等がアテナの部屋で吟味した証拠物件を運んでくる。
最後に、黒い被布を取ったアテナが、二人の五百人隊長の前に登場。
いつも通りどころか、何もかもが全くいつも通りでない この事態に、スパルタの者たちは普段の血の気の多さも忘れ、ただただ沈黙を守り、次に起こることを待っているありさまだった。

「と言っても、おまえの弟は死んではいない。おまえの弟はアテナイに拾われ、アテナイ人に育てられた。もちろん、今も生きている。アテナイ側の記録とスパルタ側の記録は すべて合致している。アテナがお持ちくださった、赤子の入れられていた木箱、赤子をくるんでいた布、守り石に守り刀も証拠として提示しよう。おまえの弟はアテナイに殺されてはいない。むしろアテナイに守られ、育てられた」
シリュウたちが運んできた物証に、イッキはちらりと一瞥をくれただけだった。
手に取って確かめなくても、それらがヒョウガの言う通りのものであることは、彼には察しがついていたのだろう。
しかし、彼は、それで説得されてはくれなかったのである。

「シリュウが絡んでいるのなら、それらは本物なのだろう。だが、そんなものは、ただの物にすぎない。アテナイの者が拾ったか盗んだか――いずれにしても、俺の弟が生きていることの証拠にはならない。俺の弟が生きているというのなら、その証拠を――生きている弟を、俺の前に連れてこい!」
「……そう来ると思った」
こちらもイッキの出方を察していたらしいヒョウガが、あまりにも想定通りのイッキの反応に呆れたような顔になる。
怒りに目をぎらつかせているイッキの前で、ヒョウガは一度 短く吐息した。
そして、今はすべてを理解しているらしいシュンの顔を見やってから、再び もう一人の五百人隊長の方に向き直る。

「貴様の顔からは想像もできないが、貴様の母親は、生きていた頃には、俺の母とスパルタ一の美女の座を争うほど美しい女性だったそうだな。貴様は7歳までは母と共に暮らしていたはず。母の顔を憶えているか」
「自分の祖国が このスパルタであることを忘れてしまったらしい貴様と違って、俺はちゃんとした記憶力を持っている」
「それは重畳」
頷いて、ヒョウガがシュンの前に手を差しのべる。
緊張と期待と歓喜――そんなもののせいで、ほとんど その場に倒れそうになっていたシュンは、その手にすがるようにして、ヒョウガを弾劾している男の前に立つことになったのである。

「面影はあるか」
ヒョウガは何を言っているのかと言いたげな様子で、イッキが最後の証拠物件の上に視線を投じる。
途端に、彼の頬は蒼白になり、そして、彼は その場に棒立ちになった。
ヒョウガに身体を支えられたシュンが、視線はイッキにすがっていく。
「あなたが僕の兄さん……なの……」
「あ……」
もう一人の五百人隊長に問いかけるシュンの声は乾き、かすれ、だが、半ばが涙で潤んでいた。
自分の足で立っているのがやっとといった風情の細く小さな少年の瞳と声が、スパルタの男たちの中で最強であるがゆえに五百人隊長の地位を得た一人の男の動きを封じていた。

「これでもまだ、アテナイを滅ぼしたいか」
ヒョウガの声がイッキの耳に届いていたのかどうか。
イッキは もう一人の五百人隊長に何の答えも――どんな反論も――返すことができずにいた。
「アテナイとスパルタの全面戦争が何をもたらすか、それくらいのことは貴様にもわかっているだろう。貴様をそそのかしている長老が誰なのかは知らないが、肉親のことさえなかったら、貴様も何がスパルタのためになることか、冷静に判断することもできるはず」

最強のスパルタの男を再び動けるようにしたのは、肉親への情ではなく、怒りのようだった。
あるいは、肉親の情が、彼に その怒りをもたらしたのだったかもしれない。
イッキが民会の議長席に着いている長老会の長に向き直る。
そして、彼は、怒りに震える声で彼を問い質した。
「ヒョウガの言ったことは事実か」
それは、16年前、シュンを海に流すことをシュンの母に宣告した当時の長官の代官を務めていた男だった。
今は60を過ぎた長老が、かさついた唇をがくがく震わせている。

「貴様、俺に何と言った? 16年前、子を殺したくないと嘆く母に同情し、海に子を流した振りをして、内密に母の手に子を返すつもりで母と共に浜に出たと、貴様は俺に言った。そこに、運悪くアテナイの兵たちが上陸してきて、母を皆で犯したあげく、弟を一突きに突き殺してしまったのだと、貴様は言った。母は絶望して海に身を投げ、アテナイの兵たちに縛りあげられていた貴様は母も子も救うことができなかったのだと、まことしやかに言ってくれたな。アテナイの兵に刺し殺されたはずの俺の弟が、なぜ生きているんだ!」

言ってみれば、それは極めて私的な――個人的な弾劾だったのだが、それを 国家の行く末を決定する民会での発言にふさわしくないと言ってイッキを押しとどめる者は、その場に一人もいなかった。
立法行政面で最高の力を持つ長老会の長と、軍部の二大実力者。
事件の当事者たちが あまりに大物すぎたのだ。
そこに更なる大物が割って入るに及んで、国に対して無責任という責任しか負っていない数百人の民会議員たちは、もはや何を言うこともできなかったのである。
更なる大物とはもちろん、ギリシャ二大強国の一つであるアテナイの首長アテナその人だった。

「あなたのお母様は、その者に流されたシュンを救おうとして、海に入り、波に呑まれてしまったの。その様子を見ていた証人もいます。当時、その浜で暮らしていた漁師と その家族。もちろん、今も生きていて、ご要望とあらば民会での証言もしてくれるそうよ。彼等は、その母子と一緒にいた壮年の男は、気の毒なお母様を助ける素振りも見せなかったと言っていたわ。今から16年前、彼もまだ若かったでしょうに、もしかしたら彼は泳げなかったのかしらね」
「スパルタに泳げない男などいない」
低い声でそう言って、イッキが、シュンと共にアテナイに渡った母の形見でもある小刀を手に取る。
鉄製でなかった その守り刀は、16年経った今も錆びてはおらず、ささやかな輝きを帯びていた。
アテナが、そんなイッキの殺意を制する。

「では、彼はスパルタの男ではないのだわ。あなたが手を下す価値もなくてよ。彼への処罰くらいのことなら、この民会で決定できるのではなくて?」
アテナの声と言葉は穏やかなものだったが、自分に対しても他人に対しても峻厳な男には、その穏やかさこそが何よりも苛烈な糾弾だったらしい。
アテナの前で、イッキは苦渋の呻きを洩らした。

「そうだ。愚かなのは、この俺だ。こんな男の嘘も見抜けず、弟を救ってくれた国を滅ぼすことばかり考えていた。祖国の軍を、俺個人の復讐心に利用しようとしていた。祖国への二重三重の裏切り、弟を救ってくれた国への忘恩――その罪は、この俺こそが自分の命をもって償うしか――」
「それも潔いことだけど、そんなことをしたら、一途に あなたを求め続けていた健気な弟を悲しませるだけよ。それはやめてちょうだい。シュンに泣かれたら、私が困るわ」
すべてを不問に処してしまおうとするアテナの温情は、だが、イッキのような男には かえって つらい罰だったのである。
彼は、アテナの微笑に、更に深まった苦悶の呻きを返すことになった。

「しかし、それでは俺の気が済まない――弟の顔を正面から見ることもできない」
「ああ、それなら、とてもいい気の済ませ方があるわよ。シュンは――あなたの弟はね、このスパルタに来るまでは、アテナイで最も清らかで美しい少年と賞讃され、詩人は詩を幾編も捧げ、彫刻家は彫像を幾体も彫り――言ってみれば、アテナイの芸術家たちの霊感と想像力の源だったの。それを、誰かが変えてしまったのよ。あなた、これをどう思って?」
あくまでも あでやかな笑みをたたえたままのアテナが、イッキにそう尋ねてから、ちらりとヒョウガに一瞥をくれる。

ヒョウガは彼女の発言と一瞥の意図がわからなかったのだが、ヒョウガが察しかねたそれを、シュンの兄は即座に理解したらしい。
彼は初めて正面から、そして、おそらく初めて謙虚な気持ちで、彼が敵と決めつけていた国の守護女神と向き合い、神妙な顔で彼女に尋ねた。
「あなたは、あなたの国を攻め滅ぼそうとしていた俺を憎まないのか」
「シュンのお兄さんを憎むわけにはいかないわねえ」
軽い口調で答えてくるアテナの微笑を認めて、イッキはこの微笑を受け入れ、自身の罪を生きて償うことこそが、自分に科せられた罰なのだということを理解したようだった。

「感謝する」
アテナに一礼すると、その身体を起こすなり、イッキが もう一人の五百人隊長の方にその視線を巡らせる。
そして彼は、まだアテナがイッキに勧めた“とてもいい気の済ませ方”が何であるのかを理解できていなかったヒョウガを、大音声で怒鳴りつけたのだった。
「貴様の言う通り、俺がアテナイを憎むのは間違っていた。俺の敵はアテナイではなく、貴様だ。よくも俺の弟を手籠めにしてくれたな、ヒョウガ!」
「へっ !? 」

いつもと違う民会の成り行きは、これまでのところ、すべてがヒョウガの計画通りだった。
ヒョウガとシュンの忍び会いをイッキに密告した者さえシリュウの手の者で、何もかもヒョウガが事前に承知していたことだったのだ。
しかし、この展開は、そうではない。
ヒョウガの予定では、アテナの寛大な計らいに心打たれたイッキが主戦論を引っ込め、初めて二人の五百人隊長の意見が一致した民会はアテナイとの友好を決議して閉会――となるはずだったのだ。
この事態は、彼の予定にはないことだった。

「いや、あれは、合意の上のことで」
「すぐばれる嘘をつくのはやめろ。我が最愛の弟が、男との同衾などに同意したりなどするものか。俺の弟の美しさに目がくらんだ貴様が無理を強いたに決まっている」
「ま……待て、イッキ! シュン、何とか言ってくれ……!」
ヒョウガは、おそらく この予定外の展開で平生の判断力を失っていた。
彼が救いを求めた相手であるところのシュンは、長い空白の時を経て ついに巡り会うことのできた兄に『俺の弟』を連呼され、その感動のために視界がすっかり涙でぼやけてしまっていたのだ。
「俺の弟って……兄さんが僕を弟と認めてくれた……」
今のシュンの目には、彼の兄が 弟の恋人を成敗すべく殺気をみなぎらせてヒョウガの前に仁王立ちに立っている様子など全く見えていなかった。

「兄に会えて嬉しいのはわかるが……アテナ!」
今のシュンは兄と恋人の仲裁をする余裕はないと悟ったヒョウガが、次に救いを求めた相手は、ヒョウガがスパルタとの友好のために尽力した国の女神その人。
だが、彼女はイッキの弟以上に頼ってはならない仲裁者だった。
今は、スパルタの友好国となったアテナイの女神アテナは、ヒョウガの救援要請に、人を食ったような笑顔をしか返してくれなかったのである。
「まあ、イッキもこのままでは立場がないでしょうから、一発二発殴られてあげたら? それで手打ちにしましょう。めでたしめでたしの大団円よ」
「殴られるだけで済むなら、俺とて……。あなたにはイッキが剣を持っているのが見えていないのかーっ!」

スパルタの行く末を冷静に理を尽くして話し合うためにある民会の場は、それから小半時ほど、スパルタ軍を二分する有力者たちの追いかけっこの場となり果て、もともと論議より実力行使の方を好むスパルタ市民たちは、この前代未聞の見世物にやんやの喝采を送る始末。
いつもと全く様相の異なるスパルタの民会に どういう決着がつき、どんなふうに閉会の時を迎えたのか、その記録はアテナイにもスパルタにも残っていない。
今に残る二国の記録で確実にわかっていることは、スパルタ軍の要である五百人隊長が二人揃って反戦論者になったため、一触即発と思われていたアテナイとスパルタの戦が回避されたこと、この時両国に結ばれた友好条約が、それから200年後のペロポネソス戦争まで破られることがなかったことのみである。

バルカン半島南部、ペロポネソス半島、エーゲ海の島々に 数百以上あった都市国家が統一され、ギリシャという一つの独立国家が成立するのは、それから二千数百余年、19世紀のギリシャ独立戦争を待つことになる。






Fin.






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